考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

桜を見てきたんだけど透明水彩で描くのは難しい理由を考えた

透明水彩画を描くのが好きな 小柏まき です。

桜って花が咲くと “桜の木だ” と途端に認識するのに、普段は何の木かなんて考えない街路樹が意外と桜だったりすることに気が付いて「桜ってこんなにあったんだ」と感じます。

満開の桜を見るたびに、ふわ~というか、ぱぁ~というか、「うゎ~綺麗」と言いたくなる感覚に頭がなります。

この季節になると桜の絵を描きたくなるのですが、透明水彩で桜を描くというのは難しいというのをよく見聞きします。私自身はこれまで特別に桜を描くのが難しいと感じてこなかったのは、透明水彩画を描くようになって迎えた春が少なかったからだと思います。

 

個人的に元々、桜の季節にお花見に出掛ける習慣があまりないです。レジャーシートを敷いてお花見したことも幼い頃に一度あったらしいと親に聞くくらい記憶にありません。近年になって、桜が咲いている期間中の雨模様ではない日に体調と相談しながら外出できるようになりました。というわけで今年も桜を見に幾つかの場所に行ってみました。

 

一昨日は一人でバスに乗って大きな公園に行きました。この公園は昨年の秋に紅葉を見に行った場所で、通院しているメンタルクリニックから近いところです。「私の他にも花見客が沢山いるかな?」くらいの想像しかせずに行ってみると、人出は少なくなく多過ぎなかったものの、屋台が幾つか出ていてお祭りのときの提灯があちこちに連なっていて “お祭り感” があったのが予想外でした。桜の木に向けられたライトがあったので日が暮れたらライトアップもするのでしょう。屋台に並んだり、レジャーシートやテントを広げたりベンチに座ったり、歩いたり立ち止まったりして花を見ている人々は、老いも若きも散歩の犬もいました。イラついた人がいなくて何に急かされるでもない、気ままで和やかな気分でいられました。

外出するとほとんどの場合で具合が悪くなるのですが、この日は息苦しさや気持ち悪さに加えて頭痛が酷くなりました。

 

昨日は自転車で画材屋さんに行ったついでに住宅街の小さな公園に行きました。ポカポカした陽射しとたまに冷たく感じる風が心地よくて、ペダルを漕ぎながら透明水彩で描く桜について考えていました。

冒頭で触れた、満開の桜を見たときの感覚は、日常の景色がこんなに明度が高いもので遮られて視界が覆われることは他に無いから得られる感覚なのではないかという考えに行きつきました。白い景色といえば雪景色ですが、雪はすべてに乗ってしまうのに対して、桜の花は何気ない風景の中に突如としてボリュームを持って現れ、見上げさせて小さな花を風に揺らしてみせるところが生命を感じさせるのです。

透明水彩で桜を描くことの何がそんなに難しいのか。小さく沢山の花で景色を覆う桜は、白に近い色をしています。透明水彩画では白い色は紙の色を残すことで表すので、白に近い色のものほど手を加えられないことになります。また、細かい花の集合体ですが細かいものをすべて細かく描写しようとすると説明的な要素が強く出て、全体の見た目の印象が実物の与える印象からかけ離れてしまいます。実物を見ているときには、細部を見ているときには繊細な花の作りや花びらの薄さまでを感じ取っていて、離れて全体を見ているときには木の形からくる纏まった立体として風景に存在している様子を感じられます。絵に描こうとすると、このどちらかを選ぶことになる場合が多くどちらかの感じは失われやすいのだと思います。

ヒトの脳って自然のものを綺麗なように見るという風にできているんだなと思います。

透明水彩は、減法なんだと思いました。混色の際に絵の具を混ぜ合わせていく[減法混色]は、混ぜれば混ぜるほど光の量が減っていきます。透明水彩画を描くことは、手つかずの水彩紙の時点では真っ白で一番明るい状態ですが、そこに手を加えて暗くしていくことで絵を描いていきます。

将棋の駒の最強の布陣は、指し始める前の最初の並びだと聞いたことがあります。最初にはあったはずの “どの駒がどこに動くか” という可能性が、局面が進んでいくにつれて減っていきます。透明水彩画を描くことは、なんだか将棋と似たところがあると思ったのでした。