考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫体験】女の、考えの調理場。

違いに救われる

内向的でぐるぐる考え出すと出口がわからなくなる

 小柏まき です。

 

ブログを始めて、以前よりも誰かのブログを拝読する機会が増えました。

SNSTwitterがメインですが、ネット越しでさえコミュ障なので、意図と違った受け取り方をされてしまって結果的に嫌な気持ちにさせてしまうということが、たまにあります。申し訳ない限りです。

私がそう認識していない範囲でも、知らず知らずのうちに嫌な思いをしている人はいるかもしれません。少し前の状態の私だったら、そこをグズグズと考えてしまって落ち込むのでしたが、近頃は多少の誤解はお互い様なのかなと思うようになりました。

 

人は誰でも、どんな人でも、自分以外の人生を生きてみることはできません。ですから、誰かのことを完全に理解するというのは、無理なことです。

もし誰かを完璧に理解している自負があれば、それは勘違いです。

 

いろいろな人の言葉に触れる機会があると、自分には全く想像もつかない思考や発想をする人の存在が少し見えます。

自分と考えが違うと、もちろん共感はできません。ですが、共感だけが人と交流することのよさでしょうか?

 

例え話として。もし自分とまるっきり同じ状況で生きていて、自分と同じことを感じ・自分と同じことだけを考えている人が居たとしたら、共感できて支え合うことはできるでしょう。しかしその人と言葉をやり取りする意味があるでしょうか? 言葉のやり取りが意思表示や意見交換が、意味を持つでしょうか?

 

実際の世の中には沢山の人が居て、どの人もそれぞれ違った世界を見ていて、違った感覚や考えを持っています。

誰かの言葉に、自分には無いものを感じたとき、「ああ、こういう人も居るんだな」「私とは全然違う方を向いて進もうとしてるんだな」と思うと、安心します。

私には想像もつかないようなモノの見方や受け取り方が、誰かにとっては当たり前にあるかもしれないからです。私には行き止まりの壁にしか見えないモノが、誰かにはワクワクする扉に見えるかもしれません。

そういう人達が同じ時代に同じ言語を遣っていて、少しでも関われることに、私はホッとするのです。

 

意見や考え方が違うと、同じ言語を遣っていても誤解が生じやすくて、言葉をやり取りしても噛み合わない感じがする人も居ます。でもそれも、理解したい気持ちの一方で、理解できないことの存在を教えてくれていると思えます。

噛み合わないことが良いか悪いかはわかりません。でも、噛み合わないやり取りをしてくれる人の存在は、私のことを少しずつ理解してくれる人の存在とはまた別の有難さがあるのです。

もしかしたら、誰のことも完全に理解することはできないと確認することで、自分が他の誰にも理解されなくてもいいのだと思えるから、というのもあるのかもしれません。

 

沢山の理解できないことの存在を認めて、そのうえで誰かの気持ちを想像したり、理解したいと関わってみたり、違いをそのまま受け入れたり。そうやって人と接して生きていられることは、私にとって幸せなとこです。

誰も、他の誰かにはなれないのです。誰も、“誰でもない人”にはなれないのです。

あなたは私にはなれない、私はあなたにはなれない、自分は自分でしかいられない。そんな当たり前のことが当たり前であることに、泣きたくなるくらいです。

 

たぶん私は“自分は一人の人間なのだ” “ひとりぼっちじゃない” “この世界は閉鎖的ではない”ということを、実感しているのだと思います。

 

ありがとうございます。と、書かせてください。