考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

不登校体験をブログに書いた理由

日記帳を買っても数日に一度しか書かないので、1年用の日記帳が数年間もつ 小柏まき です。

 

私のブログは日記的な要素があまりありません。

その理由と、前回の記事をアップした感想を、記します。

 

 

前回の記事はこちら↓

ogasiwa-maki.hatenablog.com

 

 

前回の記事の感想

 

書いてみて、一つの記事を何カ月も少しずつ書いて、やっと書けた。

私がブログに書き記しておきたいことのひとつ。

本当にコンプレックスだから、恥ずかしいから、知らない人がいっぱい居るから、書かなきゃいけなかったこと。

私はひとりぼっちだったけど、たまたま環境や人や運に恵まれて生きてこられた。

 

あるか無いかわからないことだけど。

もし誰かが、ひとりで、生き苦しさを抱えていて。

もしかしたら、今でも、数カ月先でも、数年先でも。

光る四角い画面を見て、「不登校で ずっと死ぬことを考えてたけど大人になるまで生きた人が居たんだ」って思って、ほんの少しでも生きる力になったら。

 

体調が悪くて嫌になっても、自分の馬鹿さに気がついてしまっても、人に迷惑をかけていることが情けなくて申し訳なくても、“自分は居て いいんだ”って思うきっかけになれたら。

私がずっと、いろんな人に助けてもらって、今まで死なずに来られた、恩返しの欠片になるかもしれない。

 

 

私のブログが日記っぽくない理由と不登校体験談を書く理由

 

もともと、うつ病の快復期の考えを可視化して、自分で読むためのものとしてブログを始めました。

誰かが読んでくれるかもしれない場所にアップすることで、自分の中で言語化されずにいた思いや考えが引き出されやすいことをうまく使っていけたらいいと思いました。

 

私自身を形成する要素として、今の反復性うつ病性障害に繋がっているかもしれない事柄や、人格生成に関わる不登校体験を書く必要がありました。

そして、どうせ体験談を書き記すなら、似たような体験で苦しい気持ちでいる人の役に少しでも立てたら嬉しいと考えました。

 

私の知っている範囲ですら、元不登校で教職課程を履修していた人は何人か居ます。ということは、全国的に長期的に範囲を広げれば、不登校児から教員免許を取得した人は、そんなに珍しいというほどのことではないのかもしれません。

ところが、不登校の実態や、特に適応指導教室の存在や内実などを知っている人は、教育現場に携わっている人でも案外少ないと個人的に感じてきました。

 

具体的には、私が中学生の頃。適応指導教室に通っていたときに、周りの児童生徒たちと一緒に大きな公園へ行ったときに会った、学校教諭でした。

ちょうどその日に近くの学校の課外授業か何かで居た生徒たちの引率をしていた先生でした。平日の昼間に公園に来ている小中学生(私たち)を見て、「今日は学校どうしたの? サボり?」と声を掛けてきたのでした。その公園から数百メートルの施設に、適応指導教室があることを、その先生は知らなかったのでしょう。

普通に学校に行くことができないことで自分を責めたり、自分の思い通りにいかない体調に苦しめられたり、常日頃から葛藤や悩みの中にいて、それでも適応指導教室には通える状態の私たちにはグサッとくる言葉でした。友人たちは皆、少し落ち込んだ様子でした。私は黙っていられなくて「サボりじゃないです」と言いました。

 

他には、大学の教職課程の『教職に関する科目』の授業でのこと。私が発表の中で、適応指導教室について少し話をしたら、その授業の先生(心理学を専門とする准教授)から、適応指導教室とはどういうものどうかと質問されました。

 

教育に関わる仕事をしている人が、これだけ知らないのは、知るきっかけが無いからだと思っています。

自分が通ってきた道以外の道を知るというのは、それなりの興味を持つ必要があると考えますが、まったく知らないものに興味を抱くというのは無理なので、ある程度受動的に“知るきっかけ”が要るのです。

