当事者的な、痛みがある文章を書きたいと、思っていました。
精神疾患や生きることの苦しさを抱えている、本人の声というものが、専門家の本などには不在だからです。
専門家の文が専門家的なのは、当たり前のようでいて、専門家を志すきっかけが生きづらさだったりすることもあることを考えると、どこまで個人的なスパイスを入れるかのジレンマを想像します。
「考えること」と「感じること」
考えることは、或る事柄の一端に触れて知識を深めていくことと、その知識を使ってものの見方を変えてみる試みと、そこから見えたことを深掘りするための材料探し、という「知識を得る・知ること」と「思考する・考えを巡らす」ことからなっていて、それらが片方だけでは機能しなくて交互に働くことだと思います。
感じることは、そのまま五感で受け取った刺激もそうですが、心での受け取り方も含んでいると思います。受け取り方は、個人の思考癖や、それまでの人生での経験や、遺伝的に持っている脳によっても変わるでしょう。
昔、学力も学びながら生きてきた人生経験も豊かであろう人が言いました。
「この方の素晴らしいところは、ちゃんと感じてるところ」
と。ここでの「この方」とは、地元から離れて暮らしたこともなさそうな、若くして結婚・子育てをしていて、話の内容も態度もどこにでも居そうな昔ちょっとヤンチャしてましたみたいな感じの人でした。
この発言をした人は、私には想像もつかないような研究をしている人だから、きっとどんな人のことも悪くは言わないし、そういう見方もできるのだろうと何気なく聞いていました。
この言葉が発言者の、心の深い部分から出てきた本当の気持ちなのだと考え至るのは、それから何年も経ってからでした。
人は、学歴や地位や財産や人生の長さが、その人の一部を測るのに簡単で、どうしても他の部分は把握しづらいものです。
私はこの発言者が「ちゃんと感じて」生きられないという苦しみを抱えているなんて、思ってもみなかったのです。
かくいう私自身も、数十年生きてみて、この人生で起こったことの全てを「ちゃんと感じて」いたかというと、全くそう言えない部分もあります。
ちゃんと感じながら生きるということは、出会ってしまった場面にしっかり向き合うことだと思います。酷く悲しいはずなのに涙が出ない・怖い目に遭って思い出すこともできない・記憶が繋がっていない、そういう体験をしたことがあれば、感じることで自分が壊れてしまうよりも心を守ることのほうが大切であることを知っていることでしょう。
ですからそれが善悪や優劣に関わることではないわけで、深い傷に蓋をして過去を忘れることも、生きるのにとても大切なことです。
それでも“ちゃんと感じながら”生きてる人を、たまに見かけることがあります。そういう人が本当に“ちゃんと感じている”かどうか、他者である私にはわからないはずなのに、そう見えるのです。
彼・彼女らは、何かあったら酷く傷ついてしまいそうな儚さを漂わせながら、とても人間的で健全で魅力的で、どうしようもなく羨ましく見えるのです。