考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

描いた絵7[果物]

昨年の春のお彼岸の供物を描いた絵です。

 

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果物

2021年3月29日

 

使用画材は、ウォーターフォード水彩紙ブロック中目F2。絵の具は透明水彩絵の具ウィンザーニュートンのコットマン12色セット+セピア単色です。

 

年中行事で家に果物やお花があると、せっかくだから絵に描こうという気持ちになりやすいです。しかしながら、見て描いてとじっくり時間を取ると出来上がりが季節の後追いになってしまいますね。

初心者でも丸い物は描きやすいので、林檎や梨やオレンジは格好のモチーフです。実際とは少々形が違っていても元々個体差があるので誰も気にしませんし、ほぼ球体なので陰の付き方もわかりやすいです。また微妙な色の変化を見ながら描くのも楽しいです。

 

こうして一年前の自分の絵を見ていると、この一年で大きく成長したなんてことはないにしても自分の中では出来ることが増えていて、この頃は絵を描くことに慣れていないなぁと感じて面白いものですね。

描いた絵6[神社]

昨年3月に描いた絵です。

 

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神社

2021年3月19日

 

使用画材は、ウォーターフォード水彩紙ブロック中目F2。絵の具は透明水彩絵の具ウィンザーニュートンのコットマン12色セット+セピア単色です。

 

前回桜の花の絵を描いたので、建物を描いてみました。構造物を描き込んでいく楽しみがありました。

気ままに自転車で出掛けた神社です。左奥から日が差していて、全体に明るい画面にしたかったものです。

水彩絵の具は乾くと濡れている時よりも色が薄くなるので、思っていたよりも淡く仕上がった印象です。

【北京五輪】フィギュアスケート女子 BEIJING2022

北京オリンピック2022 フィギュアスケート女子シングルの試合を観ました。

4回転ジャンプを決めながら演技全体を通して高い完成度だったアンナ・シェルバコワ選手が金メダル。5本の4回転ジャンプを組み込んだ男子並みの演技構成を多少の乱れのみで滑り切ったアレクサンドラ・トゥルソワ選手が銀メダル。ショートプログラムに続き、フリープログラムでも磨きをかけた自分の演技を出し切った坂本花織選手が銅メダルでした!

 

近頃のフィギュアスケートを観てきていなかった私は、ジャンプのバリエーションに富んだ選手の多さに回転数の多いジャンプをぽかーんと呆気に取られながら観ました。レベルが高過ぎて、「あぁ凄い選手がこんなにも活躍する時代なのだ」と思いました。

 

当時見ていなかったのか、見たのに忘れてしまったのかわかりませんが、私自身は前回の冬季オリンピックのことをあまりよく知りません。もしかしたら病状でテレビを眺めていることも出来なかったのかも知れません。

余談ですが今大会で試合とは別にちょっとテンションが上がったのは、アダム・リッポン氏が選手ではなくコーチとしてオリンピックに来ていたことでした。時は経つものですね。

 

 

河辺愛菜選手の演技とインタビューを見て

17歳にして初めての大舞台で、6分間練習で他の選手に惑わされてしまったと話していたショートプログラム

フリーへと駒を進め、攻めの姿勢で跳びにいくトリプルアクセル。ミスがあっても滑り切る強さ。滑り終えたインタビューでは「次はオリンピックに出るだけじゃなくて」「4年間必死に頑張りたい」と涙ながらに語ってくれました。

観ていても、フリープログラム前の練習ではなかなかジャンプが決まらずいいイメージで始められなかった様子でした。失礼ながらトリプルアクセルを回避してダブルアクセルで確実に決めていく選択肢もあるのかな? などと思っていました。しかし彼女は挑んでいきました。私は「あぁオリンピックに出るような選手ってやっぱり強いんだな」と、心を強く持ってぶつけていった河辺愛菜選手に見せつけられました。

思うような演技ができずにフリーの点数がついたキスアンドクライでは、コーチも慰めることさえ憚られるほど “大舞台での結果” に打ちのめされている様子でした。

 

樋口新葉選手に魅了される

今回のオリンピックの開会式前から始まっていたフィギュアスケート団体の、女子ショートプログラム樋口新葉選手の演技を観ました。団体では日本は3位銅メダルに輝きましたよね。