 

 

人は誰でも、自分の人生以外を生きてみることはできません。

自分以外の誰かを理解するのに大切なのは、想像力と共感性かもしれません。

私がもっているモノを見える位置に置くことで、誰かが他の誰かを想像する材料になったり、これを読んだ人が自分自身を知る材料になれば……いやこれは本当に「あったらいいな」で、私以外の誰の役に立たなくとも、充分第一義は果たしているのです。

不登校体験談③中学時代『進路指導室』『適応指導教室』

小学4年生の途中から不登校になった 小柏まき です。

中学生になったら、何かが変わって普通に学校に行けるようになるかもしれないと、根拠のない淡い期待で現実逃避していました。

 

授業を受けていなくても、勉強をしていれば中学受験をして私立の学校へ進むという道もあったかもしれませんが、私は全く勉強をしていませんでした。

そんなわけで、小学校の同級生のほとんどと同じ、地元の公立中学校に席を置くことになりました。入学したての頃、ホームルームに参加したことがありましたが、ずっと担任教諭の目を見ながら話を聞いていたのでとても疲れた記憶があります。

 

ずっと連続して学校を欠席していた私にとって、クラスメイトは知らない人ばかりでした。しかし向こうは私のことを聞き知って気を遣っているような、なんだか少しだけ白々しいようなよそよそしいような、それでも私も気遣ってもらうのは忍びなく感じてしまう、そんな微妙な距離感でした。

 

うちの中学校には私と同じ小学校以外に、隣町の小学校出身の生徒が何割か居ました。そういう生徒たちが新しい交友関係を作っていくのを頭のどこかで想像しつつ、自分に置き換えて考えてみると、コミュニケーション能力や日頃の過ごし方や学力などすべてにおいて「自分には無理だなぁ」と思いました。

 

その頃この国は、不登校に問題意識を持った大人たちが不登校児童生徒の受け皿を作り始めたばかりの時代でした。

私が中学校に入学したした年に、同校内に『進路指導室』という名前の部屋ができました。名前こそちゃんとしているものの、どう見ても年に一度出番があるかどうかの物が棚や壁際に積まれていて、その光景は倉庫(物置?)そのものでした。そこには、昔保険室の先生だったという老齢の先生が居て、なんということもない会話をしたりして過ごしていました。

進路指導室には、私以外に先輩が何人か来たり来なかったりしていました。

 

 

中学1年生の途中で、適応指導教室というものの存在を知らされました。

適応指導教室は、進路指導室と違って学校とは別の、自治体が運営するフリースクールのようなものでした。

学校の進路指導室で一緒だった先輩が、適応指導教室に通うようになって、過ごしやすい場所だと誘ってくれたのでした。

適応指導教室に行っても出席日数がカウントされると聞かされて、高校に行くのに不利にならないかもしれないと思いました。結果的には「適応指導教室 出席」という風に、学校に出席するのとは違う扱いでした。

それでも、どんな場所なのか興味を持ったので、見学に行きました。

 

最寄りの適応指導教室は、市の建物で、運営も市がしていました。施設の関係者とは別に、教室がある日は常に3人の先生がいました。そのほかに、曜日ごとにボランティアさんが来ていました。

建物には、ラウンジに幾つかのテーブルや椅子があって、そこには飲み物の自動販売機や本棚に本が並んでいました。他にも、オセロや将棋もあって、それらを使うのも自由でした。また、体育館や、小さめの調理室のような部屋、小さめの静かな個室などがありました。

基本的に、どの部屋で何をして過ごすかは自由で、使った部屋や物は元通りに戻すという規則でした。

例えば、先生に勉強を教わりたい場合は、前もって先生に直接教科と時間をお願いしておいて、小さめの個室を使わせてもらうということもできました。

 

私も先輩と同じように、中学校の進路指導室ではなく、こちらの適応指導教室に通うようになりました。

 

