考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

過去の惨めさを受け入れる【愛着再形成(仮)】

近頃ふと、過去の自分の惨めさや悲しみや孤独を、それと感じずに過ごしてしまっていることに気がついた、小柏まき です。

 

 

 

今回の記事の概要

過去の自分が惨めな状況にあったということに自覚的になることで、自己肯定の基盤を作ることができるのではないか。自分に欠陥がある、自分が不甲斐ないせいでままならない、という認識を改めることになるのではないか、という仮説です。

 

 

 

今の持病を根治か寛解したい

反復性うつ病性障害の根底に発達障害を疑ってみたことがありますが、主治医に言わせると私は自閉傾向があるが障害とは呼べないとのことでした。

発達障害を疑う前には、愛着障害を疑っていました。なぜ反復性うつ病性障害のベースに他のものの存在を疑うかというと、根本にある原因がわかれば対処の方法があるかもしれないからです。「根こそぎ治してしまいたい」という考え方こそ、白か黒かハッキリさせようというような、うつ病になりやすい思考グセなのかもしれませんが……。

どちらにせよ、自分の性質を把握していくことで“自分を乗りこなすこと”がしやすくなるといいなと考えています。

 

 

感情を感じていなかった過去

少し前に、とある人の現状に対して、過去の自分と重ねて「羨ましい」という言葉が出てきました。

そこで「羨ましい」という言葉はネガティブなものだと指摘してくれる人が居ました。ところが、言葉を発した私自身にはネガティブな感情が一切ありませんでした。

その後も思い返しては、羨ましい気持ちは変わらないのになぜネガティブな感情が湧き上がってこないのか、考えていました。

そして、羨ましがっているのは誰かと考えたときに、それは現在の私ではなく過去の私なのだと考えました。

イメージとしては、現在の私の中に、過去の私が居て、正直な気持ちを伝えてきているのがそのまま口から出てしまったようでした。

では、過去の私以外の部分の現在の私は、そのことについて「羨ましい」と感じているのでしょうか? そうではないのだと思います。過去は過去、済んだこととして切り離して考えているのです。ネガティブな感情にならないのは、このためでした。

昔の私は、自分のことを惨めだとも孤独だとも感じていなかったんだと思います。すべて自分のせいで悪いことが起こって、周りの人たちに迷惑をかけていると思い込んでいたのでしょう。

 

 

解離を認めて愛着を形成し直す

その過去の自分を、今の自分が「惨めだった」「悲しかった」「孤独だった」と認めてあげることで、今の自分が過去の自分にとって愛着形成の対象(養育者)の役割をやっているのではないか、という仮説を立ててみました。

別の見方をすれば、これは、解離していたときの感情を改めて感じ直すようなことかもしれません。

考えてみれば私は、自我を形成するにあたって『自分を否定された経験』というものに心当たりがありません。これは、実際に他者から否定的な言葉や態度を向けられたことが無い、という意味ではありません。

他者からの否定的な言動は、私自身の力不足に起因するものであって、正当なものであると思い込んでいました。そのため、反発心を抱くことがなく『否定された』という認識を持てなかったのでしょう。

このことは、私自身の内側にすら自分の味方をする存在が居なかった、ということです。

私の自己肯定感の低さは、こうした思考によって築かれたのではないでしょうか。

 

 

コントロールするどころか正体がわからない感情

こうしてしばらくの期間、自分の内側について考えてみていました。

すると、ある日から突然、ツラい感情に支配されてしまいました。感情に飲み込まれて、わけもわからず泣いてばかりいるという日が続きました。泣いている理由を考えようとしても上手く整理がつかず、その感情がどう形容されるものなのかもわかりませんでした。

そうかと思うと、今まで心が動いていたことに関して心が動かなくなったりして、そもそも感情が有るのか無いのか自体もわからなくなってしまいました。

そんな状態を何日だか何週間だか経ると、気が済んだとでもいうように、元の心が動く状態に戻りました。

 

強い感情に飲み込まれているときには、その感情の正体がわからないものなのだと思いました。

「悲しい」「さみしい」「苦しい」「虚しい」「恥ずかしい」「もどかしい」

少し冷静に捉えられるようになってはじめて、その感情を形容することができるのでしょう。しかしながら、ひとつの言葉に収まらない場合は多く、織り交ざった感情や心の動きによって移り変わる感情を正確に捉えることは難しいものです。

 

 

忘れていた記憶

不快な気持ちを伴うことが健全だ、と思うような体験を、その体験ごと忘れてしまっていることがままあります。

特にきっかけがあったわけではなくても、ふと昔の出来事を思い出して、その出来事の存在自体を忘れていた自分に少し驚くようなことが、少し前にもありました。

その出来事に興味が無くて思い出さずにいただけなのか、本音では嫌な記憶だから意識に上らないようにしていたのか、自分でもわかりません。

 

 

 

これからも生きていくとしたら、ここ数週間のような、考えることと感じることを、きっと繰り返していくのでしょう。感じることを補うように、考えていくことでしょう。

きっとそうやって少しずつ、自分自身の内側を頑丈なものに、“人ひとり分の価値がある”と自分で認められる自分に、造り直していくのだと思います。本当に少しずつ。