女子シングルのショートプログラム前の樋口選手は、とても自分の練習に集中している様子でした。団体戦を経て緊張を乗り越えたのかなと感じました。演技開始の時の表情も、周りから見られている自分として優しい笑みを湛えていた印象の団体の時とはまた違って、集中して演技に入り込んでいるように見て取れました。

しなやかで優しい女性らしさの中に高難度のジャンプが組み込まれていたショートプログラム。衣装も振り付けも綺麗でカッコイイ、フリープログラムのライオンキング。それらに引き出される樋口選手の多面的な魅力に心が掴まれました。

最終的には5位入賞という順位でしたが、オリンピックでトリプルアクセルを決めた女子選手5人目となり、日本人でショート・フリー共にトリプルアクセルを成功させたのは浅田真央選手以来のことでした。

 

 

練習では何度となく成功していることが、練習通りにできなくなってしまうのが本番なのだと思います。だからこそ、大きな国際試合では全員の自己ベストが出るような試合になるように祈るような気持ちで見ています。一方で、ミスが出てしまっても諦めずに最後までやりきる強い気持ちに心を打たれることも多いです。

 

 

自己ベストを揃えてきた坂本花織選手

周りの選手の雰囲気や滑走順でプレッシャーが掛かっても、揺るぎない自分の力を発揮したのが、坂本花織選手が銅メダルに輝いた勝因だと思います。

他の選手のように3回転半や4回転のものはありません。しかし、終始スピードに乗った流れの中で繰り出されるダイナミックなジャンプは素晴らしく質が高く、そんな技の数々が一つの演技にまとまっているのは見ていて気持ちの良いものでした。

自分のことに集中することに関してずば抜けている印象でした。ショートプログラム後やメダル確定後の涙は、それが本当は凄く難しいことなのだと物語っていました。

 

 

今大会で恐らくもっとも話題になったのは、ROCのカミラ・ワリエワ選手のドーピング問題だったことでしょう。

スポーツ仲裁裁判所なるものの存在を知ることになりました。そしてスポーツ仲裁裁判所の見解と大会側IOCの見解が一致しないまま日程が進んでしまうことがあるのだということも。

IOCの[ワリエワ選手が3位以内に入ったらセレモニーは見合わせる]という姿勢も、個人的には初めは理解できませんでした。

ショートプログラムのワリエワ選手は、嘘みたいに綺麗で危なげなく、それでも凄く難しいことをやってのけるのでした。

ショート1位でフリーの滑走順が最終滑走に決まり、直前の数選手の演技で歴代最高得点などの歴史が刻まれていく会場でのフリープログラム。それまでのワリエワ選手の演技とは同じ人と思えないほど上手くいかない結果でした。

彼女は世界一を競う選手であると同時に、人間でした。人生のほとんどの時間を注ぎ込んで競技をやってきた、15歳の人間だったのです。

もしかしたらIOCは、こうなることを予想して、或いは望んでいたのではないかと思ってしまいました。

 

また、セレモニーのときの銀メダリストのトゥルソワ選手の様子が自然ではなくメイクも崩れていて、沢山泣いた後に見えました。後日、セレモニー前に泣きながら何かを訴えて女性コーチのハグを拒んでいる様子の動画を見ました。ロシア語は全くわからないのですが、とても辛そうでした。「この競技が嫌い」「もう氷の上には行かない」と言っていたらしいという噂を聞きましたが……それが本当に彼女の発言内容だとしたら、一体どんな経緯だったのでしょうか。

 

 

選手たちにとって競技は、人生を掛けて心血を注いできたものだから酷く辛そうな選手を見ると苦しくなります。私も見ていて何度か泣いてしまいました。

私は素晴らしいものを見せてもらっている恩恵を受け取るばかりなので、若い選手に「まだ若いんだから次頑張りなよ」とは、到底簡単には言えません。

いろんなことと闘いながら大会を終える選手たちに、ありがとうと言いたいです。

 

最後に、坂本花織選手 フィギュアスケート女子シングル日本人4人目(12年振り)のオリンピックメダル、おめでとうございます!

