「“好き” とは、無意識を支配されること」だと思ってたけど、これは “嫌い” にも当てはまるんだよね。
好きと嫌いは自分じゃ選べない。
by 小柏まき
昨年のこと。会話の中で「“好き” とは?」と訊かれて、「“好き” とは、無意識を支配されること」と自分の中から言葉が出てきました。
「好きと嫌いは自分じゃ選べない」という言葉は、『大恋愛~僕を忘れる君と』というドラマで遣われていた言葉です。
この言葉は、聞いてから自分の中で反芻してみて、とても納得して気に入った言葉です。
それまでは特に意識したことや言語化したことはなかったものの、“好き”とか“嫌い”とかを自分またはその人が選べることのように、どこかで思い込んでいたような気がしたのでした。
子ども時代に「好き嫌いはよくない」という教育を受け、嫌いな食べ物を克服しようとして少しずつ食べるように、努力というほど大袈裟なことではないかもしれませんが、意識してきました。
これは、食わず嫌いで慣れればだんだん美味しさがわかってくるようなモノには有効なことでしょう。また、それを食べられるようになると摂取できる栄養が身体にいい場合、嫌いで食べられなかった物が食べられるようになるのは「いいこと」ですよね。
また、“嫌い”と感じるより“好き”と感じるほうが自分自身も気持ちいいですし、どんなことでも好きになってしまえれば楽ですよね。
ここで危険なのは、 嫌いなことは悪いこと・好きなことはいいこと という誤った認識を無意識のうちにしてしまうことです。
“嫌い”と感じることは、心身が拒否反応を示しているということです。
拒否反応の原因が、運の悪い思い込みや根拠のないものなら、嫌いなものを克服してしまっても問題はありません。ですが、根拠がちゃんとあるのに頭で認識していない場合は、「嫌いだから」という理由で嫌いなものを遠ざけることで、自分を守ることになると考えています。
自分で自分を守るために、嫌いなものがあってもいいのです。
これは、人に対しても当てはまることだと考えています。
家族や肉親、友人や恋人、自分の心の近くに居ることを許した相手に、嫌いな部分があってもいいのです。たとえ相手に嫌いなところがあっても、その人自体を嫌いになる必要はないのです。
逆に、嫌いだと思っている人に好きなところを見つけても、いいと思っています。
これに関しては、嫌いな人を遠ざけきっていないという面では、自分に負荷をかけることになっているのかもしれませんが、たまたま嫌いな人の言動を見聞きしたときに「いいな」と思って心に留めておくような自分を許してあげてもいいじゃないかと、私は思うのです。