市内の小中学校から来ているそれぞれの児童生徒たちは、住んでいる場所も、学年もバラバラでしたが、気遣い屋で精神年齢が高い印象の子がほとんどでした。

私たちはそこで、クッキーの材料を持って行って調理室でお菓子作りをしたり、体育館でバスケットや卓球やバドミントンをしたり、ラウンジで絵を描いたりお喋りしたり、天気のいい日にみんなで近くの公園を散歩したりして過ごしました。

 

ここで印象深かったのは、先生方が いい人しか居なかったことでした。先生の一人は、定年退職後の男性で、親しみやすい校長のような立ち位置でした。そのほかの先生方は、20代から30代前半でした。私が在籍中に、男女一人ずつから入れ替わりがあって女性2人になりましたが、新しく来た先生も いい先生でした。

 

ここでいう“いい先生”というのは、真摯に子どもと向き合って、話を理解しようとしてくれる大人でした。

お喋りをしたりしているときには、ふざけ合ったりもするのですが、どの子のことも大切に扱ってるのがわかりました。

私は、「こういう大人もいるんだ」と思いました。憧れて目標にしてもいいかもしれない存在として、もっと先生のことが知りたくなって、色々な質問をしたりしました。

 

これは、後に私が教職課程を履修する、きっかけの一つになった出会いでした。

 

適応指導教室で最も親しくさせていただいた先生とは、卒業後もお会いして語らったりしました。お互いの誕生日には、今でも毎年連絡を取り合っています。

 

“学校の教科担当の先生が面白い人だから、その科目を好きになる”というのはよくあることだと聞きます。

私は適応指導教室の先生に出会って、生きて年齢を重ねていくことを、肯定的に捉えられるようになった気がします。

心と心の距離

心同士の距離。

 

心と心の距離が遠いと、例えば相手がナイフを振り回していても、その刃が触れることはない。

もし触れてしまって怪我をしても、それは浅くてヒリヒリ痛いくらいで、すぐに跡形もなくなる傷にしかならないだろう。

 

心の距離が近づくと、少し手振りが大きくなっただけで、その手は相手の心にぶつかり傷つける。

 

心は、着飾れないし、武装もできない。ただ、隠すことはできる。

 

心と心の距離が近づいて、お互いの温度を感じられるくらいそばにあるとき。他のものでは得られないような嬉しさや安心がある。

これが、人との繋がりで感じる幸せで、「愛」と呼べるもののひとつかもしれない。

 

そういう人とは滅多に出会うことはないし、この人生でそういう人と巡り合うことなんて、とっくに諦めた、というかそんな可能性とは無縁な自分を受け入れていた。

 

無防備な心を相手の近くに置いて、例えるなら、刃物で刺されて血を流したり・殴られて奥の方が長い間痛んだり・縛りつけられて自由を奪われたり・晒されて侮辱されたり、というようなことを甘んじてしていた時期が、私にはある。

酷い仕打ちを、酷いと感じることができなくなっていた。ただの日常だったから。

 

結局、私の心は放り出されて動かなくなった。 

 

いつからか私の心は、私自身にとっても、掴みどころのないものになっていた。

心の底が凍り付いてしまったみたいだった。

人間らしく生きていくのに必要な支柱のひとつを失ってしまって、取り戻せないのだと思っていた。

 

“希望”の存在しない世界には、“絶望”も無かった。安定だった。

 

それでも、たまに虚しさを感じるくらいの心は残っていた。

 

 

どうして出会ってしまったのか、よくわからない。

すごく似ていて、全く違う、自分ではないから自分のもの以上に大切にできる。違う部分は新鮮で魅力的で、尊重したくなる。

そんな心を持った人に、出会ってしまった。知り合ってからも、存在を不思議に思うくらい、願ってもないような存在。

 

