考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

儀式を必要とする人間【強迫】

不安障害の 小柏まき です。

強迫性障害や社交不安障害、高所恐怖症や、パニック障害も、不安障害という大枠に分類されるそうです。

私は強迫性障害と社交不安障害に主に悩まされていますが、今回は強迫性障害の儀式行為と、高所恐怖症に触れていきます。

 

 

 

近頃はどのメディアを見ても新型コロナウイルスの話題が多いですね。

日本人の危機意識も高まったところで緊急事態宣言が出た印象でした。

少し前、『咳エチケット』や『正しい手洗い』をよく見聞きする時期がありました。

 

 

『正しい手洗い』については、毎年冬頃にテレビやネットで、インフルエンザ予防や風邪予防の情報として見かけます。

そういうのを見ると、「小さな子どもに正しい手洗いをさせるのは難しいことなんだろうな」とか「小中学生になっても、なかなか正しく手洗いしていない子もいるんだろうな」「高齢で、ハンドソープが日常にある生活に慣れていない人も多いのかも」と思ったり、自分の手洗い方法も意識的に見直したりしていました。

 

今回の新型コロナ関連で『正しい手洗い』を強く呼びかける情報を目にしていました。そして、「正しい手洗い方法がわかったから実践しよう」という手洗いに対して前向きな言葉も見かけました。

そこで私には、多少の違和感がありました。

 

今まで『正しい手洗い』ができていなかった人の中で、意識すれば簡単に『正しい手洗い』ができる人が少なからず居るのではないか? と。

……そういう人が今までしていた手洗い、それこそ儀式行為だったのではないでしょうか?

外から帰ったとき・トイレから出るとき、水を流して手にかける。しかし一般に言われる『正しい手洗い』の効果は得られていない、不十分な手洗いは、「そうしないと、なんとなく気持ちわるい」とか「手を洗うよう注意されたくない」という気持ちを解消するための儀式なのではないか。と思ったのでした。

いやもしかしたら、不十分な手洗いをしていてもそれが不十分であると知らなかっただけで、ちゃんと満足感を持っていた人も居るかもしれません。

どんな人のことも、ここで批判するつもりは全くありません。儀式行為は意外と、誰にでも身近にあるものなのではないかと思ったのでした。

 

 

強迫性障害の不潔恐怖は、「きれい好き」とは違うと思います。決定的に違うのは、“ありもしない” 強迫観念に悩まされ、それを消し去ろうと儀式行為をするところです。

不潔恐怖症の人が必要以上に手を洗っているとき、もちろん個人差はあれど、普通ではないことをしている認識が本人にあって、それを苦痛に感じている場合が多いのではないでしょうか。「こんな無意味なことをしている自分は頭がおかしい」「ハンドソープも水道水も時間も労力も無駄にしている」「手が荒れて痛いのにまたやってしまった」などと思っているのに、日常生活に支障をきたす恐怖に支配されてしまうのです。

逆に、こうした苦痛を感じずに必要以上の儀式行為をしている人、それをすることが楽しい人は、治療の必要はないでしょうし、強迫性障害と診断される機会もないことでしょう。

 

 

 

私は高所恐怖症なのですが、頭では安全だとわかっていても高さを感じるとリラックスしていることが出来ません。

自分でも意外だったのは、数年前に映画館に行ったときに、座席の空き加減から後ろの方の席に座った途端に恐怖でじっとしていられなくなったことでした。座ってみるまでは後ろの方の席が “高い所” だと感じるとは思っていませんでした。

上映開始が近くなり、映画館の照明が落とされて暗くてなったとたん、ソワソワと落ち着かず浅い呼吸しかできない状態から解放されました。この場合は不安を払拭する儀式行為は無く、出来る対処法としては視界を遮ることくらいでしょうか。

 

 

合理的な考えを、気持ち・感情に漏れなく反映できたら、不安障害も存在しないのだと思います。

 

 

精神疾患によって往来する様々な感情や衝動をコントロールできないことに、モヤモヤしていました。無益なことをしている、自分にとってマイナスになることに捕らわれている、自覚があっても自分を変えるにはまだ時間を要しそうです。

認知行動療法や暴露療法と呼ばれる精神療法は、このためにあるのでしょう。しかしながら、対面で会話する療法は専門家の少なさと金銭的負担から、受けづらいという難点があります。

 

自分のことを話すと、真摯に向き合って時間と心を使ってくれる人も、この世の中には居て、そういう人と巡り合えることが人生における “救い” のひとつなのだと思います。

根本的にほぼ解決した状態までもっていくのは、自分自身だと思います。病気・障害と適当に折り合いをつけていきたいと、思っています。

【比喩】お粥が飲み込めない苦しさ【精神疾患】

少し前の私には、食べようとした物が喉に詰まって苦しかったり、多くの人が摂っている栄養が摂れなかったり……というような感覚が強くありました。苦しくて悲しくて、何時間も泣いて過ごしたりしていました。

 

ここでは考えを調理していくために、情報を栄養に、多くの人が受け取りやすい媒体をお粥に、例えたりして扱います。

「栄養=知りたいこと」「お粥=全て平仮名で書かれた文章」などと置き換えられます。

 

感覚過敏HSPなどの人は、もしかしたら共感する部分があるかもしれません。

 

 

 

徐々に変化する心の声(呟き)

考えすぎとか言われることあるけど、考えようとしてジックリやってるわけでも何でもなくて、一瞬でそこまで思っちゃうのはどうやって訓練すれば矯正できるの?

