考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

手を描くイメージ

 

急に絵が描きたくなるときがある 小柏まき です。

 

類は友を呼ぶのでしょうか、とてもゆっくり少しずつですが発信していると、有難いことに同じように絵を描くのが好きな人とお近づきになる機会があります。

絵を描く人には勝手にある程度の共感を持ってしまうわけです。

 

そんな中、手を描くことに苦手意識があるという方がいました。

どうやら、見たまま描いてるつもりなのに上手く描けないそうでした。

 

 

 

見たものをうまく絵にできない理由

二つの目で物を見ている私たちは、物を立体的に見ています。

例えば『手』のように、ひとつのまとまりのある物として見えていても、それを構成する視覚的情報はとても多いです。場所によって色が微妙に違っていたり、柔らかそう・硬そうなどの質感も、見れば見るほど小さな差に気づき、受け取る情報は多くなります。

その情報を平面に落とし込む、紙や画面の上で線や面で再現するには、線や面に変換できない分の情報をそぎ落とさなければなりません。

つまり、見ている物を単純に捉えられないから、絵が思うように描けないのです。

 

これは、私が考え出したことではなく、かといって美術の時間に先生に教えてもらったわけでもありません。

絵が好きで、描いて描いて描きまくって実力を培ってきた方が、教えてくれたことでした。

 

 

手をシンプルに捉えるには

手は人体の中でも器用に動く部分で、いろいろなポーズをとることができます。

しかしながら、どんなポーズをとっている手でも、それを構成しているモノに変化はありません。

簡単にパーツ分けしていくと、それぞれの指と、指を束ねている手の平部分に分けられます。

 

 

形が変わらない部分をイメージする

大きく動かせる部分ほど、皮膚に伸縮性とゆとりがあります。ここでいう“ゆとり”とは、シワになる分の皮膚です。

また、肉の部分も動きに合わせて形が変わる程度の柔らかさがあります。

というわけで、手を構成している材料で一番形が変わりにくい・硬いのは、骨であろうと想像できます。

 

 

骨格を描いて肉付けする

おおまかに骨格部分を描いてみて、それを補助線として肉と皮膚を付けるように描いていきます。

肉付けしてみて不格好に感じたときは、骨組みを見直してみると修正点を発見しやすいと思います。

描いてみたのがこちらです。

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薬指と小指が自然に少し曲がっているところを描いたつもりです。

 

 

自分の絵をこうして改めて見ると、まだまだ改善の余地がありそうで恥ずかしいものですが、深夜に思い立って試しに描いてみたということで自分を大目に見てあげようと思います。

 

冒頭で登場した、手を描くことに苦手意識を持っていた方に、投げたボールをくわえて走って来る飼い犬のように、この試し描きを添えて連絡しました。

すると、予想以上の反応と行動力を発揮してくれました。

まず、飲み込みが早くて、伝えたいことが伝わっている感覚がありました。そして、更には、すぐに手を描いて画像を送ってくれました。それから一日と経たずに、手のポーズを変えて描いては独自の研究を深めていくのが見て取れて、嬉しくなりました。

しかも「教えてもらいました」と私を立ててくれる気遣い、有難いことです。

彼女は私のTwitterのアイコンを描いてくれた方でもあります。

 

そんな彼女、 なな (id:iroiroyuruyuru)   さんのブログはこちら↓ 


www.iroiroyuruyuru.com

 

 

今回、私も意識的に手を描く機会をもらえました。また気が向いたときには描きたいように描いてみるつもりです。

絵に限ったことではありませんが、楽しめること・自分の心にとっていいこと、ってすごく大切だなと思います。

手の甲の皮膚は簡単につまめるのに、手の平の皮膚は……なんて見て触ってみるだけでも小さな発見があるかもしれません。

減薬チャレンジ

今月の通院後から、減薬チャレンジ始めました。小柏まき です。

 

 

薬を減らそうと試みるのは、現在お世話になっているメンタルクリニックに通い始めてから、二度目です。その前に通っていたクリニックでも一度やってみて、体調が悪くなってもとに戻す、という経験があるので、今回のうつ病になってから三度目の減薬チャレンジです。

 

 

