考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

己の定義する芸術とは~『地獄変』読書感想とともに~

芸術という言葉の意味自体は辞書を引けばよいとして、今回は、私個人が芸術性を認めたり、芸術的と呼ぶ基準を記します。

 

 

参考図書をあげるとしたら、芸術とは何かと考えさせてくれた、芥川龍之介 著『地獄変』です。

装丁が気に入ったので、私は角川文庫を選びました。

 

改編 蜘蛛の糸・地獄変 (角川文庫)

改編 蜘蛛の糸・地獄変 (角川文庫)

 

 

感想

芸術家には孤独が不可避なのだろうか。

それは、外科医が人体の中を見るように、一般的には恐怖や悲しみによって嫌悪されるものを直視することで、物事を掘り下げるためにはその覚悟もしくは諦めが必要なのかもしれない。

芸術においては、その光景、そのときの感情を、直視した者にしか表現できない部分がある。

芸術を、もう一度見聞きしたい物、感性の或る点を刺激する表現、と解釈する私はそう思った。

 

 

己の定義する芸術とは

「芸術を、もう一度見聞きしたい物、感性の或る点を刺激する表現、と解釈する私はそう思った。」という部分にあるように、私は芸術を、“もう一度見聞きしたくなるような、感性の或る点を刺激する表現”と捉えています。

仮に、“もう一度見聞きしたくなる物”だけだと定義すると、単純に自分に快感を与える物すべてを指すことになってしまいます。逆に、“感性の或る点を刺激する表現”だけだと定義すると、刺激されたくない部分を刺激する物も含むことになってしまって、感情が嫌な方向に動かされる物を許容してしまいます。

 

つまり、誰かにとってはそれが芸術的価値が高い物だとしても、私の感性が刺激されることがなければ、私にとっては芸術性を認められないということです。

これは市場価値にも適用される価値観ですので、高値で取引された絵画が私にとって芸術的な感動をくれるかどうかは、わからないのです。

市場価値(物の値段)が、そのもの自体の価値(誰かがどこかの時点で下す評価)と必ずしも一致しないということは、以前の記事でも触れました。

 

ogasiwa-maki.hatenablog.com

 

よって、自身が生み出したモノであっても、そこに芸術性を見いだせれば芸術と呼べる、というのが私の考えです。

元不登校児が大学に行かせてもらって

大学に行くメリットはこれだ!と思っていることを記します。

 

【大学不要論】に関する論議Twitterで目にする今日この頃です。

とはいえ昔から、「大学に行ってよかった」「大学なんか〇〇が行くところだ」「私なんか〇卒だから」と、いろいろな人が、いろいろな立場で、いろんな感想を持っているのを見聞きします。

結論を言ってしまえば、なんにせよ、本人が納得できる人生を歩むことができるのが一番いいですよね。

 

 

しかし、大学進学を迷っている若者にあえて助言をしようとするのには、様々な思いがあってのことでしょう。まずは、助言している人の動機を、幾つか想像してみようと思います。

 

学歴にこだわりがない自分を差し置いて、レッテルを張られた経験を持つ場合。

これは、大卒以外の学歴の人の中だけではなく、大卒の人の中にも居ると思います。

 

学生時代の経験よりも社会経験に価値を見出している場合。

自分が大学時代に時間とお金を無駄にしたと感じている人は、必然的にこう考えることでしょう。

あるいは、学生時代に探索と努力を重ねてきたのに、社会ではもっと難しい荒波に揉まれ、経験が邪魔をするような体験をした人は、こういう考えに至るかもしれません。

 

経済的な理由などで、大学に行きたかったのに行けなかった場合。

優秀な成績を修めれば学費が免除される、というケースも無いわけではありませんし私の身近にもそうやって国立大学を卒業した人が居ます。ですが、大学生の全員がそこまでの意志を持って大学へ行っているかというと、そうではないでしょう。学費が免除される制度は人数制限があるだろうことを考えても、誰もができることではありません。

たとえ学費が免除されたとしても生活費はかかりますし、少なくとも勉学に費やしている時間は働けないので、本業が学生であるか社会人であるかで収入は大きく違ってくることでしょう。

諦めざるを得なかった人からすれば、選択肢があって迷うことができる状況自体を羨ましく感じるのは、健全な心の動きだと考えられます。

また、「当時は行きたくても行けなかったけど、今になって思えば行かなくて正解だった」と思っている人にとっても、そう思える自分になるために必要な出来事だったかもしれません。