 

多くの人が受け取りやすい媒体から情報を受け取る能力がない。

高い観察力なんかいらないから、有用な情報が欲しいし、情報が有用かどうか判断する材料くらい欲しい。

ずっと治そうと努力し続けてるはずなのに、できない。

どうせまたバカにしてるとか人のせいにしてるとか思われる。死にたい。

 

私にはずっと同じことを話しているつもりでも相手には「飛躍し過ぎ」と思われる。

別の話を織り交ぜて話を進めたせいで、意図が不明確になったのか。

嫌なものに触れないということは、今すぐ死ぬしかない。自分が嫌なのだから。

人が嫌なのではない。人を通して自分を見てる。

 

夢の中で、知人たちが外国語で話していた。私にはわからない外国語。理解する能力が無い。みんなが当たり前にしてきた努力をしてこなかった。

お粥が飲み込めないみたいな、栄養がとれなくて困ってる。それなのに「あなたは美食家ですね」と言われているような。

誰にも理解されないんだ。

 

『「目には目を」を実行していたら、世界中の人の目が見えなくなってしまう。』

だかなんだかって、キング牧師は言ったんだよね。

「だったらみんな目が見えなくなればいい」って気持ちが少し。

「だから自分の目が潰されても我慢するのが平和主義ってことなんだ」って気持ちも少し。

 

つまり、嫌なら視界に入れなきゃいい、っていうのを実行したら、視界自体を閉ざさなきゃいけないんじゃないかって……。

 

或る お粥が飲み込めないから、そこにある栄養が摂れないと思ってすごく悲しかったけど、違うわ。ちゃんと美味しいお米と水で作られてれば食べられるし、おじや なら美味しくて好きですらある。

仮説だけど、私の問題じゃないのかもしれない。

原因を内に求め過ぎだ。

 

自分の能力の無さを、できないって事実も、それを理解されない悲しさも、そんなに大きなことじゃないのかも。

誰だって食べられない物もある。

好きじゃないって理由で嫌いな物が食べられない人を、アレルギーがあって食べられないからって羨む必要はないのかも。どっちにしろ、食べられないんだから。

 

でも羨ましいのよね。

拒否された側の料理人は、嫌いとアレルギーの差がわからなくて、「グルメですね」と言って適当に褒めてくるのが、悲しくて仕方なかった。

わかってもらう努力なんて要らない。わかるわけがない。わかってないことに気づいてないんだから。

 

そのお粥が食べやすい、美味しいって言う多くの人に、愛されていればいいんだ。そのままでいい。

こっちは飲み込めないものを口に入れないように、避けていくしかない。

【うつ病】依頼絵にチャレンジ

趣味でときどき絵を描き、Twitterにイラストを投稿したりする、 小柏まき です。

 

Twitterでフォローさせてもらっている うつ病ブロガー たぐさんのツイートを見たことが、今回の行動のきっかけでした。

それは、ブログで使うプロフィール用のイラストの描き手を募集しているという内容でした。

 

 

募集内容は、うつ病などの精神疾患で、現在働くことができていない人を対象としたものでした。うつ病ブロガーたぐさんは、ご自身の経験から うつ病で療養中の人向けに情報発信したり仕事の機会を提供する活動をなさっている方で、プロフィール用イラスト制作者の募集もそのひとつなのでした。

元々絵を描くことが好きな私はすぐに、チャレンジしたいと思いました。

 

 

しかしながら、応募するまでには幾つかのハードルがありました。

 目次

 

不安の正体

まず、私自身の画力に関する不安。次に、持病による不安。そして、知識も経験もないという不安。不安の正体は、大きく分けてこの3つでした。

 

画力に関する不安

絵を描くことが好きでも、学生時代に課題で描いた以外には、趣味として気ままに描くことしかしていませんでした。

私なんかが描いた絵は、報酬を受け取る価値が無いのではないか。という気持ちが、最初は強くありました。

 

今回の企画でよかったのは、応募した中から依頼される人にのみ返信があるということでした。

応募者側からは、自分以外の人の応募状況がわかりません。これで、他の人と自分の絵や画力を比べようがありません。また、返事が貰えれば、「応募者が一人しかいなかったから仕方なく選ばれたに過ぎない」などの考えは妄想でしかなく、選んでもらったという事実しかわからない、ということでした。

 

