考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

桜のピンク度合いに人が敏感な理由を考えた

今年も桜を見に行けた 小柏まき です。

 

昨年5月から病院に併設された運動施設に通うようになり、外出する機会が大幅に増えました。その頃から新しく内科にも通うようになり、体調不良について内科的療法を受けるようになりました。過去の記事を読み返すと、以前に比べて外出人に具合が悪くなる頻度や程度が改善したのだと感じました。

体調が今よりずっと悪かったときには、外出するか否かを予定して人と一緒に出掛けるということがまずとても難しかったです。それに、桜の開花の程度に合わせて急遽見に行くというのもとてもハードルが高かったです。現在の私の状態でも健康体の人とは掛け離れているかも知れませんが、以前の自分と比べるとだいぶ活動可能な範囲が増えたものです。

 

さて、タイトルの桜のピンク色の度合いについてです。

これは前回(2023年投稿)の桜を透明水彩で描くのが難しい理由に関する記事を投稿したのちにもずっと頭の片隅でぼんやり考えていたことでした。

↓当該記事はこちら

ogasiwa-maki.hatenablog.com

↑こちらの記事の結論を端的に表せば、明度の高さ・繊細さと全体感 に因るものではないかという内容でした。

 

今回追記したいことを簡潔に表すなら、 “人の目は明度が高いほど彩度を感じ取りやすい” ということです。

過去にデザイン会社で働いていた方から、印刷された黒の色味の違いを「青みの黒」や「赤みの黒」かどうか、別の素材の物に同じように印刷されているかどうかなどを蛍光灯の下や日光の下で角度を変えたりしながら目を凝らして見比べたことがあるというお話を聞いたことがあります。それを聞いて、確かに黒っぽい色って見分けがつきにくいなぁと頭では想像したのでした。

そして、頭の片隅にあった「桜は思ってるよりピンク色ではない」というのがぼんやり繋がる感じがしました。桜の花の絵で少しピンク色が濃いと不自然に感じる理由として、日本には日常で通る道端や公園やあらゆるところにあって季節になると見た体験が多い桜というものの色に対して馴染みがあり記憶と照らして比べやすいこと、そして明度が高いが故にその彩度に敏感になっていることにあるのだと納得しました。

明るい色が見えるということはその物が反射して目に入っている光の量が多いということです。少ない量からその質を判断するより、簡単にその質が判断しやすいのは考えてみれば当然のことでした。

 

そんなことをぼんやり考えながら描いたのが昨年のこの絵『神社の桜』です。

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動画撮影にも挑戦してYouTubeでは描いてる様子も見られます↓

- YouTube

家族の17回忌法要

 2024年10月1日、午前10時から祖母の17回忌法要を行ってきました。

 この祖母は私が生まれたときから大学入学時に実家を離れるまで同居していました。16年前、訃報を聞いて適当に荷物をまとめて都内の一人暮らしのアパートから出るとどこからともなく金木犀の匂いがしました。命日にあたる一週間後には、今年も金木犀が香るでしょうか。

 

 

 子どもの頃の私は祖母が嫌いでした。いつも悪く言われて、怒って言い返すと被害者のポジションを取られ、出来の悪い私は幾度となく怒られ責められていたので中学生の頃には「高校に行くことができなかったら殺されるのだろう」と諦めに似た感情を日常的に持っていました。

 地元を離れて進学すると、女の子が4年制大学に行くのが珍しかった時代を生きてきた祖母は私を自慢のように思ってくれているようで、お盆かなにかの折に家に拝みに来てくれたお坊さんに「この子が学校行っててねぇ、でも4年は長いから私はそんなに生きていられない」などと嬉しそうに喋っているのを見て、少しは恩返しができた気がしました。というのも、祖母とは子どもの頃は喧嘩をしたものの、幼い頃にはよくお風呂に入れてくれたそうだし、機嫌のいいときには可愛いところもあったし、ふざけたりするのが好きな質だったのか面白いと感じる時も沢山ありました。