 

営業をかけている場合。

大学進学を迷っている人を自分の都合のよいほうに誘導することで、利益を得る目的がある場合です。これは、ビジネスとしての勧誘であり、老婆心からくる助言や個人的な意見とは別の種類のものです。仕事内容に誇りを持っていれば、個人的な気持ちも伴うでしょうが、利益が発生するかどうかは大事な要素です。

誰かの言葉を情報として整理するには、“損得”が言動の動機になっている人の存在も意識する必要があるでしょう。

 

 

 

私の大学進学の話

 

現在、うつ病で療養中の私ですが、小学校4年生のときに自律神経失調症になって、それから中学卒業まで不登校でした。

 

高校は、校則や指導が厳しい私立へ行き、世の中的に偏差値が低いながらも勉強をして、学校の方針に従って大量の課題に取り組み、学級委員をやり続けて、大学に推薦してもらいました。

 

 

私が大学へ行こうと思った理由は、大きく分けて2つあります。

ひとつは、教員免許を取得してみたかったことと、専門科目をもう少し深くやりたかったこと。

もうひとつは、自分の全く知らないことを知ってみたいということ。でした。

 

2つ目の動機をもう少し詳しく解説すると……。

それまでの生活圏外に4年間通う日々を送って、学部の違う友人を作ったり、独特そうな教授の研究室にお邪魔してを聞いたり。卒業に必要な科目以外にも少しでも気になった講義を受けられる、という環境に身を置くことでした。

これは、大学にお金を払うことで得られる権利です。

 

 

大学へ行くことの利点は、まさにここにあると私は思っています。

それまでの人生で出会わなかった人と出会う機会や、自発的に興味を持つほどの知識すら持ち合わせていなかった学問の片鱗に触れる機会を、ある程度の範囲で受動的に得られるということです。

そして、その環境にある人が、学生だと思うのです。

 

 

私個人的には、大学に行かせてもらったことは、広い意味で学んだことが多く、自分の人生に必要で有意義な体験でした。

「大学に“行かせてもらった”」と私が表現するのには理由があります。小さな世界で生きていた、自分の人生を続けていくのに必要な学びが足りていないという自覚を持っていた私を、応援してくれた家族が居たことに感謝しているのです。親が金銭的に協力してくれなかったら、地元を離れて進学して、知らなかった人たちや事柄と出会う機会を、私は得られませんでした。

 

 

仮に、「Fラン私大の文系なんて金と時間の無駄」とバカにする人が居たとしても、私は、傷ついたり惨めな気持ちになったり、腹が立ったりしません。私にとって大学に行かせてもらったことに充分な意味があるから、無駄になっていないからです。

私と違った学歴の人のことを、その学歴だけでバカにすることもしません。

だからといって、誰かの学歴や経歴を知ることに意味がないとも思いません。その人の才能や努力や興味の方向が、学歴に表れていたりするからです。

 

 

自分の人生に向き合ってみたり、目標を持って頑張ったり。

「やってみたい」と思ったことをやってみられる経験をしたり。

友人関係で悩んだり。

直接関わることのないはずだった世界を垣間見たり、ずっと抱えていたものを表す方法を知って視界が開けたり。

私にとって大学はそういう体験の、きっかけの場でした。

幼い頃・星空の絵の思い出

子どもの頃のこと。小学生になっていた年齢だったかどうか、あやふやな時期のことです。

実家は店をやっていて、家族で遠出することがほとんどない家庭でした。

父はサラリーマンで、仕事が忙しい時期には朝早くに家を出て夜遅くに帰って来るので、何日も顔を合わせないこともありました。

母は主婦でしたが、私たちを育て店の手伝いをして、パートに出る時期もありました。

祖母が店主で、祖母が家族で一番の発言権を持っていました。

 

ある日の昼下がり、私は居間でひとりで絵を描いていました。幼い頃から身体が強くなかった私は静かにひとりで絵を描く遊びをよくしていました。

そのときはたまたま、夜空の絵を描いていました。

空に、気の赴くままに星を作っていきました。そうしていると、母が私の隣に来て声を掛けてくれました。私の描いている絵に興味を持ってくれたように、珍しく一緒に描いてもいいかと言って、ふたりで星を描き込んでいきました。そんなことは滅多にあることではないので、嬉しくて楽しくて、この出来事とこの気持ちをずっと憶えていたいと思いました。私はすっかり舞い上がっていました。