持病による不安

私は、うつ病治療中ですが、その根本には社交不安障害や強迫性障害があります。

何かを誰かとやり取りして進めていくには、コミュニケーションを避けては通れません。今回はTwitterのDMでやり取りをしました。口で喋ってしまえば数秒で済むようなことも、文字にすると長くなるものです。「大したことではないけど少し気になる」という程度のことは訊いてみるべきか否か、いちいち迷ってしまいます。また、やり取りの中で自分が実は大きなミスを見逃しているんじゃないかという不安が湧いてくるので、私は毎回スマホのメモにDMで送りたい内容を作文して、それをコピペして送っていました。作文の段階で落ち着くために一旦スマホから離れて、時間を空けることもありました。

返信に時間がかかること・制作期間中に具合が悪い日が来るであろうこと、これらが私自身気にならないではありませんでしたが、依頼人のたぐさんが精神疾患に理解があると信頼を置き甘えさせてもらうことにして、自分にプレッシャーをかけ過ぎないようにしました。

 

知識も経験もない不安

趣味で絵を描くのは、自分が満足するためです。ところが、依頼を承るというのは相手のあることです。

今までに依頼してもらって絵を描いたことがない私には、どういったやり取りや決め事が必要なのかもわかりませんでした。また、絵の値段相場もよく知らないため、どういったスタンスで取り組めばいいのかもピンときませんでした。

 

イラストレーターさんや絵師さんと呼ばれる人は、一つの作品に対してどれくらいの報酬を受け取っているのでしょう? どうやらこの話題は、いろいろな場で議論の対象とされているものらしくネット検索すれば情報は出てくるものの、確たる正解があるものではなさそうです。

 

どうしたものか、と思った私は、人に頼ることにしました。絵を描く他の人は、この募集についてどう思っているのか? と、相談させてもらいました。

すると一人の方が、「イラストの報酬としてこの値段は高額なほうではない」と教えてくれました。経験的知識のある方の正直な言葉に、無知な私は目から鱗が落ちました。私は自己評価が低いあまりに、一般的な情報を得ても自分に適用することができなかったのです。簡単に言うと、他の人が描いた絵には相応の価値が発生して然るべきだと考えるのに対して、自分の描いた絵には “そんな価値は無い” という思考に陥ってしまっていました。どうやら、認知の歪みがあったようです。

 

 

応募から受注・制作

DMで自己紹介・自己PRをして、ご依頼いただく運びとなりました。

具体的な絵のイメージは、「横顔か、視線を少し外したようなイラスト」「雰囲気としては、男性が考えている感じ、ちょっと物思いにふけっている感じで、優し気な雰囲気が出せたらいいと考えています。」とのご要望でした。

制作期間は2~3週間、ということで、3週間後には最終的な完成版をお渡しすることになりました。

 

気になることがあればご相談しながら、進めていきました。

時間的には充分余裕がある印象だったので、肩に力を入れ過ぎずに少しずつ……やっていきたかったのですが、それが難しいことに気づくのは数日経ってからでした。

 

0か100か

自分では気合を入れているつもりも頑張っているつもりもなく、むしろ小さな力で時間をかけてやろうと思っていながら、絵に取り掛かってから気がつくと完全に集中していて、何時間も経っているのでした。そしてそこには、やった分だけ進んだ絵と、ヘトヘトに疲れた自分が居るのでした。

 

少し長い距離を走るために、軽いジョギングを続けていきたいのに、目の前に走るべき道があると全力疾走してしまい、短距離で休憩しなければいけなくなるのでした。

車の運転に例えると、軽い力でアクセルを踏んで程よいスピードで進むことが、出来ていないのです。

 

私は疲れを感じた日や、ポジティブな気持ちで描き始められない日には、絵には全く手を付けないことにしました。

 

本当にこれでいいのか

段々と完成に近づくにつれて、本当にこれでいいのだろうか? もっと出来ることがあるのではないか? と考えるようになりました。

そこで、「提示された報酬額が仮にもっと高額だったなら、きっとそれに見合うために努力をしなければいけないような気持ちになっただろうな」と想像しました。そうです、多分この報酬の提示額は、必要以上のプレッシャーを感じさせないために設定されたものなのだと、思い至りました。

 

 

完成

最初のDMを送ってから15日後に出来上がった絵はこちらです。

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 このイラストをお使いいただいたブログ記事はこちら↓

tagunari.com

私のこともご紹介くださっています。

 

 

感想 

やはり、絵を描くのは楽しかったです。楽しみながら出来上がったものを、お使いいただけるのは嬉しいことです。

私自身、反復性うつ病性障害と社交不安障害と強迫性障害で、低い自己肯定感をどうにか高めていきたいと考えているタイミングでもありました。

たぐさんの今回の企画と出会えて、好きな “絵を描くこと” で認めてもらえて、自己実現というと大袈裟かもしれませんが、とても励みになりました。

自作のもので金銭を受け取るなんておこがましいと最初は思っていましたが、その価値があるものをご提供できればと、いいやり甲斐になりました。


たぐさんとのやり取りでは、お褒めいただいたり喜んでくださったりして、終始うつ病患者の個人に対するお気遣いを感じました。

報酬額のお心遣いも有り難く、有意義に使わせていただこうと思います。


この度は本当に有難い機会に恵まれたと、関わってくれた方々に感謝しています。

 