現在、処方されている薬は7種類です。抗うつ薬3種類、抗不安薬眠剤、胃薬、痛み止めの頓服 です。

以前のクリニックでも、薬をできるだけ減らそうと考えてくれる医師でした。現在のところに通院するようになってからも、ほぼ毎回の診察時に「薬が多い」と気にされてきました。

 

痛み止めの頓服を処方してもらう必要がないときには、6種類の薬を処方してもらっていました。

うつ病の症状のひとつである頭痛が、何日も続けてやってくると、市販薬を高額で買って来て服用するのも嫌になってきて、主治医に痛み止めを出してもらうのでした。

 

 

薬を減らしてみて

 

私が服用しているものには、毎食後の薬と、朝夕の食後の薬、寝る前の薬、頓服があります。

今回、減らしてみているのは、昼食後に飲む薬の全部です。内訳は、抗うつ薬1種類2錠、抗不安薬1錠、胃薬1カプセルです。

 

減薬が決まって、薬局に行って薬の準備ができたと呼ばれたカウンターで、いつも薬を種類ごとに確認してくれる薬剤師さんが、「今回からお薬減らすことになったようですが、体調のほうは如何ですか?」と声をかけてくれました。

それよりも私のテンションを上げたのは、その後の会計の値段がグッと安くなっていたことでした。

 

診察時間を午前にしているので、病院・薬局で用が済むとすぐにお昼時でした。

すると、「今からお昼ご飯を食べても、薬を飲まなくていいんだ!」という開放感があり、「ということは、これから先、外で昼食の時間を含んだ外出をするときに薬を持たずに家を出てもいいのかもしれない」という考えに至り、嬉しくなりました。

 

 

服薬が当たり前になって気付かずにいたこと

 

いつもは食後の薬を飲むために食事を摂らなきゃいけないと、頭の片隅で意識していたこと。

食事でお腹がいっぱいになっても更に薬を飲まなければいけないことにストレスを感じていたこと。

お金が掛かるばかりの病気の自分を嫌っていること。

などが、改めて意識されました。

 

 

処方薬が減るということは、病気が治ってきている、快復に向かって進んでいる、ということだと捉えられます。

そこに喜びを感じるのは、健全な反応ながら、減薬が上手くいかなかったときには落胆する原因にもなります。

 

同じように減薬している人から、「早く減薬したいから不安感とか医師に言わなかった(中略)安定が大事なのでそこは注意していきましょう」と助言をいただきました。

また、「その努力、前向きになれる気持ち、わかります」と言葉をかけてくれる人もいました。

「やったじゃん!よかったね。本当によかった」と言って喜んでくれる人もいました。

 

 

なりたくもない具合の悪さを抱え、うつ病だと診断され、毎回嫌だと思いながら通院し、飲みたくもない薬を飲み、それらに少なくないお金をあてて……。

精神疾患の人が抱えている現実の一部に、これらのことがあります。私もその中の一人です。

 

自責の念や罪悪感や屈辱、満たされない成功欲求、それらに耐えながら、時間をかけて考えグセを変えて病気を治そうとしているのなら。治療が少しくらい上手くいこうが、たまたま失敗しようが、目先のことに捕らわれず、本当の目標に向かっていきたいものです。

おめでとう・ありがとう

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「『元旦』とは、元日(1月1日)の朝のことである」

マメ知識っぽく始まりました、2019年(平成31年→〇〇元年)の 考えの調理場 です。

 

昨年は、自分がどんな人間なのか「自分で自分のことがわからない」というところから、人との関わりを持つことで少しずつ自分のことがわかってきたところまで快復してきました。

本年も、“ただの本当のこと”を言葉にしていこうと思います。

 

昔の日本では、今よりももっと、お正月がとても大きな行事だったと聞きました。

その当時は、新しい年にみんな一斉に歳を取るものだったそうで、元日が来るということは、みんなの誕生日が来るという意味を持っていたそうです。

それが「数え年」という年齢の数え方の根本だった、とかなんとか。

 

 

 

 

生きていてくれて、ありがとう。

 

産んでくれて、ありがとう。

 

今は居なくても、生きてきてくれて、ありがとう。

 

この生に関わってくれて、私を生きさせてくれて、ありがとう。

 