そんな私を見て母は気を良くしたのか、この絵を居間の箪笥の側面に貼ろうと言ってくれました。私は、きっと明日からも、毎日この絵を見るたびに、今日の出来事とこの気持ちを思い出すことができるのだと思うとすごく幸せでした。

 

翌日、目を覚まして居間に行くと、きのうの絵は箪笥の側面にはありませんでした。

母は怒っていました。その理由は、祖母が怒ったことでした。祖母の怒りの原因は、居間という人目に触れる場所に、描いた絵を勝手に貼ったことでした。

 

きのうの絵を見ること、きのうの楽しくて嬉しい体験を思い返すことに心を躍らせていた私は、絵を剥がした母に、どうしようもなく嫌な気持ちを伝えたくて駄々をこねました。気持ちを表現する言葉を多く持たない当時の私は、言葉になりきれない気持ちを抱えた不快感でいっぱいでした。

駄々をこねる私と、その対応に困窮し怒りをにじませる母。そんな構図をどうにか作り上げても、気持ちが伝わっていない感覚がありました。

私にとっては、祖母に叱られたって構わない母でいてほしかったのです。しかしそれは姑の居る家に嫁に入った母には無理なことでした。それは私が幼くても、感覚的に知っていることでした。なので、ふと、私に責められている状況に置かれた母に対して、同情のような理解を少し持ちました。

どんないざこざを経ても、きのうの絵を元通りにしてくれれば、いいえ居間に貼ることが叶わないなら絵を私にくれればそれでいいのだと、激しい感情の中の欲求を自覚しました。治まらない感情を抱えたまま、考えは過去を切り捨てて進み始めました。そして駄々をこねるという恥ずかしい行為から、あの絵を返してほしことを伝えるという行為に、意識的に移りました。

 

あの絵をどうしたのか、せめて絵を私にくれないか、母を問い詰めてわかったのは、絵はもう捨てられてしまったことでした。

私が“絵”と認識していたものは、捨てられた瞬間に“燃えるゴミ”になったのでしょう。

 

悲しいのにその悲しみをうまく表現できず、怒りとして母を責めてしまうことに疲れを感じました。どうしても納得できないのに、それを誰にどう伝えようと伝えなかろうと、過去は返ってきません。私の元に残ったのは、母の怒りと罪悪感と、祖母の怒りと、自分の暴れるような感情でした。

このとき私は恐らく生まれて初めて、済んでしまったことは割り切って、感情に飲み込まれない“今”に目を向けることを選びました。

 

何をしていても過ぎる“今”を、過去に囚われた感情に任せて“嫌な今”を続けていくのか、何か別の今を迎える方法があるんじゃないか、あるとしたらそれを選んだ方が自分にとっても周りにとってもいいんじゃないかと考えました。次から次へと溢れる感情を置き去りにして、“今”を日常に戻そうと頭を動かしました。そうしているうちに、嫌な感情は少しずつ、流れて、薄まって、消えていくようでした。

感情をコントロールしたという実感に、「きっと、こうやって大きくなっていくんだ」と、人間という理性を持った生き物として生きていくことを思いました。

 

こうして私は、“一度失ってしまったものは、物も感動も、二度と返らない”ということを学びました。

うつ病の根底に発達障害を疑ってみた【障害の捉え方】

反復性うつ病性障害の 小柏まき です。

子ども時代から、自律神経失調症になったり、うつ病に繰り返し罹ったりしてきました。

なにか根本的につまづく原因があるから、何度も同じ場面で転んで痛い思いをしなければいけないのではないか? そう考え始めたのは学生時代でしたが、その原因が見つからないまま、ままならない人生を送ってきました。

 

そんなとき、ふと気になったのが、『大人の発達障害』という言葉でした。

ここ数年で発達障害を扱うメディアも増えてきて、認知度が高まったように感じます。また、色々な人が個々に発信する活動も、インターネット上で多く見受けられます。このことは専門的で極端なものとは違った情報を摂取するのに、非常に役に立ちそうでした。

発達障害と診断された当事者。自分は、あるいは身近な誰かは、発達障害なのではないかと思って診断を受けるかどうか迷っている人。複数の障害を併発している人。障害の有無もその重さも、立場も考え方も、性格も、様々な人が関わり合い情報を交換できる環境が生まれているように見えました。