もしこれが妄想なら、感心するほどよくできた妄想だ。

もしこれが夢なら、醒めたときに「あぁ、いい夢だったな」と、その幸せで生きていけそうな夢だ。

 

ふたつの心は、嘘のみたいに、必然のように、通じ合っていった。

『月に叢雲花に風』───「よいことは、長くは続かない」たとえ、そうだとしても。今がここにあることは、何も変わらない。

雲が薄くかかった月を見て、風に揺れる花を眺めて、その瞬間を「綺麗」と言えるような心だから。

 

私がよろよろと少しずつ前に踏み出すとき、隣に居て。きょろきょろと周りを見回して、私にとっては進むだけで精一杯な道の上で、路傍の花を見つけたり見晴らしのよさに気づいたりして教えてくれる。そんな心が、今、一番近くにある。

そんな心の近くにも、私の心が居てくれたら、嬉しい。

自分を縛る呪い(コンプレックス)

アイデンティティの確立や人格形成に大きく影響を与えたひとつの事実が、正確にはひとつの事実に関する思いが、私にはあって、いまだに私はそのことに囚われています。

 

10歳の頃、自律神経失調症になりました。身体が怠くて起き上がれなかったり、頭痛や腹痛や悪心で、学校を休みがちになり、“普通”から外れる程、登校が怖くて嫌なことになっていきました。

 

家族は私の不登校を受け入れられずに、世間体と子育て法、将来の心配と現状の把握に混乱していました。

私自身も自分の状態がよく理解できずにいたため、「具合の悪さは、本当はサボりたい気持ちなんじゃないか」という罪悪感を抱いたり、家族から問いただされたり叱られたり怒られたりするたびに、自暴自棄になって内へ内へと閉じこもりました。

病院で自律神経失調症と診断を受けても、医師からは治療らしい治療も施されませんでした。

 

医学に縋れない人間は、神や仏などの、人知を超えたものに縋りたくなるものです。

 

親戚が、私の家族に“わかる人”を紹介してきて、家族がその人に私のことを相談して、あとで冷静に振り返れば詐欺に遭いそうだった、なんていうこともありました。

他にも、私の知らないところで知らない人に助言を請うていたようでした。

 

不登校という社会的地位の無さと、自分が自分の思うようにならないわけのわからなさと苦しさで、自己肯定感が持てなくなっていた私は、この世から逃げ出したい、全部を無くしたい気持ちになっていました。

 

理由があれば、打つ手も出てきて、行動をすれば解決するような希望を、人間は持ちたがるものです。

 

ある日、家族から告げられました。「死んだ子が業してるんじゃないかと思って」と。

私には元々、きょうだいがもう一人いたそうです。私の人生は、失われた命の上にあるようなものだったということを、そのとき知りました。

家族の発言は、失われた命が祟っているのではないか、という意味でした。つまり、私が“まとも”ではない原因は、私の生が人を犠牲にしたものだからではないか、ということでした。

その後、親戚に集まってもらって、お寺の本堂で供養を行ってもらいました。いとこ達は子どもだったので、「ちゃんと供養していない先祖がいて、気がかりだから」という風に説明をして出席してもらったそうです。

 

私は考えていました。自分が出来損ないなせいで、家族だけではなく親戚の時間も労力もお金も掛けさせてしまっている現実について。

それから、「もし私が命を失う側で、きょうだいが生きていたら」、「どうして私が生きてしまっているんだろう?」という答えがあるはずもない問いと、「私を居ないことにしてほしい」という気持ちに、憑りつかれてしまいました。

 

精神疾患を繰り返すたびに、その根っこには取り除けていない“何か”があって、その正体がわからないからいつも同じことで躓くのではないかと思ってきました。

自分の先天的な脳の性質や身体の弱さについて、複数の他者を知ることと、心理学や脳科学を少し知ることで、少しずつ自覚を持つようになりました。

私は子ども時代、自分は身体も強いし気も強いと、ずっと思い込むようにしていました。しかしそれは現実とはかけ離れていて、その食い違いから小さな無理を積み重ねて、それがキャパシティを越えてしまったのが、小学4年生(10歳)のときだったのかなと、今では考えています。