描いた絵5[桜の花]

昨年2月に描いた絵です。

 

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桜の花

2021年2月25日

 

使用したのは、ウォーターフォード水彩紙ブロック中目F2。絵の具は、透明水彩絵の具ウィンザーニュートンのコットマン12色セット+セピア単色です。

 

これは初めて水彩紙のブロックを買って描いてみたものです。初めてのコットン100%の紙でもあり水加減や乾く時間がわからず、また透明水彩絵の具の扱いにも慣れていないので、描いている時間のほとんどが慌てていた記憶です。

数年前に両親と一緒に近所の神社に桜を見に行ったときの写真を見ながら描きました。

桜の花と蕾にピントを合わせて、周りは後ろの木の緑や他の桜をぼんやり描きたかったです。

描いた絵4[雲と太陽]と[水面と雲]

昨年1月に描いていた絵です。

 

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雲と太陽

2021年1月15日

 

 

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水面と雲

2021年1月20日

 

2つともネットで拾った画像を見て描きました。

[雲と太陽]太陽の一番明るいところは絵の具を乗せず、青空をグラデーションしたかった絵です。初めてマスキング液を使って太陽と雲を白抜きしました。マスキング液の扱いが下手で、太陽を丸く塗れませんでした。グラデーションもなかなか上手くいかず、塗る部分と塗り残す部分との境界がくっきりしてしまいました。

[水面と雲]向こうから差す光で水面がいろんな色に見えるのを描きたかった絵です。水彩らしい滲みが少し出て、楽しめました。

幅広のマスキングテープを周囲を包み込む形で貼ることで紙の波打ちを食い止めようとしましたが、限界を感じました。

滲みやグラデーションをもっと自然に美しく出すには、もっと保水力の高い紙を使うべきでした。

それから、水や絵の具の扱いにもう少し慣れる必要がありそうでした。

 

使った透明水彩絵の具は、ウィンザーニュートン コットマン固形水彩12色セットと、同じく単色買いのセピア。

紙はマルマン図案スケッチブック。

メンタルクリニックに家族が同行した話[エッセイ]

あけまして2022年。今年も細々とブログ投稿していこうかなという 小柏まき です。

闘病のことと、過去の記憶の整理と、些細な日常の中の備忘録として機能している本ブログです。

さっそくですが年末の通院とそれに関する家族のことを記しておこうと思います。

 

 

2021年は、私のメンタルクリニックに初めて家族が付き添ってくれた年でした。

 

それまでの過去

私には兄が居て、兄も昔精神科に通院していた時期があります。その通院には母が何度も付添っていたようでしたし、関係あるのかわかりませんが母はカウンセリングの講習を受けたりしていたそうです。私は高校卒業以来数年間、地元を離れていたのであまり詳しくは知りません。

私が今回のうつ病になって何年が経ったのか、記憶が壊れていて何かを見返さないと大まかな時間の量もわかりません。多分うつ病性の健忘症なのでしょう。

しかしハッキリわかるのは、家族に付添ってもらってメンタルクリニック(精神科・心療内科)に行ったことがそれまでに無かったことです。

 

家族が初めて「一緒に行ってあげようか?」と言ったのは2019年12月。母が思いつきで言い出して、結局うやむやになって当然のように一人で通院しました。

2020年4月、希死念慮の話をしたときに思いついたように父が「病院に行ってみようかな?」と付添うようなことを言い出し、理由を尋ねると「行ったことないから」とのことで、しかし当日になってやっぱり行かないと言うのでやめになりました。

2020年7月にも思い付きで「一緒に行こうかな?」と言われて同行する想像でストレスを感じ、それも実現せずに終わっていました。

 

 

 

同行すると決まった経緯と通院前

2021年10月、初めて父親が私の通院に同行しました。これは前もって主治医に次回は父親が付き添う旨を話しておきました。というのも、父から障害者手帳の取得を勧められて、手帳取得のための診断書を書いてもらうことを主治医にお願いするという目的があったからです。

障害者手帳の取得をどうするかという話は、私が社交不安障害と診断された2019年から出ていました。父が「障害者手帳を取ってみたら?」と軽く言ってきたことはありましたが、手帳を取る方向で話をしようとすると主治医や家族の誰も取得した方がいいと思っていない様子で、自立支援医療の更新時の診断書と兼用のを書いてもらうタイミングを逃していたので診断書のお金と申請する労力を考えて申請しないまま過ごしていたのでした。

何故このときになって父が手帳の話を持ち出したのか、それはおそらく、障害年金の申請の布石としてです。障害年金障害者手帳は別のものなので、本来は関係ないとされていますが、地域によっては障害年金の申請時に障害者手帳の等級を書く欄があるらしく、手帳の等級を年金の判断材料にする場合が否定できないためです。

 