 

手始めに、YouTube発達障害当事者の動画を幾つか視聴してみました。テレビの特集コーナーで取りあげられるような、オーソドックスで限定的な知識しかない私にとって動画の視聴は、受動的に情報を得るのに便利でした。

同じ人の動画を幾つも観ていくと、その人がどういう人なのかが、少しだけわかってきます。例えば、どういう経緯で診断を受けて、その診断をどう受け取って、何を発信したくて動画を作っているか、というような考えに触れることができます。

私はこうして、何人かの人の動画を観て、その人達に興味を持ち、コメントをしてみたりして関りを持ってみました。

 

他にもSNSで、発達障害と診断された人やグレーゾーンの人と、関わりを持って言葉をやり取りしてみました。

 

とても当たり前なのですが、目立って発信している人が、そのことに関する代表ではないということを感じました。

どの人も、違った性格で、違った状況で、それぞれの考えを持っていました。

数人の当事者と、数カ月の間、インターネットを介してでも実際に関わってみたほうが、どこかの専門家の本を読むよりも、ある面では学ぶことが多いのかもしれません。少なくとも、専門家的な視点の知識とは別の、個々の人間の実生活を垣間見ることができますし、障害と名のつくものは“その人を構成する要素のひとつ”なのだと感じられます。

 

知識を得ると、自分も当てはまるのではないかという気がしてくる、ということはよくあります。

私は精神科の主治医に直接、考えていることを話してみました。すると主治医曰く、問診した限りでは、私には発達障害の要素は無さそうとのことでした。

しかしながら、例えば自閉症スペクトラム障害は、「スペクトラム」という言葉が「連続体」という意味である通り、はっきりと分類するのは難しいものなのだそうで、主治医自身にも「自閉的傾向がある」と言っていました。

そこで私は2つのことを学びました。ひとつは、私は自閉的傾向がある定型発達の精神疾患者であろうこと。もうひとつは、私は共感性が高く感情移入しやすいので、心を大きく動かしそうな情報を摂取するのは、心に余力があるときに限ったほうがよいことです。

 

 

私の個人的な “障害”というものの捉え方

「〇〇障害」というのは、「日本人」「女」「B型」というのと同じように、把握しやすいようにザックリ分けた呼び方で、それ以上の意味はないと考えています。

例えば、「日本人」という言葉にはどういった意味があるでしょうか? 日本国籍を持っていることかもしれませんし、何代前から日本生まれの日本育ちの人を指して言う場合もあるかもしれません。言葉の正確な定義と、その言葉から受ける印象が必ず一致するとは限りません。ですので、人によって受け取り方が違うものなのかもしれません。

それらの私の受け取り方は、『ザックリ分けた呼び方』だということです。それ以上の意味はないと考えていますが、それ以外の意味があることを知らないわけではありません。それ以外の意味というのは、例えば、B型だから輸血する血液もB型のものを選ぶということなどです。

 

 

自分が発達障害に当てはまりそうにないということは、うつ病を繰り返すことの根底にある原因の目星が、今回は外れたということです。

私のうつ病の根底に、何があるのか? あるいは何もないのか? また探して、一つ一つ可能性を当たっていくことを、気長にやっていこうと思います。

【参】9年半付き合った恋人(躁鬱)の看病【私編②】

私編②です。私編①はこちらから↓

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首吊りの輪

あるとき、部屋の中に首吊りの輪を見つけました。彼が暮らしているワンルームに憚ることなく下がった紐は、彼の死にたい気持ち、死にたくない気持ち、もっと自由に楽に生きたい気持ちの表れのようでした。

首吊りの紐に対して、どういう反応が正しかったのかは、わかりません。その紐を取り去ってしまうことは簡単なことでした。しかしそれは、彼の意思表示を取り去ってしまうことのように思えました。

私は紐の一か所にハサミを入れて、輪を切りました。一見すると元の通りなのに、いざ首を通そうと輪を広げると切れていることに気づく、“吊れない紐”を残しておくことにしました。

彼の意思に対して、私の死なないで欲しいという意思表示をしたつもりでした。

よくも悪くも、彼がそのことに気づくことはありませんでした。

 