自己肯定感を上げるにはどうすればいいか、自分はどう社会参加することができるのか、まだまだこれからも手探りが続くと思いますが、こうした小さなハードルを幾つも越えていくことで “強い自己否定感” を薄めていけたらいいなと考えています。

ミニマリストにも薦めたい『ほしい物リスト』

Amazonほしい物リストを作った翌日に何かが届いた 小柏まき です。

 

気候の影響で鬱傾向が強いのかわかりませんが、うつ病の症状である希死念慮をどうやり過ごすか考えて、なんとなくAmazonを見ていました。

……いや、「なんとなく」というのは、嘘です。本当は、自殺に使う道具を品定めしていました。

いろんな商品を見ているうちに、「こんなのも売ってるんだ」と物欲を刺激され、希死念慮が薄らいでいき、欲しい物を手に入れたらどう使うかなどを想像できるまでになりました。

 

 

ほしい物リスト』というのを、Twitterなどで見かけることは以前からありました。

イメージとしては、なんとなく買いそびれている物を入れておくことでその人がどんな人なのかが少しわかったり、面白い物をチョイスして話のネタに使ったり、というものでした。ただ、あまりいいイメージがなかったのは、ほしい物リストを共有することにより「乞食乙」などという言葉をかけられている人を見たせいでしょう。

 

目次

 

ほしい物リストとは

Amazonで売っている欲しい物を幾つかピックアップして作るリストです。特筆すべき点は、リスト制作者とは別の人が、そのリストからプレゼントしたい物を選んで匿名で贈ることができるところです。リスト制作者(プレゼントの受け取り人)も、住所や氏名を送り手に知られることはありません

 

SNS上で知り合った人に、本名や住所は教えたくないけど何か送りたいとき。

断捨離やミニマリストが広く定着しつつある現代日本で、確実に相手が喜ぶものを贈りたいとき。なんて便利なシステムなんだ……! と、思ったのでした。

貰って困る物をもらった時の「相手の気持ちを無下にするのも忍びないし、貰ってしまってすぐに手放すのも気が引ける。」というやるせなさや、欲しかった物と似た用途だけどしっくりこない物をプレゼントされたときの「もともと欲しかった物の方がいいけど、手元にある物で用が足りてしまうから改めて買うのももったいない」という感情から本当に欲しい物が手に入らなくなる状況を、回避することができます。

個人的には、プレゼントを贈りたいけど何がいいかわからないときに、相手がほしい物リストを作っておいてくれると贈り物を決めやすいなと思います。

 

 

というわけで、私がほしい物リスト』を作る上で気をつけたことと、個人的に解釈した注意点に注意する理由を記そうと思います。

※解釈が間違いないと保証するものではありません。正確な情報をお求めの方はAmazonにお問い合わせください。

 

 

ほしい物リスト』ここに気をつけて!

 

まずは、本名や住所を第三者に教えてしまわないための注意点です。

アカウント名を本名(□□▲▲)からハンドルネーム(■■)に変える

例:[小柏まき]→[おがまき]

Amazonで個人的に買い物をしたことがある人は、大抵の場合、アカウント名が本名になっているのではないでしょうか。

リストを見た第三者による “友達に追加” などのアクションによって、アカウント名が表示されてしまうらしいので、本名を伏せたい場合はアカウント名を変えましょう。

 

送り先の住所を新しく設定する

住所を入力する欄が2つあります。1つ目には、いつも通りの住所を入力します。

2つ目には、[□□▲▲様方]と入力します(□□▲▲=本名)。

結果的に住所は[◯◯県◯◯市…… □□▲▲様方]になります。

「様方」は「さん家の」という意味です。

例:[◯◯都◯◯区…… 小柏まき様方]

 


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これで、[◯◯県◯◯市…… □□▲▲様方 ■■様]という送り先の住所と宛名で配送されます。

例:[◯◯都◯◯区…… 小柏まき様方 おがまき様]

 

 

個人情報を秘密にするか、Amazon以外の販売元の商品を受け取れるようにするか。 

リストに入れる物はAmazonが販売している物に限る(or許可する)

Amazonに出品されている商品には、Amazon以外の販売元が出品している物が少なくありません。『ほしい物リスト』では、Amazonと利用者の間で “第三者に住所や氏名を教えない” ことを前提にしています。

Amazon以外の販売元の商品を注文した場合、Amazonは送り先の住所を販売元に教えなければならないのですが、『ほしい物リスト』からの注文するとなると “第三者に住所や氏名を教えない” 前提を覆すことになってしまいます。ですので、Amazon以外の販売元の商品を受け取るためには、【リストの設定】から【第三者の出品の商品の発送同意書】という項目にチェックを入れて、許可する手順を踏む必要があります。

