芸術という言葉の意味自体は辞書を引けばよいとして、今回は、私個人が芸術性を認めたり、芸術的と呼ぶ基準を記します。
参考図書をあげるとしたら、芸術とは何かと考えさせてくれた、芥川龍之介 著『地獄変』です。
装丁が気に入ったので、私は角川文庫を選びました。
感想
芸術家には孤独が不可避なのだろうか。
それは、外科医が人体の中を見るように、一般的には恐怖や悲しみによって嫌悪されるものを直視することで、物事を掘り下げるためにはその覚悟もしくは諦めが必要なのかもしれない。
芸術においては、その光景、そのときの感情を、直視した者にしか表現できない部分がある。
芸術を、もう一度見聞きしたい物、感性の或る点を刺激する表現、と解釈する私はそう思った。
己の定義する芸術とは
「芸術を、もう一度見聞きしたい物、感性の或る点を刺激する表現、と解釈する私はそう思った。」という部分にあるように、私は芸術を、“もう一度見聞きしたくなるような、感性の或る点を刺激する表現”と捉えています。
仮に、“もう一度見聞きしたくなる物”だけだと定義すると、単純に自分に快感を与える物すべてを指すことになってしまいます。逆に、“感性の或る点を刺激する表現”だけだと定義すると、刺激されたくない部分を刺激する物も含むことになってしまって、感情が嫌な方向に動かされる物を許容してしまいます。
つまり、誰かにとってはそれが芸術的価値が高い物だとしても、私の感性が刺激されることがなければ、私にとっては芸術性を認められないということです。
これは市場価値にも適用される価値観ですので、高値で取引された絵画が私にとって芸術的な感動をくれるかどうかは、わからないのです。
市場価値(物の値段)が、そのもの自体の価値(誰かがどこかの時点で下す評価)と必ずしも一致しないということは、以前の記事でも触れました。
よって、自身が生み出したモノであっても、そこに芸術性を見いだせれば芸術と呼べる、というのが私の考えです。