腕切りごっこ

彼とは恋人同士で、家族のようで、友達のようでもありました。

友達のように、一人の趣味に付き合っているうちに二人の趣味になるということもあり、面白そうなものを買ったり作ったりして遊ぶ、ということもありました。ですから、彼が血糊を持っていたことは知ってはいました。

ある日、その日の私は貧血で体調不良でした。

少し目を離したあと、彼が「腕切った。痛い」と言って血の滲む腕を押さえていました。私は半信半疑ながら、本当だとしたら手当てをしなければと、水道で血を洗って傷口を見ようとしました。すると、それは血糊だとネタばらしされました。きっと彼は、私が笑って許すことを想像していたのでしょう。

ですが私は、貧血にショックと安堵が重なって、酷い耳鳴りと共に目の前が真っ白になって吐き気がして、その場にうずくまってしまいました。

彼は興味を失ったようで、私のそばから離れて行きました。

 

女友達

彼にはゲームをする習慣がありましたが、私にはなく、彼に少し付き合う程度でした。彼が一人でゲームをしていても、自由に過ごしてくれていたらいいと思っていました。

オンラインゲームで知り合った人と直接連絡を取り合うようになり、オフ会に始まり、誰かと遊びに行くようになっても、普段私としか関りがなかったことから、いいことだと考えていました。

ある日のこと。女友達からの連絡で、彼の部屋に来たがっているらしいと聞かされました。恋人と同棲状態だと言うと「彼女さんがOKなら」と、飲み会を開きたがっているそうでした。

問題は、女友達に彼の病気(双極性障害)のことも私のうつ病のことも、話していないことでした。そもそも、彼が病気でないことになっているのなら、私は何をしていることになっているのでしょうか?

もちろん私は嫌がりましたが、彼は乗り気なようなので、「ここは貴方の部屋だから」「私もどこかに遊びに行こうかな」と言って、どうせなら大江戸温泉物語にでも行ってみようかと考えました。

彼の反応は、私の理解を超えていました。「そこまで考えてくれてるんだったら、まきが一泊するお金出すよ」と。このとき既に、彼には散々お金を貸していたので、わけがわかりませんでした。そして一駅先のビジネスホテルを勧めてきました。私は気分転換のつもりだったので、「そのホテルの近くに何かあるの?」と訊くと、そういうわけではありませんでした。ますます意味不明で、怒りと呆れで、まともに取り合うのが馬鹿々々しくなりました。

結局、「彼女としてOKではない」、理由は病気を隠しているから、と伝えました。

 

その後、オンラインゲームで他の外国人女性と知り合って、毎日のように長電話していた時期もありました。同じ部屋に居るのに、たとえ私が体調不良を訴えようと、彼はまるで私の存在に気づかないようでした。

 

盗撮

彼が何気なくデジカメをいじっているとき、いつ撮影したのかわからない動画を再生していました。そこには彼と私の行為が映っていました。隠し撮りでした。

一人のときに観ているのだと言っていました。そのときには、大して深く考えませんでした。

時間が経って、改めて考えてみると、元彼がデータを持っているかもしれないことに、恐怖を感じるようになりました。しても仕方のない最悪の想像をして、意味のない不安を抱いて、心地悪くなります。

 

生活保護

私の自由にできることは、し尽してしまって、金銭的に厳しくなりました。彼には援助してくれる親族はいませんでした。そこで生活保護の受給を勧めました。

誘っても彼は役所に行きたがらなかったので、初めは私一人で役所へ行って、わかる範囲で話をして、話を聞いて来ました。

「続柄は?」と訊かれても、夫婦でも血縁でもないので、面倒でした。生い立ちや、職場の対応などは、彼から聞いて知っている範囲でしか答えられませんでした。

私にとっては、地元でもなく現住所の所在地でもない役所でした。方向音痴で人見知りの私を動かしていたのは、“彼のため”という思いでした。

結局彼は、生活保護を受けて暫く暮らしていました。

その後のことは、彼と別れてから連絡もつかなくなったので、私の知るところではなくなりました。 

 

たとえば今、元彼が何かに困っていたとしても、不自由なく暮らしていたとしても、それはもう私には関係のないことで興味が湧かなくなりました。

 

元彼にされた数々のこと、浴びせられた言葉や取られた態度を、なにかの拍子に生々しく思い出してポロポロ涙を流して息が苦しくなるようなことが、数カ月前まではありました。