 

認知の歪みを矯正するべく、僅かずつ“考えグセ”を変える日々を重ねているつもりです。

 

『呪い』の正体は、思い込みです。

ならば、呪いを解くかどうかは、いかに自分を説得できるか、なのだと思います。

アウトプットによる精神衛生と他者との関り

うつ病の快復期にブログを始めた 小柏まき です。

 

精神疾患で社会生活から離れることを余儀なくされた人は、症状が酷ければ“何もしない”ということを意識的にして、心身の力を回復する必要があります。
しかし、精神疾患自体が健康な人から理解されにくい側面があることや、他者との関りが病気に悪影響を与えることから、物理的にも精神的にも孤立しやすいものです。一人で過ごした期間が長くなると、いろいろな人間関係が更に複雑になったり希薄になったりしていきます。

 

メンタルの不調が原因で、人間関係や情報摂取の制限をしてストレスから隔絶した環境で療養しようとすると、例えば友人とのお喋りのような、少しの負荷と共に承認欲求を満たすような活動をほとんど無くさざるを得なくなってしまいますよね。

ストレスから解放されようと選んでいる行動によって、それらの欲求を満たせなくなって自尊感情を低下させる、という皮肉な連鎖が生まれがちです。

 

 

そういった 欲求不満解消プラスα の効果を得られるのが、SNSの活用 なのかもしれないと、最近よく考えます。

 

近頃、うつ病仲間(うつ病減らスンジャー)のツイキャスを聞くことが、しばしばあります。そこでは“配信者の声”と“聞き手の文字のコメント”という形でコミュニケーションが成立します。と同時に、配信者がコラボする場合は配信者同士、また聞き手同士のコメントのやり取りというコミュニケーションも成立します。

こうした関りが少しずつ増えてくると、Twitterの140字内のつぶやきの向こう側に『人間としての相手』をより強く感じることができるような気がします。

現に、そうやって私と関りを持ってくれる方が居てくださることは、とても心強いことです。

 

 

自閉症スペクトラムと診断されてはいませんが、どちらかというと自閉的傾向がある私のようなタイプの人間は、そもそも友達を多く持ちたいと思うほうではなく、人との繋がりの数が比較的少ないので、数少ない友人関係が疎遠になると独りぼっちになりやすいです。

 

一人でいることが苦にならない性格を持っている人は、一人でできる趣味を持ちやすいと思います。例をあげると、楽器演奏・物づくり・作画・作文、などです。

また、情報を受け取る分野でも一人で掘り下げることができるものが多いので、知識を多く収集することができます。例をあげると、音楽鑑賞・美術鑑賞・読書・スポーツ観戦・映画鑑賞、などです。

 

うつ状態が酷いときなどはインプットもアウトプットもできませんが、徐々に回復してくると受動的に情報を吸収できるようになってきます。

インプット情報の量が多くなって、体力・気力が更に回復してくると、アウトプットをしたい気持ちになってきます。

 

このブログでは、反復性うつ病性障害や不登校について私自身の体験や考えを視覚化していますが、これは自分で考えを整理する場や備忘録的な役割を果たすと同時に、発信行為でもあります。

もしかしたら、鬱の快復期にはアウトプットする行為が必要なのではないかと、近頃感じることが多いのです。

 

何かしら発信している人は、同じカテゴリーに属する人と情報共有や意見交換の機会を得ることがあります。それが程よい距離を保ったコミュニケーションになれば、お互いが、知人・友人の関係になり得ますし、病気の快復に役立つと考えています。

 

表現行為は、情報的なモノでも芸術的なモノでもいいと思います。それが自己観察にも繋がり、同時に誰かに触れてもらうことで様々な欲求を満たしながら、人との関わりのリハビリになるのではないかと思います。