新年あけまして、おめでとうございます。

今年を迎えてくれて、ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

 

今週のお題「2019年の抱負」

今年の振り返り

日記的要素が少ないブログだと書いたそばから、リアルタイムの記録的な記事を書く 小柏まき です。

 

たまには、今年を振り返ったりしてみたいと思います。

 

 

個人的 今年の漢字は、『』です。

 

まずは 外出 ですね。

一年を通して外に出た回数は、昨年のほうが多いような気がしますし、総移動距離も昨年のほうが多いかもしれませんが、今年は短期間のアパート暮らしをしたりしました。

外に出ると、翌日に疲れが出るのをひしひしと感じたので、自分の身体の調子と相談しながら、また自分の体調の変化に自覚的に、無理をせずに慣らしていきたいと思います。

 

それから、今年という私の人生の一部を占める時間の、大きな構成要素は、 出会い でした。

Twitterを使うようになり、Twitterツイキャスで人と出会いました。

また、文化的・芸術的なモノとの出会いもありました。それは、言葉であったり、絵であったり、音楽であったりしました。

 

出会いというものは、自分の世界が広がるものだなと感じます。

このブログを始めたきっかけも、今年 出会った人の影響でした。

言葉で、内側にしかなかったものを表現したり、誰かがそれを受け取ってくれたり、逆に誰かから受け取ったりすると、自分一人では考えもつかなかったことを知ることができたりします。

そして、自分の中では当たり前になっていて、その考えや体験に価値を見出せていないことに、価値を認めて私に教えてくれる人とも出会えました。

私はそういう人の言葉に、行動に、何度も気持ちが救われました。

 

過去に、もっとも信頼していた人に連絡を絶たれ、自分の“人を信じる力”を信じられなくなった私は、しばらくは他者との関わりを最小限にして過ごしていた時期があります。何かを吸収することも、何かを伝えることも、特にない日々でした。

人とコミュニケーションをとるということには、そこから変わろうとする私の生活や考えグセを、少しずつ変える力があるのだと感じさせられます。

 

人と、間接的ながらもコミュニケーションをとることが 出来た 年でもありました。

また、ライティングセラピーと思考や気持ちの視覚化を目的として、このブログを始めることが 出来た 年でした。

 

元々は、細かい手作業や、絵を描くことが好きだったことから、なんとなく作品の写真や描いた絵をSNSにアップしてみた。ということもありました。

褒めてくれる人が居たり、リクエストをくれる人が居たりして、久しぶりに絵を描いてみたりもしました。

 

 

何かをやろうとすると、自分の至らない部分が気になって「こんなのじゃダメだ」と思って中途半端でやめてしまったり、ちゃんとできないことにガッカリしたりするので、その不安から始められない。なんてことが多々あった私ですが、今年は幾つかの絵を描きかけのまま放置しています。読みかけのまま離れてしまった小説もあります。

やりかけのモノが気にならないわけではありませんし、気が向いたら続きをしようというくらいには思っていますが、途中でやめられるということは“そこまではやっている”ということで、“始めることができている”ともいえるのです。

 

うつ病を繰り返す、自分の能力以上を求める完璧主義者にとっては、この『中途半端になろうがどうだろうが、構わずに始めて、楽しんでできる』というのは、成長した点と捉えてもいいと考えるようになりました。

 

 

実はこのブログの更新も、30記事くらいまではほぼ毎日更新したいと思って書いていました。予定通り30記事ほど溜まってからは、更新頻度が低くなったのは「記事数をむやみに増やすと自分が読みにくくなる」「自分に“課す”ことをしたくない」という理由で、当初から考えていたことでした。

今は月に数回、ゆるく、けれど書きたいことだけを更新することができています。

 

 

今年の前半には『幸』とか『生』とかの漢字を遣うことが多かったのですが、今になって振り返ると、「今ある幸せをちゃんと感じたい」「生きていることを自覚していたい」という意識がどこかにあったから、言葉として出てきていたように思います。

 

現在は、前よりも自然に「幸せ~」とか「生きててよかったぁ」とか言っている気がします。これからも、いつの間にか心の声が出てしまっていて、それがポジティブな言葉だったらいいなと、そんな風に過ごせたらいいなと思っています。