元彼のためだけに生きていた私は、自分の中から“私”というものを追い出してしまっていました。人ひとり分の権利も価値もないのだと諦めていましたし、自分の気持ちというものがわからなくなっていました。

酷いことをされたのだ、惨めな目に遭ったのだと認めるのに、時間がかかりました。

 

やっと、今になって、過去を過去と認められるようになってきました。

【弐】9年半付き合った恋人(躁鬱)の看病【私編①】

あらましに引き続き、私編①です。あらましはこちらから↓

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彼は元々、別の地方に住んでいました。私が居るという理由で、飛行機が必要な距離を越えて上京してくれました。彼曰く、昔から東京に興味があったことも一因ではあったそうなのですが。私と付き合っていることが上京のきっかけにはなったと思います。
付き合い始め当時、私は学生でした。彼は正社員として働いていて、上京を機に転職しました。

 

上京・転職が彼の精神疾患のきっかけになったかもしれないことに、私は少なからず責任を感じていました。

それが正当なものだったか、自意識過剰だったか、今になっても判断はつきませんが、責任の取り方が結果的に度を超したものになっていたことは今ではわかります。私は「自分のために精神疾患を患ってしまった恋人」がもし死んでしまったら自分のせいだと考えていました。

また、彼の親族は皆地元にしかおらず、近くに頼れる人が居ませんでした。私が看なければと一生懸命になり過ぎて、「誰かに相談してもわかってもらえないだろう」「別れろと言われるのがオチだ」と思って一人で全部を背負いました。

 

彼がほぼ寝たきりの状態だった頃の私の日常は、起きたら水で洗面をして、髪は手探りで一つに束ね、安定の組み合わせの服に着替え、外出時は常に「こうしている間に彼が自殺していたらどうしよう」と急いでいて、いつもすぐに脚に疲れが溜まってパンパンになっていました。

だからといってずっと外出しないわけにはいきませんでした。食べ物や日用品以外にも、飲み水からなにから調達する必要がありました。彼は水道水は飲まなかったのです。

しかし、スーパーへは徒歩で行くには少し遠く、自転車によく乗りました。自転車を買うときに、私は後ろにもカゴが付いているものがいいと意見したのですが、彼は見た目がよくないという理由で前カゴしかないものを選びました。

どうしても沢山のミネラルウォーターや食料を調達する必要があるときには、前カゴに入りきらない分の荷物はレジ袋に入れて腕に掛けて運びました。レジ袋の持ち手が腕に食い込んで痛いのですが、進んでいれば着く、腕が千切れることはない、と自分に言い聞かせました。

 

いったい何日、何週間、何カ月、まともに鏡を見なかったのでしょう?

恐らく同年代の女性だったら、洗顔後はスキンケアをして、化粧をしなかったとしても日焼け止めは塗ることでしょう。髪も、伸ばしっぱなしで邪魔だから束ねるという人は、多くないでしょう。子育て中のお母さんの気持ちが、少しはわかるのではないかと思いました。

気が休まる時間はなく、必要なことはやる以外の選択肢はなかったので、私は当時それまでと比べて痩せていました。しかしそのことに気付いたのは暫くしてからでした。鏡をまともに見ないだけではなく、体重計に乗ることもずっと忘れていました。

 

彼がつらそうにしていると私もつらくなって、寄り添いました。彼がイライラして語気を荒らげて何か言うと、反省して言いつけを守りました。

 

私の髪はロングだったのですが、床に落ちている長い髪の毛を彼が嫌って「どうにかして」と言われた日には、掃除をして、自分で自分の髪を切りました。彼が気付いたのは数日後で、褒めてくれたり感謝してくれたりはしませんでした。

 

彼の状態がよくなり、復職に向けてリハビリ的に短時間出社するようになったとき、夏の暑い日に私は彼のアパートで一人、彼の帰りを待っていました。いくら私が滞在していても、そこは私が本来居るべき場所ではなく、彼の部屋なので、エアコンをつけて電気代を掛けるのが悪い気がして我慢していました。

暫くして、彼が岐路につく頃に、彼から連絡がありました。気温が35℃を超えているからエアコンをつけていいという、許しの内容でした。私は、「彼が私を心配してわざわざ連絡してくれた」「今までエアコンを付けていなくてよかった」と思うと同時に、「私一人だと35℃を超えないとエアコンも使ってはいけないんだ」「生活保護でも保障される程度の、基本的人権は、私にはないんだ」と、ぼんやりした頭で考えました。