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実際に誰かに贈ってもらうことを想定しない使用方法(自己紹介の延長・ネタ)の場合は、販売元を気にする必要はありません。

 

 

というところに気をつけました。住所氏名を公開せずに物やお金を動かせるシステムなだけあって、手順が間違っていると機能しないようです。

しかしながら、注文者が配送の追跡を設定すると、近くの配送所に届いたことが通知されて配送先の地域がわかる……といった情報もあるので、完璧に何もかもを非公開にしたい人には向かないようです。

 

 

あとは、欲しい商品を選んでリストに入れて、そのリストを公開あるいは限定的に公開して、リンクを共有します。

 

 

私に届いたプレゼント……送り主は

そうして出来た『ほしい物リスト』、私が試しにSNSで共有してみると、翌日にはAmazonからの段ボール箱が届きました。宛名のところには[◯◯都◯◯区…… 小柏まき様方 おがまき様]という形式の記載がされていて、送り主の名前も住所も書いてありませんでした。

狭い交友範囲の人には、贈り物を送ってくれたのかと尋ねてみましたが、どの人でもないらしく……結局いまだにどなたが送ってくれたのかわかりません……!

 

しばらくはドギマギして開封することができませんでした。中身は、たしかに私が選んだ物でした。

どなたが下さったにしても、大切に使わせていただこうと思います。

この場を借りて、ありがとうございます!

 

 

そんな私の『ほしい物リスト』はこちら↓

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/3JE0XGLA6P2CR?ref_=wl_share

【うつ病年越し】2020年の始まり

ぬるっと年越しをして、パソコンが壊れた 小柏まき です。

 
パソコンは、前触れなく起動しなくなるという壊れ方をしたので、やむなくデータ復旧に出し、データは復旧されたものの出費が嵩み、修理するのか買い替えるのか保留の日々を送っています。バックアップをこまめに取っていなかったことを反省し、一度はデータを諦めて落ち込み、閉口していました。

パソコンが使えないので、今このブログ記事もスマホから書いています。

 

 

昨年は親戚が亡くなったので喪中ということもあり、お正月を祝うことなく年末年始を過ごしました。

年末年始は、世間も休日で街の雰囲気も特別感があり、テレビ番組なども特番が多く、普段とは違った雰囲気になることから、変にハイになったりしやすい時期です。また、1年を振り返って反省したり、新年の新しい目標を立てたりして気分が上がった分、後から反動で下がるような経験をしたことがあります。

うつ病患者にとって、年末年始と言うイベント事を穏やかに過ごすというのは難しいことです。

なので今回の年越しも、自分をうまくコントロールできるといいなと思っていました。

年末年始を過ぎてみて、想像以上にアップダウンがなくやり過ごせたことが、うつ病の自分にとってはよかったなと思います。

 

一昨年の終わりには、1年を振り返って漢字一文字で表そうとしてみたり、昨年の初めには、ぼんやりとながら目標を立ててみたりしました。

この年末年始では、そういったことをほとんどしなかったので、今更ながら少し考えてみたいと思います。

 


昨年の初めに、「1年を表す漢字をコレにしたい」と思っていたのは、『解』でした。

自分を縛っているもの、それは自分自身の固定観念が大半を占めている状態だと考えているので、それを解くような内容の年にしたかったです。それから、繰り返すうつ病の根底にある“なにか”を解明したい気持ちでした。

実際には、解明できた障害(社交不安障害)の自分の人生を上手く受け入れることができないままになってしまっています。 


自分を縛ることをやめる方向に意識してはいるので、「〜しなければならない」という自分の中の当たり前や最低限のラインを下げるためのチャレンジは、日常の中でしています。

具体的には、毎日続いている日記を書き忘れて寝支度をしてしまった日、以前の完璧主義の私なら布団から出て日記を書くところを、「たまにはお休みする日を作ろう」と決めて眠りにつく、といったものです。これで自分を納得させられるようになったのは、進歩だと感じます。

 

 

というわけで、私の昨年の漢字一字は、決めるとしたら『始』でしょう。

社交不安障害と診断された年、障害と共にある人生をどう受け入れればいいのかと向き合い始めた年だったのが、自分の中では大きなことでした。

ほかには、LINEスタンプを作って販売を開始した年でもありました。SNSでの人との関わりが増えて、新しい関係を始めた部分もありました。

 

 

今年ももうすぐ一月が経とうとしていますが、今年の目標は、まず「生きること」です。

まるで当たり前のように今も生きていますが、本当は当たり前などではないと自覚するためでもあります。


今年を過ごしていく中でやりたいことなどの希望は、「絵を描く」「文字を書く」「受け入れる」などです。

描いた絵や、文章や、考え方の変化などを、このブログにも記していけたらいいなと思います。

家族の無理解

先日、今年最後のメンタルクリニックに行って来た 小柏まき です。

 

私が治療にあたっている診断名は3つです。

反復性うつ病性障害、強迫性障害、社交不安障害です。

 