 祖母は私の父を身ごもっているときに夫(祖父)を亡くし、そこから専売公社勤務だった祖父の伝手で細々とたばこ屋を営んで、前妻の子3人と出産した父を育てました。祖父が亡くなった当時中学3年生だった長女(伯母)は専売公社に努めに出て、高校受験も諦めて勤め上げました。

 

 祖母が他界したのは16年前の10月8日、数え年で享年88歳でした。死亡診断書で初めて判明した死因となった病気は膵臓癌でした。生前にわかって治療などするかどうかという話にならなくてよかったと思ったのは、祖母は何でも気に病むタイプで、不安がったり寂しがったりすることがよくあって、入院は嫌いで自宅で死にたいというような人だったからです。

 

 年齢を多く重ねているのだからいずれそのときは来るのだと頭で想像することはあっても、実際にずっと一緒に住んでいた家族が死んで居なくなってしまうというのはとてもショックでした。六曜の関係で1週間近く家に遺体を寝かせておけたのは私にとって運が良かったです。人が亡くなった後の通夜や告別式を含むすべては、遺された私のような親族の気持ちを時間を掛けて説得していくための儀式なのだと知りました。

 祖母を抱きしめたい気持ちが、生きていた祖母に最後に会ったときに湧いてきました。その頃には長く生きていてくれているのは私のためなのではないかと本気で思っているほど、尊くて未知のことを沢山教えてくれる貴重な存在でした。次に会ったら抱き締めていいだろうか? などと現実味のない気持ちを持っていた頃に、自宅から救急搬送された翌朝には息を引き取っていたので、私はご遺体を抱きしめてもいいだろうか? などと考えながら帰宅しました。しかし既に集まった親戚に挨拶してから対面した遺体は、生きている自分などとは同等ではなく大切で厳かな、とても簡単に抱き付いてはいけない存在に感じました。

 その日から私は眠っても2時間程度で必ず目が覚めるようになりました。遺体の側には誰かが起きていなければいけないので、困ることではありませんでした。

 私は祖母が亡くなって初めて、父が声をあげて泣いているのを聞きました。父からすれば祖母は、自分が育ってきた人生でたった一人の親だったのです。

 祖母の遺体は時間を経るにつれてどんどん変化していきました。形も色も、想像もしなかった変化をしました。近所に開業医を営んでいて生前お世話になった年配の先生は、往診のように遺体を見に来てくれました。服の上から触ってみたりして、恐らくの原因を推測して話してくれました。生きている人間にしか医療行為が認められていないお医者さんにできることが無いことは、きっと先生は最初からわかっていたのでしょう。それでも見て、話すことで私たちの気持ちに寄り添おうとしてくれたのだと思います。祖母は綺麗な人でした。若い頃には美人なせいで苦労もした人でした。美しさに翻弄されたことのある人が、死んで物体だけの存在になってこんな風に変化してしまうこともあるのだということが、遺体が祖母の全てではないのだと物語っているようでした。いつからか祖母の遺体は口から血を流すようになりました。繊細な織り柄のある真っ白な布を顔からそっと避けて流れた血を拭くのを、数時間ごとに私は繰り返しました。をれでも一度、真っ白い布に血が沁みてしまったタイミングがありました。私は“もっと頻繁に拭いてあげればよかった” “どうしてもっとちゃんと見てあげなかったんだろう”と、私が離れている時間が長かったせいだとしゃくり泣きしてしまいました。父が「してあげられたことを、してあげられてよかったなと思えばいいんだよ。」と慰めてくれました。

 ときどき発作のように酷く泣く、というのを繰り返していました。例えるなら胃痙攣で嘔吐したときのように涙が絞り出されてしまうのでした。もちろん胃痙攣のような痛みは伴いませんし、不健全なことではありませんが、これを“かなしい”と呼ぶのかそもそも自分の感情なのかわからないくらい大きなものに強く染まってしまっている感じでした。