己の定義する芸術とは~『地獄変』読書感想とともに~

芸術という言葉の意味自体は辞書を引けばよいとして、今回は、私個人が芸術性を認めたり、芸術的と呼ぶ基準を記します。

 

 

参考図書をあげるとしたら、芸術とは何かと考えさせてくれた、芥川龍之介 著『地獄変』です。

装丁が気に入ったので、私は角川文庫を選びました。

 

改編 蜘蛛の糸・地獄変 (角川文庫)

改編 蜘蛛の糸・地獄変 (角川文庫)

 

 

感想

芸術家には孤独が不可避なのだろうか。

それは、外科医が人体の中を見るように、一般的には恐怖や悲しみによって嫌悪されるものを直視することで、物事を掘り下げるためにはその覚悟もしくは諦めが必要なのかもしれない。

芸術においては、その光景、そのときの感情を、直視した者にしか表現できない部分がある。

芸術を、もう一度見聞きしたい物、感性の或る点を刺激する表現、と解釈する私はそう思った。

 

 

己の定義する芸術とは

「芸術を、もう一度見聞きしたい物、感性の或る点を刺激する表現、と解釈する私はそう思った。」という部分にあるように、私は芸術を、“もう一度見聞きしたくなるような、感性の或る点を刺激する表現”と捉えています。

仮に、“もう一度見聞きしたくなる物”だけだと定義すると、単純に自分に快感を与える物すべてを指すことになってしまいます。逆に、“感性の或る点を刺激する表現”だけだと定義すると、刺激されたくない部分を刺激する物も含むことになってしまって、感情が嫌な方向に動かされる物を許容してしまいます。

 

つまり、誰かにとってはそれが芸術的価値が高い物だとしても、私の感性が刺激されることがなければ、私にとっては芸術性を認められないということです。

これは市場価値にも適用される価値観ですので、高値で取引された絵画が私にとって芸術的な感動をくれるかどうかは、わからないのです。

市場価値(物の値段)が、そのもの自体の価値(誰かがどこかの時点で下す評価)と必ずしも一致しないということは、以前の記事でも触れました。

 

ogasiwa-maki.hatenablog.com

 

よって、自身が生み出したモノであっても、そこに芸術性を見いだせれば芸術と呼べる、というのが私の考えです。

元不登校児が大学に行かせてもらって

大学に行くメリットはこれだ!と思っていることを記します。

 

【大学不要論】に関する論議Twitterで目にする今日この頃です。

とはいえ昔から、「大学に行ってよかった」「大学なんか〇〇が行くところだ」「私なんか〇卒だから」と、いろいろな人が、いろいろな立場で、いろんな感想を持っているのを見聞きします。

結論を言ってしまえば、なんにせよ、本人が納得できる人生を歩むことができるのが一番いいですよね。

 

 

しかし、大学進学を迷っている若者にあえて助言をしようとするのには、様々な思いがあってのことでしょう。まずは、助言している人の動機を、幾つか想像してみようと思います。

 

学歴にこだわりがない自分を差し置いて、レッテルを張られた経験を持つ場合。

これは、大卒以外の学歴の人の中だけではなく、大卒の人の中にも居ると思います。

 

学生時代の経験よりも社会経験に価値を見出している場合。

自分が大学時代に時間とお金を無駄にしたと感じている人は、必然的にこう考えることでしょう。

あるいは、学生時代に探索と努力を重ねてきたのに、社会ではもっと難しい荒波に揉まれ、経験が邪魔をするような体験をした人は、こういう考えに至るかもしれません。

 

経済的な理由などで、大学に行きたかったのに行けなかった場合。

優秀な成績を修めれば学費が免除される、というケースも無いわけではありませんし私の身近にもそうやって国立大学を卒業した人が居ます。ですが、大学生の全員がそこまでの意志を持って大学へ行っているかというと、そうではないでしょう。学費が免除される制度は人数制限があるだろうことを考えても、誰もができることではありません。