目次

 

 

通院前日 

母の申し出

通院の前日、通院の憂鬱を呟いた私に、母が突然「一緒に行ってあげようか?」と言い出しました。訊いてみても特別な理由はなく、「一度も付いて行ったことがないから」という程度でした。私は、もしかしたら付いて来てもらった方がいいのかな? と動揺しました。

過去、社交不安障害の診断を受ける前、私は自分のうつ病の根底に何かあると考えて、発達障害を疑ったこともありました。その理由の一つが、変化を好まず安定に安心を覚える傾向が強いことがあり、予定などはできるだけ前もって知っていたい性格です。通院も、日が近づくと無意識に多少のイメージトレーニングをしているのです。なので母の急な申し出には反射的に反発したくなりましたが、どの選択肢を選ぶのが本当に自分にとっていいのかを考えようとした結果、言われた通りにするのがいいのかもしれないと一旦は考えたのでした。

上手く返事ができずにいると、その場に居た父が「付いて行ってもらった方がいいんだったら、付いて行ってもらえば」と言いました。私は「付いて来てもらったことが無いから、付いて来てもらった方がいいかどうかわからない」と答えました。

考えてみれば、家族として病気・障害のことや治療法について医師に質問したいことがあっても不思議ではないし、家族の目から見た私の日常の様子を主治医に伝えるのも、恥ずかしいけど治療には役立つのかもしれず、不安は沢山あるものの付き添ってもらうべきかもしれません。

 

そんなことを考えていると、母がまた口を開きました。「もう一つの病気のことは先生に話してあるの?」と。「……もう一つの病気って???」と私は混乱しました。訊いてみるとどうやら強迫性障害のことだとわかりました。“もう一つ” という表現の意味がちょっとわかりませんでしたが、混乱と同時に激しい嫌悪感、というか怒りの湧き上がりに自分がコントロールできなくなりました。

何がそんなに嫌なのか、何に腹を立てているのか、よくわからないことに自分自身で戸惑いながら「強迫性障害のこと? 話してあるもなにも、診断されたから障害の名前があるんでしょ」と強く言ってしまいました。

それから暫く、私は自室にこもって冷静さを取り戻そうとしました。

 

 

父との対話

その日、母は自身の掛かりつけ医に行く日で、母が家にいない間に、私は父と話す時間を設けてみました。

父の話では、私が自室で頭を冷やしている間に、母は父に「まきの障害、知ってた?」と訊いたそうです。父は「知らなかった」と答えたそうです。少なくとも数分から数十分かけて、それを何度も一応説明してきた数年の私の行動は無駄だったのだということが、話せば話すほど明らかになりました。

彼らにとっては、私が日常的に話したり、通院後に主治医に言われたことをできるだけわかりやすく工夫して説明したつもりのことは、「聞いてないから知らない」ことであり、病気の理解どころか “理解していないこと” があるということの認識も薄く、興味を持って理解しようとする姿勢は持っていないらしいのでした。

 

父は基本的に母を擁護し、「先生に訊いてみたいと思っていることもある」と言いました。私はできるだけ父の言うことを一つ一つ噛んで飲み込むように聞きました。

 

父の言う「訊いてみたいこと」というのは、うつ病の磁気治療についてでした。話によると以前、母が、父方の伯母からうつ病の磁気治療についての冊子を渡されたことがあったそうです。伯母は元々健康食品などが好きで、そういった何かの集まり(?)のときに貰った冊子を見て、うつ病の比較的新しい治療法を姪である私が受けてはどうかと思ったそうです。母は、その冊子をそのまま父に渡したそうです。そして、父は「まきは必要な治療は受けているから」と冊子を伯母に返したのだそうです。父の話によると、それが去年のことなのだそうで……父は「磁気治療についてどうなのかを主治医に訊いてみたい」というのでした。

まず、伯母が冊子を見て私の病気の心配をしてくれたことも、それを両親が受け取ったり返したりしていたことも、私はこのとき初めて聞きました。

磁気治療が難治性うつ病に効果があるらしいことも、副作用が少ない治療法であることも、テレビ番組を見て知っていました。私自身が磁気治療を受けようと思わなかったのは、磁気治療器は都会に行かなければ無いだろうと想像していたからです。その根拠は、主治医から選択肢として提示されていないことでした。近くに磁気治療をやっている病院があって、手軽に受けてみることができるなら、進んで紹介しないにしても選択肢として存在することを教えてくれているだろうと、思っていました。

 

次に父が「わからない」と言ったのが、『社交不安障害』でした。

4月に診断を受けてから、私なりには説明したつもりでした。父の “わからない” ポイントは、「社交不安障害で、手を何度も洗ったりするっていうのがわからない」というのと、「『障害』と『病気』の違いがわからない」というのでした。

