考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

心と心の距離

心同士の距離。

 

心と心の距離が遠いと、例えば相手がナイフを振り回していても、その刃が触れることはない。

もし触れてしまって怪我をしても、それは浅くてヒリヒリ痛いくらいで、すぐに跡形もなくなる傷にしかならないだろう。

 

心の距離が近づくと、少し手振りが大きくなっただけで、その手は相手の心にぶつかり傷つける。

 

心は、着飾れないし、武装もできない。ただ、隠すことはできる。

 

心と心の距離が近づいて、お互いの温度を感じられるくらいそばにあるとき。他のものでは得られないような嬉しさや安心がある。

これが、人との繋がりで感じる幸せで、「愛」と呼べるもののひとつかもしれない。

 

そういう人とは滅多に出会うことはないし、この人生でそういう人と巡り合うことなんて、とっくに諦めた、というかそんな可能性とは無縁な自分を受け入れていた。

 

無防備な心を相手の近くに置いて、例えるなら、刃物で刺されて血を流したり・殴られて奥の方が長い間痛んだり・縛りつけられて自由を奪われたり・晒されて侮辱されたり、というようなことを甘んじてしていた時期が、私にはある。

酷い仕打ちを、酷いと感じることができなくなっていた。ただの日常だったから。

 

結局、私の心は放り出されて動かなくなった。 

 

いつからか私の心は、私自身にとっても、掴みどころのないものになっていた。

心の底が凍り付いてしまったみたいだった。

人間らしく生きていくのに必要な支柱のひとつを失ってしまって、取り戻せないのだと思っていた。

 

“希望”の存在しない世界には、“絶望”も無かった。安定だった。

 

それでも、たまに虚しさを感じるくらいの心は残っていた。

 

 

どうして出会ってしまったのか、よくわからない。

すごく似ていて、全く違う、自分ではないから自分のもの以上に大切にできる。違う部分は新鮮で魅力的で、尊重したくなる。

そんな心を持った人に、出会ってしまった。知り合ってからも、存在を不思議に思うくらい、願ってもないような存在。

 

もしこれが妄想なら、感心するほどよくできた妄想だ。

もしこれが夢なら、醒めたときに「あぁ、いい夢だったな」と、その幸せで生きていけそうな夢だ。

 

ふたつの心は、嘘のみたいに、必然のように、通じ合っていった。

『月に叢雲花に風』───「よいことは、長くは続かない」たとえ、そうだとしても。今がここにあることは、何も変わらない。

雲が薄くかかった月を見て、風に揺れる花を眺めて、その瞬間を「綺麗」と言えるような心だから。

 

私がよろよろと少しずつ前に踏み出すとき、隣に居て。きょろきょろと周りを見回して、私にとっては進むだけで精一杯な道の上で、路傍の花を見つけたり見晴らしのよさに気づいたりして教えてくれる。そんな心が、今、一番近くにある。

そんな心の近くにも、私の心が居てくれたら、嬉しい。