 

 

お題「あなたの「今年の漢字」」

お題「ブログをはじめたきっかけ」

お題「2018年を振り返る」

不登校体験をブログに書いた理由

日記帳を買っても数日に一度しか書かないので、1年用の日記帳が数年間もつ 小柏まき です。

 

私のブログは日記的な要素があまりありません。

その理由と、前回の記事をアップした感想を、記します。

 

 

前回の記事はこちら↓

ogasiwa-maki.hatenablog.com

 

 

前回の記事の感想

 

書いてみて、一つの記事を何カ月も少しずつ書いて、やっと書けた。

私がブログに書き記しておきたいことのひとつ。

本当にコンプレックスだから、恥ずかしいから、知らない人がいっぱい居るから、書かなきゃいけなかったこと。

私はひとりぼっちだったけど、たまたま環境や人や運に恵まれて生きてこられた。

 

あるか無いかわからないことだけど。

もし誰かが、ひとりで、生き苦しさを抱えていて。

もしかしたら、今でも、数カ月先でも、数年先でも。

光る四角い画面を見て、「不登校で ずっと死ぬことを考えてたけど大人になるまで生きた人が居たんだ」って思って、ほんの少しでも生きる力になったら。

 

体調が悪くて嫌になっても、自分の馬鹿さに気がついてしまっても、人に迷惑をかけていることが情けなくて申し訳なくても、“自分は居て いいんだ”って思うきっかけになれたら。

私がずっと、いろんな人に助けてもらって、今まで死なずに来られた、恩返しの欠片になるかもしれない。

 

 

私のブログが日記っぽくない理由と不登校体験談を書く理由

 

もともと、うつ病の快復期の考えを可視化して、自分で読むためのものとしてブログを始めました。

誰かが読んでくれるかもしれない場所にアップすることで、自分の中で言語化されずにいた思いや考えが引き出されやすいことをうまく使っていけたらいいと思いました。

 

私自身を形成する要素として、今の反復性うつ病性障害に繋がっているかもしれない事柄や、人格生成に関わる不登校体験を書く必要がありました。

そして、どうせ体験談を書き記すなら、似たような体験で苦しい気持ちでいる人の役に少しでも立てたら嬉しいと考えました。

 

私の知っている範囲ですら、元不登校で教職課程を履修していた人は何人か居ます。ということは、全国的に長期的に範囲を広げれば、不登校児から教員免許を取得した人は、そんなに珍しいというほどのことではないのかもしれません。

ところが、不登校の実態や、特に適応指導教室の存在や内実などを知っている人は、教育現場に携わっている人でも案外少ないと個人的に感じてきました。

 

具体的には、私が中学生の頃。適応指導教室に通っていたときに、周りの児童生徒たちと一緒に大きな公園へ行ったときに会った、学校教諭でした。

ちょうどその日に近くの学校の課外授業か何かで居た生徒たちの引率をしていた先生でした。平日の昼間に公園に来ている小中学生(私たち)を見て、「今日は学校どうしたの? サボり?」と声を掛けてきたのでした。その公園から数百メートルの施設に、適応指導教室があることを、その先生は知らなかったのでしょう。

普通に学校に行くことができないことで自分を責めたり、自分の思い通りにいかない体調に苦しめられたり、常日頃から葛藤や悩みの中にいて、それでも適応指導教室には通える状態の私たちにはグサッとくる言葉でした。友人たちは皆、少し落ち込んだ様子でした。私は黙っていられなくて「サボりじゃないです」と言いました。

 

他には、大学の教職課程の『教職に関する科目』の授業でのこと。私が発表の中で、適応指導教室について少し話をしたら、その授業の先生(心理学を専門とする准教授)から、適応指導教室とはどういうものどうかと質問されました。

 

教育に関わる仕事をしている人が、これだけ知らないのは、知るきっかけが無いからだと思っています。

自分が通ってきた道以外の道を知るというのは、それなりの興味を持つ必要があると考えますが、まったく知らないものに興味を抱くというのは無理なので、ある程度受動的に“知るきっかけ”が要るのです。

 

 