 身体の疲弊し切っているのか、手や胴体やどころいうことなく震えが止まらない時間が多くなった頃に通夜と告別式がありました。私を見て「まきちゃんどうしちゃったの?」と親に聞く人や泣き出す人、「緊張するとこうなっちゃうんだろう?」と声を掛ける親戚もいました。私はこれよりもずっと前から社交不安障害の症状に人知れず苦しんできましたが、今になって考えるとこの頃から改めてハッキリと認識し直しました。

 

 

 今年も祖母の命日になりました。今日は朝から雨ですが、昨日自転車で外出したときには金木犀の匂いがしました。

 何年前からでしょうか、フレグランスで金木犀の香りの物が手軽に出回るようになったのは。今年は出先で立ち寄った店頭でネイルオイルを見つけてテスターを使ってみました。匂いを嗅いでみて、結構再現されているものだなぁと、これではもしかしたら道端で「今年も金木犀の季節か」と感じたときに通りすがりの誰かの身に付けている芳香かもしれないと、思っていました。ですが実際には、本物はトゲがなくて近くに誰もいなくてもどこからともなく香るいい匂いでした。

合理的配慮による多数派の損の感覚(食物アレルギー【体験談】)

多様性を認める世の中の構成員になりたいという気持ちを持つようになって、その難しさに気付く機会に出会うことがたまにあります。“合理的配慮” という言葉を見ることも日常の中であります。

先日、X(旧Twitter)で見かけた 加藤路瑛@感覚過敏研究所 さんの発言を目にしました。

合理的配慮にしろあらゆる支援制度は、自分に無関係な部分で行われる分には「良きもの」であり、自分に不利益が出たら「否なもの」になるのかもしれない。

https://x.com/crystalroad2006/status/1784891375479075110

感覚過敏で学生服のワイシャツが苦手で学校に行くのがつらい人がいます。不登校になるケースもあります。感覚過敏の学生のためのワイシャツがあるよと伝えれば、きっと多分誰もが「そういう合理的配慮は大切だね」と言ってくれるはず。

相手が自分と似たような白いワイシャツを着る分には全く問題ない。しかし、これがちょっとオシャレな色付きだったりすると、「いいな。私もそれがいい」となる。

ここに芽生える感情は素直なものだけれど、この感情の根源は何なのでしょう?

https://x.com/crystalroad2006/status/1784933886356750488

 

小学2年生の頃、私は一時期 食物アレルギーでした。牛乳と卵の過剰摂取がきっかけだったようで、口にする物を徹底して管理した結果しばらくして一般的な食事が取れるようになりました。

当時は母が、なるべくその日の給食の献立に近い内容でアレルゲンを除いたお弁当を毎日作ってくれていました。牛乳は豆乳に、制限の多い魚類は許可されていた鮭に、栄養が偏り過ぎないようにしてくれていたのと、クラスの皆んなが給食を食べている中でまったく違うメニューを一人で食べる私の気持ちを考えてくれていたのだと思います。

 

給食の時間、準備をして皆んなと同じ物を同じ器で食べるという行為は私から見れば望んでも叶わないことでした。その一方でクラスメイトから見れば、一人だけお弁当を持参して包みを開けて給食の準備の間待っているだけの私は特別に見えたことでしょう。

給食で出るミニトマトは1人2個くらいで、私のお弁当には沢山のミニトマトが入っていました。

「いいな、1個ちょうだい」と言った近くの席の子に「いいよ」と言って1つあげてしまったら、「私も」と続く子を断ることができませんでした。断れば「ズルい」と言われると想像したのは、断られて即座にこちらの状況を理解して引き下がるような想像力がある子はそもそも「ちょうだい」と言ってこないと思ったから……だったような気がしていますが、単純にどう断ればいいのかわからなかった気もします。

私からすれば食べられるものが制限されない人のほうがよっぽど羨ましかったのですが、図々しくお願いしてくるクラスメイトに理解してもらうために説明したり断ったりすることの面倒臭さのほうが、自分の食べる分を確保することよりも大きくてどうでも良くなってしまいました。