この通院の少し前に、父は私の苦手なことについて “俺は小さい頃から時間を掛けてようやく克服してきたのに子どもは一から引き継いでいる” というようなことを暫く嘆いていました。私には意味がよくわかりませんでした。考え過ぎの心配性なところや人とのコミュニケーションが苦手なことは確かに父に似たかも知れません。ですが私のように日常生活に支障をきたすことがなかった父が、私と同じように病気や障害を抱えていて、しかもそれを努力と訓練で克服したとは私には思えませんでした。

こんな病気などで普通のことができずに自尊心も持てない、少しでもよくしようと時間を掛けてきてやっと今の状態の私を、否定されたような気持ちになりました。

 

初めて通院に同行してくれた父が、主治医に何か質問をするのか、私のことを何か言うのか、わかりませんでしたが専門家と直接話してスッキリするといいと思っていました。

 

 

付添い通院日(初回)

当日。いざ診察室に入って私がいつも通り近頃の状態を主治医に話し終えると、父が手帳申請用の診断書の依頼をして、主治医が「お父さん何か聞きたいこととかありますか?」と聞いても「いやぁ、特には」とふわふわ笑うだけでした。私は「前にこれがわからないって言ってたじゃない」と口を挟み、過去に父が私の社交不安について「“障害” なのか “症” なのか」と疑問を持っていた様子を説明して、それについて主治医が答え、父はうなずくというのをやりました。病人である私がやけにテキパキと仕切って喋っていたことが、父がせっかく一緒に行っているのに事務的なこと以外喋らないのが肩透かしを食らったようで疲れてしまいました。

診察を終えて会計待ちのときには父は私の後方にある長椅子に腰掛け、視界の外に居ました。もしかしたら他人の振りでもしたかったのかも知れません。会計に呼ばれて済ませ、クリニックを出ようと待合室を見ても父が見当たらず暫くウロウロと探し回りました。どう見ても待合室に居ないので外まで出て探し、やはり居ないので再び待合室を見て回り、受付の人にここに座っていた男性の行方を聞こうとしたとき、父がトイレから出てきました。長椅子から立ったときに「トイレ行ってくるね」と一言声を掛けてくれればいいのに、それが出来ない人なのだと思いました。

 

この同行は、病気の人に対する付き添いではない。診断書の依頼なら私一人だって出来るはずなのに、父は私には出来ないと思い込んでいるのか、自分の仕事ででもあるようにそれだけのために一緒に行ったのでした。

薬局で薬をもらった後、時刻は昼の12時過ぎでしたが、父は図書館に行くからと言い道端で解散しました。

 

 

付添い通院(2回目)

12月の通院に父が同行したのは、障害年金申請のための診断書とその他の書類を主治医に依頼するためでした。

通院の前に、主治医には前もって話を通しておかなかったので、受付で挨拶して診察時には診察室に先に入ってと父に言っておきました。

実際に行くと父は、受付のところで「どうも」と会釈をして、診察時には純粋な付き添いだと思っていた主治医に「お家での様子はどうですか?」と聞かれてもそれには答えず、手続きの話に入って書類の依頼をしていました。

詳しい診断書を書くことになった主治医が、私の幼少期からについて幾つか確認や質問をしてきました。私がそれらに答えた後、主治医から「お父さんにお聞きします。〇〇さんは大きな病気などをしたことがありますか? 子どもの頃も含めて」と質問されました。私は自分が答えてしまってはいけないのだと思って黙って父の様子を見ていました。父はこの質問にも、答えませんでした。「なんかあったよねぇ」と言って遣り過ごそうという感じでした。そんな父が恥ずかしくなってきて私は「あったでしょ?」少し待っては「肺炎で入院したでしょ?」と口を挟んでしまいました。

 

私は知っていたのです、父が私の病歴など憶えていないことを。病歴だけではなく、私のことなんて興味が無いことを。

 

思えば今までの人生で何度もインフルエンザに罹りました。マイコプラズマ肺炎には子どもの頃2回罹り、一度は入院しました。中学生のときに肩を脱臼しても病院に行かず、大学生のときに胃痙攣で痛みが酷くても救急車を呼ぶのでなければ病院に行こうとせず適当に断食して2週間寝込んだのでした。

主治医に聞かれたとき、私自身が肺炎以外に何も思いつきませんでした。

 

父も私も、私の身体のことを興味を持って心配する意識をあまり持っていませんでした。

 

