考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

元不登校児が大学に行かせてもらって

大学に行くメリットはこれだ!と思っていることを記します。

 

【大学不要論】に関する論議Twitterで目にする今日この頃です。

とはいえ昔から、「大学に行ってよかった」「大学なんか〇〇が行くところだ」「私なんか〇卒だから」と、いろいろな人が、いろいろな立場で、いろんな感想を持っているのを見聞きします。

結論を言ってしまえば、なんにせよ、本人が納得できる人生を歩むことができるのが一番いいですよね。

 

 

しかし、大学進学を迷っている若者にあえて助言をしようとするのには、様々な思いがあってのことでしょう。まずは、助言している人の動機を、幾つか想像してみようと思います。

 

学歴にこだわりがない自分を差し置いて、レッテルを張られた経験を持つ場合。

これは、大卒以外の学歴の人の中だけではなく、大卒の人の中にも居ると思います。

 

学生時代の経験よりも社会経験に価値を見出している場合。

自分が大学時代に時間とお金を無駄にしたと感じている人は、必然的にこう考えることでしょう。

あるいは、学生時代に探索と努力を重ねてきたのに、社会ではもっと難しい荒波に揉まれ、経験が邪魔をするような体験をした人は、こういう考えに至るかもしれません。

 

経済的な理由などで、大学に行きたかったのに行けなかった場合。

優秀な成績を修めれば学費が免除される、というケースも無いわけではありませんし私の身近にもそうやって国立大学を卒業した人が居ます。ですが、大学生の全員がそこまでの意志を持って大学へ行っているかというと、そうではないでしょう。学費が免除される制度は人数制限があるだろうことを考えても、誰もができることではありません。

たとえ学費が免除されたとしても生活費はかかりますし、少なくとも勉学に費やしている時間は働けないので、本業が学生であるか社会人であるかで収入は大きく違ってくることでしょう。

諦めざるを得なかった人からすれば、選択肢があって迷うことができる状況自体を羨ましく感じるのは、健全な心の動きだと考えられます。

また、「当時は行きたくても行けなかったけど、今になって思えば行かなくて正解だった」と思っている人にとっても、そう思える自分になるために必要な出来事だったかもしれません。

 

営業をかけている場合。

大学進学を迷っている人を自分の都合のよいほうに誘導することで、利益を得る目的がある場合です。これは、ビジネスとしての勧誘であり、老婆心からくる助言や個人的な意見とは別の種類のものです。仕事内容に誇りを持っていれば、個人的な気持ちも伴うでしょうが、利益が発生するかどうかは大事な要素です。

誰かの言葉を情報として整理するには、“損得”が言動の動機になっている人の存在も意識する必要があるでしょう。

 

 

 

私の大学進学の話

 

現在、うつ病で療養中の私ですが、小学校4年生のときに自律神経失調症になって、それから中学卒業まで不登校でした。

 

高校は、校則や指導が厳しい私立へ行き、世の中的に偏差値が低いながらも勉強をして、学校の方針に従って大量の課題に取り組み、学級委員をやり続けて、大学に推薦してもらいました。

 

 

私が大学へ行こうと思った理由は、大きく分けて2つあります。

ひとつは、教員免許を取得してみたかったことと、専門科目をもう少し深くやりたかったこと。

もうひとつは、自分の全く知らないことを知ってみたいということ。でした。

 

2つ目の動機をもう少し詳しく解説すると……。

それまでの生活圏外に4年間通う日々を送って、学部の違う友人を作ったり、独特そうな教授の研究室にお邪魔してを聞いたり。卒業に必要な科目以外にも少しでも気になった講義を受けられる、という環境に身を置くことでした。

これは、大学にお金を払うことで得られる権利です。

 

 

大学へ行くことの利点は、まさにここにあると私は思っています。

それまでの人生で出会わなかった人と出会う機会や、自発的に興味を持つほどの知識すら持ち合わせていなかった学問の片鱗に触れる機会を、ある程度の範囲で受動的に得られるということです。

そして、その環境にある人が、学生だと思うのです。

 

 

私個人的には、大学に行かせてもらったことは、広い意味で学んだことが多く、自分の人生に必要で有意義な体験でした。

「大学に“行かせてもらった”」と私が表現するのには理由があります。小さな世界で生きていた、自分の人生を続けていくのに必要な学びが足りていないという自覚を持っていた私を、応援してくれた家族が居たことに感謝しているのです。親が金銭的に協力してくれなかったら、地元を離れて進学して、知らなかった人たちや事柄と出会う機会を、私は得られませんでした。

 

 

仮に、「Fラン私大の文系なんて金と時間の無駄」とバカにする人が居たとしても、私は、傷ついたり惨めな気持ちになったり、腹が立ったりしません。私にとって大学に行かせてもらったことに充分な意味があるから、無駄になっていないからです。

私と違った学歴の人のことを、その学歴だけでバカにすることもしません。

だからといって、誰かの学歴や経歴を知ることに意味がないとも思いません。その人の才能や努力や興味の方向が、学歴に表れていたりするからです。

 

 

自分の人生に向き合ってみたり、目標を持って頑張ったり。

「やってみたい」と思ったことをやってみられる経験をしたり。

友人関係で悩んだり。

直接関わることのないはずだった世界を垣間見たり、ずっと抱えていたものを表す方法を知って視界が開けたり。

私にとって大学はそういう体験の、きっかけの場でした。