そういう自分の居る小さな世界が、集団心理を原動力にして自分の頭で考えて決めることを避けて通る人が、嫌いでした。

 

今の時代ならアレルギー用の学校給食も提供されるようになったりしていて、食物アレルギーの児童生徒を個別の特例として扱わずカテゴライズすることで一定の配慮ができるのだと思います。

しかしながら合理的配慮の難しいところは、カテゴライズして一律の条件で一定の配慮が受けられる場合ばかりではないという点なのではないでしょうか。「この人はこういう人だから、ここまでの配慮をしよう」という個別の柔軟性を持たせることが、グレーゾーンで苦しむ人を減らすのだと考えています。

多様性を認めるということは、グレーはそのグレーの加減に合わせて配慮される権利を持つことかもしれません。

そして難しさのもう一つの要因は、配慮や支援する側もそれぞれ別の人間だということです。誰かのプラスになりたい気持ちを持つことは容易でも、自分のマイナスになることをしたいとはなかなか思わないものです。

 

もちろん私自身も、常に配慮される側であるとか、配慮・支援する側であるとかのどちらか一方ではないので、両方の側から考えたいです。

小学校体育の時間に感じた集団心理と過冷却のような意思

たまに見た夢が、小学校の体育みたいな夢だったりすることがある 小柏まき です。

夢の内容はよく覚えていませんが、過冷却の水が衝撃で一気に凍る動画を見かけて、子どもの頃の体験とイメージが似ていたので記しておこうと思います。

 

 

小学校の体育の時間といえば、思い出すエピソードがある。

体育館での体育の授業の前の休み時間、私たちは教室から体育館に移動した。その体育の授業を体調不良で見学する私に、体育館シューズに履き替えたために持て余してる上履の入った巾着袋を「持ってて」と言った子がいた。

普段は体育館の床の壁際に置いておくものだったけど、「いいよ」と言って預かると、それを見た子が「私のも」と。そうやって数人のをまとめて腕に掛けていると、「私も」と当然のように言う子が出てきた。

私は断るタイミングを失ってぼーっとしてた。

あとから来たクラスメイトはもう何も言わずに私の左腕に自分の上履き入りの巾着袋を掛けていく。見学は座ってていいから巾着は床に置かれる状態で紐が私の腕に集まってた。重みもないし意味もないように見えた。私には皆んなの行動の意味もよくわからなかった。

普段の体育館での授業のときには壁際に雑然と置いておく上履き入りの巾着袋、それの何が不便かを強いて挙げるとすれば、自分のをどこに置いたか忘れてしまえば少し探すことになるかもしれない。

うちの小学校は1クラス30人ちょっとなのでそのうちの約半分の15人くらいが女子、巾着袋は保護者の手製で生地も自由なので柄や色味が似ていたとしても、たった15個の袋から自分のを見つけるのは難しくはない。

言い出しっぺの子はたまたま私の近くに居たし、私ともそれなりに親しかったので自分の分の巾着袋を持った私の姿を見て、私がその子の袋も持っていたら授業終わりに私の元へ来て教室まで歩きながら渡してくれると思ったことだろう。喋りながら移動して体育館まで来た流れで思いつきそうなことではあった。

体育の授業の見学とは心細いものだった。普通の人ができること且つ自分にも権利があることなのに、自分は参加できない。見学がどれくらい学びになるのか疑問だった。体育の時間は先生に声を掛けられることもなく過ぎた。

 

最悪だったのは授業が終わった休み時間だった。

クラスメイトは私の左腕から自分の上履きの入ったの巾着袋の紐を取っていく。手首から肘の間に雑に重ねられた紐を、それぞれが勝手に引っ張っては絡まっているのが不満そうに回収できた子から教室へ帰る。私は腕に掛かった全部が持ち主の手に渡るまでそこにいなければいけないらしい。

