もうすぐ七夕ですね。七夕の夜に天の川を見たいと毎年思いながら、大抵の7月7日は梅雨真っ只中で、厚い雲に阻まれることが多いです。でも観測史上最も早い6月中に梅雨明けした今年は、もしかしたら天体観測日和かもしれません。
たぶん、私の記憶にある限りでは、七夕に天の川を見たことがありません。
いつだったか、友人に訊いたことがありました。「七夕の夜に天の川を見たことある?」と。すると、「滅多に見られないから価値があるんじゃない?」と言われました。
七夕の夜の天の川が綺麗かどうか、見たことがないので憶測になりますが、“綺麗”だと仮定して、それは「滅多に見られないから価値がある」のでしょうか?
滅多に見られないから価値があるとしたら
同じくらい綺麗な星空が頻繁に見ることが可能だったら、七夕の夜の天の川の価値は下がってしまうのでしょうか?
この考え方は経済学的で、供給よりも需要が多い場合に市場価値が高くなる、つまり希少価値があるということでしょう。
私が星空を見て綺麗だと感じることに価値があるとすると
元々、雲がかかった空の向こうに星空は存在しているわけですが、雲がかかっていると私という個体がその存在を観測することはできません。
しかし観測の条件が揃いさえすれば、その星空が綺麗であるなら、そのこと自体に価値があるのだと思います。
この場合は需要と供給の関係は問題ではなく、綺麗なものが綺麗なこと自体に価値があります。
この価値の捉え方は、人々においてもいえることだと考えます。
人間は皆、なにかしらの共通点となにかしらの相違点を持っています。その一人の人間に価値があるのは、人類全体と比べて何かが違っているからではなく、別の誰かと比べて一般的であるからでもなく、その人がその人だからその人自体に価値があるのではないかと思うのです。
もちろん、他の誰にもできないことを成す人は偉人と呼ばれ、成された偉業は沢山の人の役に立つものだったりします。
それに、常識があるのも、より多くの人と円滑なコミュニケーションができるので人を嫌な気持ちにさせにくいという良さがあります。
ですが、それとは別に、人にはその人のよさ・その人がその人である価値があるのではないでしょうか。
人間は多面的で、比べきれない要素を個々の人間は持っていると思います。
袖触れ合うも他生の縁
同じ時代に同じ言語を遣っていて、少しでも関わってくれる機会がある人達に、影響を受けて今を生きていられることに、有難みを感じます。
七夕の夜に天の川を見ることができたら、ただその綺麗さを感じたいと思います。