昔のことを忘れることが悪いことだとは思いません。なので、主治医に質問されたとき、憶えていないなら「憶えてません」「ちょっとわからない」とせめて父に答えてほしかったというのが正直なところです。わからないままで、しかもその話題に取り合わないままでいいというスタンスが、なんだか少し悲しかったです。

 

この12月の通院時、私は生理痛と貧血やなにかで歩いている感覚が無くフラフラしていて、倒れないようにゆっくり歩いていました。バス停までやバスを降りてからクリニックまで共に歩く父は、私を追い越して暫く待ってみたり並んで歩いてみたりを繰り返していました。「どうしたの?」「大丈夫?」とか「具合悪いの?」とは一言も聞きませんでした。

帰り道に駅の近くで「じゃあ〇〇寄って帰るからここで」と道端で解散しました。時刻は昼の12時過ぎです、「お昼何か食べてから帰るの?」「何時ごろのバス? 電車?」気にならないものなんです。私は、置いて行かれたのだと感じてしまいました。

 

 

私は誰かにとっては具合が悪くても気にもならない存在かも知れません。

でもだからといって、私自身にとっての私の価値まで、誰かの影響を受ける必要はないのかも知れません。

今年が一番幸せだったかもしれないと思う2021年末

洋楽にイルミネーションと冬服でクリスマスまで洋風の雰囲気を散々醸しておきながら、クリスマスを過ぎると(下手すると24日を過ぎると)途端に厳粛な年末年始感で和風に振る手の平返しが凄い日本の一面が、個人的に好きな 小柏まき です。

年末なので、今年を振り返った気持ちを手短ながら書き留めておこうと思います。

 

 

結論から言うと、今年が一番幸せだったかも知れないと、なんだか本気で思ったりします。

 

その理由は、こんなに絵を描けるときが人生にあるなんて思っていなかったからです。

子どもの頃に「画家になる」とか言っていた一人でお絵描きしてる時間が好きだった私は、即座に「お前は絵を手放せないから無理」と大人に言われていました。

当時は画家という言葉を覚えたてで響きに憧れていたのかもしれません。でも、人間性は理解されずとも作品を人に評価してもらえる人物像は、格好よく思えて、自分がそういう風になれたらいい気がしていました。

家で一人で絵を描いて遊んでいた小学生の頃、兄弟に「(ゲーム名)の(主人公の呼称)を描いてよ」と言われ、それが「わかんないから描けない」「嫌だ」と何度断ってもしつこくされて自由に絵を描くことも邪魔されて何もできなかったので適当に描いて乗り切ろうとしたら、私の描いた絵の変なところをを一つ一つまるでそんなことも出来ないなんて信じられないといった様に怒るような馬鹿にするような大きめの声で指摘されたりしていました。

また別のとき、不登校だった頃には、庭の柿の木を学用品の水彩絵の具で画用紙に描いている時、家族がその柿の木の枝を切り落とし始めたりしました。家の庭には柿の木は2本あり他にも背の低い木は何本かあるにも関わらず、また木の剪定自体毎年するかもわからないくらい手入れをする習慣もないのに、でした。

もっとずっと幼い頃には親と一緒に描いた絵を次の日のゴミに出されて泣いたり……なんてこともありました。絵を描くことにまつわる思い出は好くないものが多いですね。

それが理由かわかりませんが、描くのが好きだった子どもの頃も将来の絵を描く自分は想像できませんでした。

 

また、絵を描くことは好きでも、体調が原因で描けない時期が私の人生には多かったと思います。

今年は、昨年入手した透明水彩絵の具での水彩画をはじめ硯と墨を買って水墨画の真似事をしてみたり、またスマホアプリでのイラストも気の向くままに描いてみたり出来ました! 自分で思ってもみないほど、絵を描くことを楽しむことができた年でした。幼い頃の自分に、今の自分が居ることを教えてあげたいくらいです。

 

他にも、今年は色々な人と関わりを持てた年でもありました。

Twitterを使っていることが多い日々ですが、SNSの発達は個々人の言葉や画像に触れる機会を与えてくれます。

絵を描く人や、闘病仲間との関りに恵まれました。

 

とはいえ病気なので、頭痛に耐えて涙を流しながら横になっているしかない時間を何時間も過ごしたり、というのはあったわけですが、好いことに目を向けていたいのです。