私は、手を何度も洗うのは『強迫性障害』で、それは一昨年まで通っていた前の病院で既に診断されていたことを話しました。

それから、『障害』と『病気』の違いは翻訳の仕方の問題で、日本語の話になることを説明しました。『障害』は先天性のものを含め治らないという前提がなんとなくあり、対して『病気』は治療を施す対象のものを指す前提がなんとなくあり、しかしこれらの前提はあくまでなんとなくなので、ある精神科医が「治るものではない」と言う『双極性障害』も『双極症』と言い換えられようとしている、と話しました。

 

そして父は、「障害者手帳を取ってみたら?」と提案してきました。

自立支援医療の診断書が必要な年の更新時以外の時期に、障害者手帳の申請をするとなると、その分の診断書代が掛かることを伝えると、「それでもいいじゃない」と支払ってくれるようなので、「確かに、手帳があったほうがお母さんみたいな人にはわかりやすいかもね」と納得しました。

 

このとき既に私は頭にきていました。いや、結構前からイラついていたのを我慢した方だと思います。

私の感覚では、疑問に思っていることを直接訊きもせずに裏でヒソヒソ言っている人の考えが理解できません。伯母から貰った冊子の話も、どうして私には隠していたのかわかりませんし、障害について疑問があるのにそのままにして私に質問してくれない理由もわかりません。

磁気治療について主治医に訊いてみたいなら、その旨を私に話してくれれば診察時に訊くチャンスは幾らでもあったと思います。訊いてみることもしないで「訊いてみたいと思ってる」と言われると、被害妄想的に受け取れば、「田舎の医者(私の主治医)に訊いても大した知識も無くて収穫が無いだろう」と主治医を侮辱されているように感じました。

 

 

通院日

前日の午後にたまたま体調を崩した母は、「付いて行ってあげようか?」の発言についてどうするとも言って来ず、いつものように私は一人で通院しました。

一人の方が正直気楽だったので、具合が悪いのは気の毒ながら私は少し安心しました。

 

主治医に会うにあたって、何をどう話していいものか、頭の中がぐちゃぐちゃでした。どうにか言いたいことを言おうと、メモを書くことにしました。

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主治医の言葉

まず正直に、親が突然付き添いを申し出て戸惑ったことを話しました。

親が通院に付き添うのは、「その方が安心してもらえるかもしれないから、親御さんの体調と通院日が合えば来てもらってもいいよ」と。

親心を気遣って言葉を選びながら誠意を持って応対してくれる主治医を見て、きっと今までにも家族の理解が得られない患者さんの相手を沢山してきたであろうことに、やっと思い至りました。患者の家族や周囲の人に病気・障害を理解してもらうために話しをすることは、医師の仕事の一つなのかもしれません。

主治医のプロらしい物言いに、私は、親が来ても来なくてもどちらでも安心だと思えました。

 

『反復性うつ病性障害』『社交不安障害』『強迫性障害』で障害者手帳は取れるのか? について。

現在住んでいる自治体で手帳を取るなら、反復性うつ病性障害で3級だろう。障害者雇用枠で働くことを希望していない今の段階では3級だとメリットが少ない、ということでした。

しかしながら、家族の理解を得るためなら手帳取得よりも直接お話しした方が効果的ではないか、とのことでした。

 

磁気治療について。

うつ病の磁気治療を受けるには遠征の必要あり、同じクリニックに通う患者さんの中にも数十万円の旅費と治療費を掛けて磁気治療を受けている方がいるそうです。

主治医が磁気治療をしている医師に話を聞いた限りでは、アメリカでは磁気治療器が2社から発売されていて、効き目が強い方のメーカーの機械は日本にまだ入って来ていないそうです。なので、どうせお金と労力を掛けるなら、効き目が強いメーカーの機械が日本に入って来てからでもいいのではないかと思うとのことでした。

私自身が磁気治療を強く希望しているわけではないので、見送ることにしました。

 

 

気持ちの整理

やはり、私の主治医は質問すれば色々と教えてくれる先生でした。訊いてみたいことは、さっさと訊いてみればよかったのです。

 

母に「もう一つの病気のことは先生に話してあるの?」と言われて、混乱して激しく嫌悪を抱いた私の中には、大きく分けて3つの気持ちが渦巻いていたのでしょう。

①なりたくもない病気の治療を自分なりに精一杯やっているのに、まるでやる気が無いように思われていることが心外だという気持ち。

②診断されてもいないのに障害の名乗っているかのような言い掛かりを感じたこと。

③それから、そこに母自身が関わることで治療が大きく進むような口の挟み方なのに、付き添いの理由を尋ねると内容が無いことでした。

きっと母は、本当に軽い気持ちだったのでしょう。私がどういう気持ちになって語気を荒げたのか想像がつかず、急に怒り出したと得体のしれないモノのように思っていたかもかもしれません。

 

 