人は誰でも、自分の人生以外を生きてみることはできません。

自分以外の誰かを理解するのに大切なのは、想像力と共感性かもしれません。

私がもっているモノを見える位置に置くことで、誰かが他の誰かを想像する材料になったり、これを読んだ人が自分自身を知る材料になれば……いやこれは本当に「あったらいいな」で、私以外の誰の役に立たなくとも、充分第一義は果たしているのです。

不登校体験談③中学時代『進路指導室』『適応指導教室』

小学4年生の途中から不登校になった 小柏まき です。

中学生になったら、何かが変わって普通に学校に行けるようになるかもしれないと、根拠のない淡い期待で現実逃避していました。

 

授業を受けていなくても、勉強をしていれば中学受験をして私立の学校へ進むという道もあったかもしれませんが、私は全く勉強をしていませんでした。

そんなわけで、小学校の同級生のほとんどと同じ、地元の公立中学校に席を置くことになりました。入学したての頃、ホームルームに参加したことがありましたが、ずっと担任教諭の目を見ながら話を聞いていたのでとても疲れた記憶があります。

 

ずっと連続して学校を欠席していた私にとって、クラスメイトは知らない人ばかりでした。しかし向こうは私のことを聞き知って気を遣っているような、なんだか少しだけ白々しいようなよそよそしいような、それでも私も気遣ってもらうのは忍びなく感じてしまう、そんな微妙な距離感でした。

 

うちの中学校には私と同じ小学校以外に、隣町の小学校出身の生徒が何割か居ました。そういう生徒たちが新しい交友関係を作っていくのを頭のどこかで想像しつつ、自分に置き換えて考えてみると、コミュニケーション能力や日頃の過ごし方や学力などすべてにおいて「自分には無理だなぁ」と思いました。

 

その頃この国は、不登校に問題意識を持った大人たちが不登校児童生徒の受け皿を作り始めたばかりの時代でした。

私が中学校に入学したした年に、同校内に『進路指導室』という名前の部屋ができました。名前こそちゃんとしているものの、どう見ても年に一度出番があるかどうかの物が棚や壁際に積まれていて、その光景は倉庫(物置?)そのものでした。そこには、昔保険室の先生だったという老齢の先生が居て、なんということもない会話をしたりして過ごしていました。

進路指導室には、私以外に先輩が何人か来たり来なかったりしていました。

 

 

中学1年生の途中で、適応指導教室というものの存在を知らされました。

適応指導教室は、進路指導室と違って学校とは別の、自治体が運営するフリースクールのようなものでした。

学校の進路指導室で一緒だった先輩が、適応指導教室に通うようになって、過ごしやすい場所だと誘ってくれたのでした。

適応指導教室に行っても出席日数がカウントされると聞かされて、高校に行くのに不利にならないかもしれないと思いました。結果的には「適応指導教室 出席」という風に、学校に出席するのとは違う扱いでした。

それでも、どんな場所なのか興味を持ったので、見学に行きました。

 

最寄りの適応指導教室は、市の建物で、運営も市がしていました。施設の関係者とは別に、教室がある日は常に3人の先生がいました。そのほかに、曜日ごとにボランティアさんが来ていました。

建物には、ラウンジに幾つかのテーブルや椅子があって、そこには飲み物の自動販売機や本棚に本が並んでいました。他にも、オセロや将棋もあって、それらを使うのも自由でした。また、体育館や、小さめの調理室のような部屋、小さめの静かな個室などがありました。

基本的に、どの部屋で何をして過ごすかは自由で、使った部屋や物は元通りに戻すという規則でした。

例えば、先生に勉強を教わりたい場合は、前もって先生に直接教科と時間をお願いしておいて、小さめの個室を使わせてもらうということもできました。

 

私も先輩と同じように、中学校の進路指導室ではなく、こちらの適応指導教室に通うようになりました。

 

市内の小中学校から来ているそれぞれの児童生徒たちは、住んでいる場所も、学年もバラバラでしたが、気遣い屋で精神年齢が高い印象の子がほとんどでした。

私たちはそこで、クッキーの材料を持って行って調理室でお菓子作りをしたり、体育館でバスケットや卓球やバドミントンをしたり、ラウンジで絵を描いたりお喋りしたり、天気のいい日にみんなで近くの公園を散歩したりして過ごしました。

 