たとえ学費が免除されたとしても生活費はかかりますし、少なくとも勉学に費やしている時間は働けないので、本業が学生であるか社会人であるかで収入は大きく違ってくることでしょう。

諦めざるを得なかった人からすれば、選択肢があって迷うことができる状況自体を羨ましく感じるのは、健全な心の動きだと考えられます。

また、「当時は行きたくても行けなかったけど、今になって思えば行かなくて正解だった」と思っている人にとっても、そう思える自分になるために必要な出来事だったかもしれません。

 

営業をかけている場合。

大学進学を迷っている人を自分の都合のよいほうに誘導することで、利益を得る目的がある場合です。これは、ビジネスとしての勧誘であり、老婆心からくる助言や個人的な意見とは別の種類のものです。仕事内容に誇りを持っていれば、個人的な気持ちも伴うでしょうが、利益が発生するかどうかは大事な要素です。

誰かの言葉を情報として整理するには、“損得”が言動の動機になっている人の存在も意識する必要があるでしょう。

 

 

 

私の大学進学の話

 

現在、うつ病で療養中の私ですが、小学校4年生のときに自律神経失調症になって、それから中学卒業まで不登校でした。

 

高校は、校則や指導が厳しい私立へ行き、世の中的に偏差値が低いながらも勉強をして、学校の方針に従って大量の課題に取り組み、学級委員をやり続けて、大学に推薦してもらいました。

 

 

私が大学へ行こうと思った理由は、大きく分けて2つあります。

ひとつは、教員免許を取得してみたかったことと、専門科目をもう少し深くやりたかったこと。

もうひとつは、自分の全く知らないことを知ってみたいということ。でした。

 

2つ目の動機をもう少し詳しく解説すると……。

それまでの生活圏外に4年間通う日々を送って、学部の違う友人を作ったり、独特そうな教授の研究室にお邪魔してを聞いたり。卒業に必要な科目以外にも少しでも気になった講義を受けられる、という環境に身を置くことでした。

これは、大学にお金を払うことで得られる権利です。

 

 

大学へ行くことの利点は、まさにここにあると私は思っています。

それまでの人生で出会わなかった人と出会う機会や、自発的に興味を持つほどの知識すら持ち合わせていなかった学問の片鱗に触れる機会を、ある程度の範囲で受動的に得られるということです。

そして、その環境にある人が、学生だと思うのです。

 

 

私個人的には、大学に行かせてもらったことは、広い意味で学んだことが多く、自分の人生に必要で有意義な体験でした。

「大学に“行かせてもらった”」と私が表現するのには理由があります。小さな世界で生きていた、自分の人生を続けていくのに必要な学びが足りていないという自覚を持っていた私を、応援してくれた家族が居たことに感謝しているのです。親が金銭的に協力してくれなかったら、地元を離れて進学して、知らなかった人たちや事柄と出会う機会を、私は得られませんでした。

 

 

仮に、「Fラン私大の文系なんて金と時間の無駄」とバカにする人が居たとしても、私は、傷ついたり惨めな気持ちになったり、腹が立ったりしません。私にとって大学に行かせてもらったことに充分な意味があるから、無駄になっていないからです。

私と違った学歴の人のことを、その学歴だけでバカにすることもしません。

だからといって、誰かの学歴や経歴を知ることに意味がないとも思いません。その人の才能や努力や興味の方向が、学歴に表れていたりするからです。

 

 

自分の人生に向き合ってみたり、目標を持って頑張ったり。

「やってみたい」と思ったことをやってみられる経験をしたり。

友人関係で悩んだり。

直接関わることのないはずだった世界を垣間見たり、ずっと抱えていたものを表す方法を知って視界が開けたり。

私にとって大学はそういう体験の、きっかけの場でした。