通院後の帰宅

毎度クリニックから帰ると、診察時の話などの変わったことや薬の処方などの変わらないことを、そのときに応じて家族に話しています。

今回はどういうテンションでどう話していいか、少し悩みました。結局、診察室での会話の内容のほとんどを、できるだけニュアンスを変えないように話しました。

それから、前日の母の発言で私が嫌な気持ちになったこととその理由を説明しました。

もちろん、私が「まるで治療する気が無いみたいに受け取れて嫌だったんだよ」と言えば、「治療する気が無いなんて思ってないよ」と反射的に言葉を返されました。逆の立場の設定で例え話をして、「想像してみてよ」と言うと、納得したような返事をしてくれました。

「私は何回も説明してるのに、忘れられて “知らない” って言われる。説明するのって大変なんだよ、時間も気力も必要なんだから。忘れることはコントロールできる範囲じゃないから仕方ないけど、忘れてることがあることは知ってよ」などと、意味があるような無いようなことを言ったりしました。

母は、「全然わかってあげられてなかったんだなって思う」と言っていました。

 

 

私はこうして確かめているのでしょう。家族の理解が得られる日なんて来ないことを。

たぶんもう、数日経った今では、私が何についてどう話したかは忘れられているかもしれません。もしかしたら、話をしたこと自体も忘れられてしまっているかもしれません。

「わかってあげられてなかった」という気持ちだけでも、ぼんやりとでも持っていてくれたらいいな、という思いが私自身の弱さなのだと思います。

洗脳の方法~宗教もブラック企業も~

新卒で就職したところが老舗ブラック企業だった 小柏まき です。

 

 

前回記事に引き続き、今回も人の心の働きについてです。 

 

今回は入社したブラック企業の新人教育方法に触れつつ、巷で応用されているであろう洗脳方法を具体的に見ていきます。

 

目次

 

 

洗脳の手順

 

まずは、外界から隔離します。

外からの情報を断つことで意識が向く事柄が限定されていきます。また、比較対象が近場に無いことで現在の自分の置かれている環境や状態を客観視しづらくなります。

 

 

次に、心身共に弱らせます。

これは個人的には本当かどうか判別できないのですが、新興宗教の勧誘方法の中で見聞きしたことがありました。

身体を弱らせれば精神は不安定になりやすいので、身体を弱らせます。具体的には、食事の量や回数を減らして飢えさせたり、睡眠を妨害したりします。

そして心も弱り始めてから、人格を否定したり存在価値の無さを責めたりして精神的に追い詰めます。

 

 

冷静な判断力を失い、生命の危機を感じるようになったら、条件付きで欲求を叶えていきます。

教え通りに改心した言動をすれば、食事や睡眠を与えていき、衰弱から回復させます。

このときに、この報酬は教えに従ったから得られたものだと説きます。

 

これで、寝ることも食べることもままならず苦しかったときのトラウマを抱え、教えられたことは身を守るため・豊かな生活をするために大切なことなのだと思い込んだ状態が、ほぼ出来上がります。

人格否定され続けていた状態から、周囲に歓迎される存在にポジションを変えた体験によって、「今までの人生が間違っていた」「やっと目が覚めた」と感じるかもしれません。

 

 

最後に、隔離場所から解放して普通の生活に帰すのですが、世の中の一般的な暮らしなどの情報に触れると、自分が教え込まれたことに違和感を感じて遠ざかる原因になります。

そこで、定着・強化するための行動を取らせます。

それが、他者に教えを説くことです。そしてその行為に報酬は与えないことが重要です。報酬を与えると、その行為は報酬のためのものになってしまうからです。

 

私自身の社交不安障害を『報酬に見合わない労働には遣り甲斐を見出して納得する心理』に焦点を当てて扱った前回記事はこちら↓

ogasiwa-maki.hatenablog.com

 

 

宗教の勧誘の場合

 

実際に私自身が強く勧誘されたことはないので、テレビやインターネットの情報をもとに考えてみます。

人里離れた施設で山籠もりしたり、出家という形をとって今までの生活とは環境を変えたりするのは、日常的な情報を遮断するためなのでしょう。

このように洗脳の過程を踏まえれば、宗教の悪質な勧誘で「拉致されて攻撃された」という内容を聞く機会があるのは、それが許されることかどうかはさておき納得できます。 

そして何より、信徒による宗教の勧誘には、新規の入信者を増やす目的以外に勧誘している人の信仰心を強める効果があると言えます。

 

 

 

ブラック企業の場合

 

入社後すぐに、行ったことのない山中の施設に連泊し、30キロの山道をグループで競うウォークラリーをしました。

他には、散々大きな声を出させられたり、照明を落とした中で参加者同士が強い言葉を掛け合うなんてこともしました。

緊張感の中で寝起きし、ウォークラリーで体力を消耗し切って、いろんな話を聞き、いろんなことをしました。

 

後になって冷静に振り返れば、山中での合宿は外界からの隔離であり、疲弊したところで理念を説くのも含め、洗脳の方法をとっていたのだと思いました。

結局、身体を壊して退職しましたが、この会社で働いていた時期を思い出すと「楽しかった」という印象が強いのは、私自身の心の働きによるものなのでしょう。