有難迷惑。良かれと思って。悪気はないんだろうけど。
人の気持ちというのは、どういう行動をとったとしても正しく伝わることは難しいものです。
どれだけ相手を想ってとった言動でも、思わぬ形で逆に相手を傷つけてしまうことがあります。傷ついた本人が教えてくれないことを想像すれば、その数は思っているよりずっと多いかもしれません。
今回のタイトルの 「善意」と「善」の違い ですが、この「善」というものはその行動を指す「善行」を含んでいます。また、「正義」と言い換えることもできるでしょう。
もう何年も昔のことですが、マイケル サンデルの『ハーバード白熱教室』というNHKの番組が流行りました。その後マイケル サンデルの著書『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』が売れ、翌年には文庫版が発売されました。
個人的には哲学に関するような勉強というのはしたことがなかったのですが、この本は幾つもの例えが示されていて、哲学の入門書としてなんて堅苦しいものではなく実生活のことに置き換えて考えられるような、考える材料として面白いものでした。
これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: マイケルサンデル,Michael J. Sandel,鬼澤忍
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/11/25
- メディア: 文庫
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私の結論
人間の善意からの行動を、「善」と受け取るか「偽善」と受け取るか、または「悪」とするかどうかは、行動者の本音とは無関係です。
それが「善」であるかどうかは、受け取り手と、周りの目、あるいは時代や時間を経た結果が評価するものなのです。
「正義」に関しても、勝てば官軍負ければ賊軍という言葉があるように、今のこの国での正しいとされることが、どの時代でも・どこの国でも通用するものではありません。
人がもっとも残酷になる条件は“自分が「正しい」と信じているとき”、なんていうことも聞いたことがあります。暫く考えてみても、それ以上に人が残酷になる条件は思いつきませんでした。
世の中的な風潮や、自分の信じる正しさを振りかざして、誰かを苦しめるようなことはできるだけしたくないと思います。
この考えを、他者に対してだけではなく自分自身に対しても適用できるくらいの寛容さ、あるいは自尊心を持てるようになりたいと、同時に思うのでした。