考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

「生きづらい」という言葉

近頃は健忘が酷くて、色々なことが覚えていられない 小柏まき です。

ちょっとこんなことを書いて語弊がないか迷ったのですが、考え方を変える要素として記しておこうと思います。

記憶が正確ではなくて内容が間違っていたら申し訳ないですが、ここに書きたいのはテレビ番組の内容ではなく、そこに寄せられた意見に対しての感想です。

 

 

先日、生放送のテレビで、【夫や妻をどう呼ぶか】という話題を扱っていました。私はその番組を見ていたわけではなく、居間で他の家族が観ているのをたまたまそこに居合わせて聞きかじったのでした。

そのテレビ番組では、「“奥さん” “嫁” と自分の妻を呼ぶのは変だ」というような意見を言っている出演者が多かったようでした。

 

私の個人的な感覚では、“奥さん” と呼ぶと、自分の妻ではなく他の誰かの妻のことを指しているみたいで変だと感じます。“嫁” と呼ぶと、自分の妻ではなく自分の息子(或いは兄弟)の妻のようで変な感じがします。ですが、言葉とは伝わることが大切なので、拘りを他者にまで強要することはないとも思います。

 

 

この番組の最後の方に視聴者からのメールが読まれました。

話題について、総意のように扱われた意見とは違う意見を持っている人が、「自分の意見を否定されているようで生きづらさを感じます」とメールを送ったそうなのです。

スタジオで話している人達でまるで一つの答えを出したような流れになっていたところ、違う意見の人が居るのだということを知ることができ、また視聴者からのメールが生放送時間内に読まれたことに番組作りの誠実さを感じました。

 

さて、私がここで少しの衝撃を受けたのは……生きづらい” ってこれくらい日常的に使っていい言葉だったんだ! というところでした。

いや、もしかしたらメールした視聴者は、テレビ番組で自分と違う意見がまるで正しいことのように扱われるのを常々苦にしていて、酷い苦痛を抱えているのかもしれません。私自身の想像が及ばないことや、それに苦しむ人が居るであろうことは充分考えられます。

私が感じた衝撃の根本は、「生きづらい」と人に伝えてある程度の理解を求めたっていいのだということと、「生きづらい」と感じて言葉にしていいんだという、一種の許しでした。

どうして私は、「生きづらい」と思ってはいけないような思考に陥っていたのか……。どうして自分は甘えていると、どこかで思い込んだままなのか……。

 

誰かが誰かを、意図せずとも苦しい気持ちにさせることはあります。

それが当たり前なのだから自分と違う意見の人が幅を利かせていたって仕方ない、嫌だったら距離を取ればいいと、私は意見を伝える権利を自分自身に認めていなかったのかもしれません。それどころかネガティブな感情を悪いものとして、伝えてはいけないのみならず、その元となる意見を意見として持つことすらいけないことだと、と囚われていたような気がしました。

無意識に自分の気持ちを閉じ込めていたのではないかということに、無意識が故に気が付いていなかったのです。

 

 

誰かの言葉に触れることは、真っ直ぐだと思い込んでいた自分の中だけの常識が歪んでいることを知るきっかけをくれるものです。

精神疾患患者には認知の歪みがあることが多いといいますが、こういった誰かの言葉から受け取る気付きを自分のものにして思考グセを矯正することを、これからも地道にやっていこうと思います。