ここで印象深かったのは、先生方が いい人しか居なかったことでした。先生の一人は、定年退職後の男性で、親しみやすい校長のような立ち位置でした。そのほかの先生方は、20代から30代前半でした。私が在籍中に、男女一人ずつから入れ替わりがあって女性2人になりましたが、新しく来た先生も いい先生でした。

 

ここでいう“いい先生”というのは、真摯に子どもと向き合って、話を理解しようとしてくれる大人でした。

お喋りをしたりしているときには、ふざけ合ったりもするのですが、どの子のことも大切に扱ってるのがわかりました。

私は、「こういう大人もいるんだ」と思いました。憧れて目標にしてもいいかもしれない存在として、もっと先生のことが知りたくなって、色々な質問をしたりしました。

 

これは、後に私が教職課程を履修する、きっかけの一つになった出会いでした。

 

適応指導教室で最も親しくさせていただいた先生とは、卒業後もお会いして語らったりしました。お互いの誕生日には、今でも毎年連絡を取り合っています。

 

“学校の教科担当の先生が面白い人だから、その科目を好きになる”というのはよくあることだと聞きます。

私は適応指導教室の先生に出会って、生きて年齢を重ねていくことを、肯定的に捉えられるようになった気がします。

心と心の距離

心同士の距離。

 

心と心の距離が遠いと、例えば相手がナイフを振り回していても、その刃が触れることはない。

もし触れてしまって怪我をしても、それは浅くてヒリヒリ痛いくらいで、すぐに跡形もなくなる傷にしかならないだろう。

 

心の距離が近づくと、少し手振りが大きくなっただけで、その手は相手の心にぶつかり傷つける。

 

心は、着飾れないし、武装もできない。ただ、隠すことはできる。

 

心と心の距離が近づいて、お互いの温度を感じられるくらいそばにあるとき。他のものでは得られないような嬉しさや安心がある。

これが、人との繋がりで感じる幸せで、「愛」と呼べるもののひとつかもしれない。

 

そういう人とは滅多に出会うことはないし、この人生でそういう人と巡り合うことなんて、とっくに諦めた、というかそんな可能性とは無縁な自分を受け入れていた。

 

無防備な心を相手の近くに置いて、例えるなら、刃物で刺されて血を流したり・殴られて奥の方が長い間痛んだり・縛りつけられて自由を奪われたり・晒されて侮辱されたり、というようなことを甘んじてしていた時期が、私にはある。

酷い仕打ちを、酷いと感じることができなくなっていた。ただの日常だったから。

 

結局、私の心は放り出されて動かなくなった。 

 

いつからか私の心は、私自身にとっても、掴みどころのないものになっていた。

心の底が凍り付いてしまったみたいだった。

人間らしく生きていくのに必要な支柱のひとつを失ってしまって、取り戻せないのだと思っていた。

 

“希望”の存在しない世界には、“絶望”も無かった。安定だった。

 

それでも、たまに虚しさを感じるくらいの心は残っていた。

 

 

どうして出会ってしまったのか、よくわからない。

すごく似ていて、全く違う、自分ではないから自分のもの以上に大切にできる。違う部分は新鮮で魅力的で、尊重したくなる。

そんな心を持った人に、出会ってしまった。知り合ってからも、存在を不思議に思うくらい、願ってもないような存在。

 

もしこれが妄想なら、感心するほどよくできた妄想だ。

もしこれが夢なら、醒めたときに「あぁ、いい夢だったな」と、その幸せで生きていけそうな夢だ。

 

ふたつの心は、嘘のみたいに、必然のように、通じ合っていった。

『月に叢雲花に風』───「よいことは、長くは続かない」たとえ、そうだとしても。今がここにあることは、何も変わらない。

雲が薄くかかった月を見て、風に揺れる花を眺めて、その瞬間を「綺麗」と言えるような心だから。

 

私がよろよろと少しずつ前に踏み出すとき、隣に居て。きょろきょろと周りを見回して、私にとっては進むだけで精一杯な道の上で、路傍の花を見つけたり見晴らしのよさに気づいたりして教えてくれる。そんな心が、今、一番近くにある。

そんな心の近くにも、私の心が居てくれたら、嬉しい。