 

復職に向けて出勤し始めて、また休みがちになる、ということが何度か繰り返されました。

彼はそのたびに、酷く落ち込んだりイラついたりしました。

病院での薬の処方も変わり、離脱症状や副作用にも悩まされました。

 

そんなとき、障害者手帳の交付基準を満たしているのではないかという話になったのは、主治医がきっかけだったでしょうか。

軽いうつ病では、まず交付されないらしい精神障害者保健福祉手帳が、躁うつ病と診断されて長いことから勧められたのだと思います。障害者手帳は、持っているとサポートしてもらえる場面があるというよい面がありますが、持っているが故に損をするということは基本的にはありません。つまり、偏見の目によって“障害者”と括る基準になること以外は、マイナスなことはないのです。

病院で診断書を貰って、市町村役場に申請してから、都道府県から交付されるまで、1カ月くらいかかったでしょうか。申請しても交付されるまで、審査に通るかどうかはわからないのでした。

よかれと思っての申請でした。しかし審査がどうかというのが、彼の大きな気がかりになったようです。「もし審査に通らなかったら、薬を飲む意味もわからない」と頭を抱えて落ち込んでいるのを見ると、手帳があろうがなかろうが彼自体がなにか変わってしまうわけではないという私の考え方は、一般的には偏見がなさ過ぎて感覚的に通用しづらいものなのだと思わされました。結果的には手帳の交付によってこの問題は解消されました。

 

こうして私は、無力感を強くしていき、自分の価値を見失っていきました。

 

【私編②】に続く。

あの星たちのひとつ

雲の向こうには天の川、沢山の星たちが光っていたのでしょうか。

亡くなった人を「星になった」と言うのは、どこか遠くで見ていてくれると思いたいからでしょうか。

星は、人々の幸せを願っているのでしょうか。

 

個人的に、儀式はそれを行う生き物が精神を安定させるためにあると考えています。

それは人が死んでしまったときも同じで、告別式も火葬も、遺された人間のためのものだと思っています。だから年月を重ねるほど、徐々に儀式は頻度を下げていくことで、生きている人々は生きていない人のことを想う頻度を下げて、大きな支障なく暮らしていけるくらいに忘れられるのではないでしょうか。

 

私の生まれ育った“それなりに便利な田舎” では、親戚同士が近所に住んでいることが多く、私の家の近所にはとこが住んでいました。親同士がきょうだい=「いとこ」で、親同士がいとこ=「はとこ」です。

彼女は私と年齢が近かったわけでもなく、かといって親子ほど離れているというわけでもない、年上の人でした。特別に仲が良く頻繁に行き来していたというわけではなく、どちらかというと彼女の子どものほうが歳が近かったために、一緒に遊んだりしていました。

そう、彼女は私が子どもの頃に別の場所へ嫁いで、若い母親になっていたのでした。 たまに里帰りして来て、そういうときに顔を合わせるようになっていたのでした。

親よりも年齢が近く同性で年上の身近な人というのがほとんど居なかった私には、自分がこの先に辿るであろう人生の一つの成功例のように見えていたように思います。

 

狭い田舎では人の噂話が多く、更にそこに血縁者が多いとなると過去の不義理や過去の恩に囚われたりすることも多く、「世間体」というものに重きを置かれているものです。それは結構な大きさで日常に入り込んでいるので、世間体を気にして言動を選ぶことは珍しくありません。

 

はとこが深刻な病気だということは、彼女が亡くなるまで知りませんでした。

きっと、近所の人に口外するとすぐに広まって、お見舞いをしたがる人が出てきて気を遣い合って余計に疲れてしまうことを予期してのことだったのでしょう。

彼女は旦那さんに、「いい人が居たら再婚していいんだからね」と言って、この世を去ったそうです。

 

「再婚しないで」と言われたほうが“これからもずっと好き”と言われているみたいで嬉しいか、それともその言葉に縛られて生きることになるのか。

「再婚していい」と言われると寂しいものなのか、自分が居なくなってからも生きていかなくてはいけない伴侶のこの先の人生を想った愛の言葉なのか。

それはその夫婦によって違うのでしょうし、きっと本人たちにしかわからないのでしょう。

 

七夕の日に旅立った彼女は、星になったのでしょうか……。 

 

 

今週のお題「星に願いを」