私は物かなにかだと思われていたのだろうか。私は袋の紐を掛けておくための物でも、置いておくための場所でもなく、クラスメイトの誰かを特別にお世話したい保護者でもなければ、指導する立場の先生でもなかった。ただ、みんなと同じ授業を受ける権利があるはずで、だけど同じことができずに大人しくしているしかないだけの子どもだった。

私がここに居ても物や場所のように扱われるなら、私が居ることになんて気づかないで欲しかった。

頭の中も気持ちもごちゃついていたし、思い思いに引っ張られる紐だらけの腕は痛いし疲れたし、みんなの意思に任せて許可(?)したはずだったのに見つけづらさ取りづらさの苛立ちを向けられるのが理不尽でつらかった。

無心になって耐えようと、早く教室に戻りたいけどこの時間だけ我慢しようとしていた。

腕よりも心が痛い気がしてきたけど、断らなかったのは私だった。

 

ずっと考えていた。私はどこで「嫌」と言うべきだったのか? 本当に嫌だったのは最初の友達じゃない、何人目かの特に仲良くもないクラスメイトだったし、本当に嫌だったのは自分の頭で判断することをせずにそれを当然の権利のように行動する人全員だった。

幼い頃は食が細くて太れない体質でよくガリガリだと言われていた。きっと見る人が見れば集団に虐められているように見えただろう。

先生や家族に、私はこのことを話せなかったように記憶している。何が悪くて何が嫌だったのか、どうしてこんなに惨めな気持ちになるのか、言語化できなくてよくわからなかった。

 

過冷却のような意思

標準状態では水は0℃で氷になるものですが、0℃を下回る温度になっても氷にならない水もあります。ゆっくり温度を下げていくと凍るべきポイントを見逃してしまったように氷になれずに0℃より冷えてしまった水です。これは衝撃を与えると一気に結晶化して凍ります。瓶の中や鍋の中で一気に凍っていく様子は不思議にも見えるので、時々動画を見かけることもあります。

寒いこの時期、過冷却の水が一気に凍る動画をたまたまSNSで見かけました。氷になるべきなのにきっかけを見失ってしまった水が、なんだかあのときの私みたいだと思いました。「嫌」と断るきっかけを見失ってしまって、言葉にできない感情を抱えたまま泣くこともなかった私みたいだと。

 

自分の感情を基準にしてその都度言動を起こすというのは、人間生活では難しい場面も多いので、何か問題に直面したときに自分なりの基準を設けておくというのがいいのだと考えます。きっと成長して大人になっていくということは、そうやって自分なりの基準をパターンに応じて沢山設けておくことでもあるのでしょう。

このことには当時の私も考え至ったのですが、その基準をどうやって決めるかが定まらないままです。

基準の決め方は、実は大切ではないのかも知れません。自信の有無も関係なくて、“そう決めたから” という理由で充分なのかも知れません。

こんな風に思えるようになったのも年齢を重ねたからですね。

桜を見てきたんだけど透明水彩で描くのは難しい理由を考えた

透明水彩画を描くのが好きな 小柏まき です。

桜って花が咲くと “桜の木だ” と途端に認識するのに、普段は何の木かなんて考えない街路樹が意外と桜だったりすることに気が付いて「桜ってこんなにあったんだ」と感じます。

満開の桜を見るたびに、ふわ~というか、ぱぁ~というか、「うゎ~綺麗」と言いたくなる感覚に頭がなります。

この季節になると桜の絵を描きたくなるのですが、透明水彩で桜を描くというのは難しいというのをよく見聞きします。私自身はこれまで特別に桜を描くのが難しいと感じてこなかったのは、透明水彩画を描くようになって迎えた春が少なかったからだと思います。

 

個人的に元々、桜の季節にお花見に出掛ける習慣があまりないです。レジャーシートを敷いてお花見したことも幼い頃に一度あったらしいと親に聞くくらい記憶にありません。近年になって、桜が咲いている期間中の雨模様ではない日に体調と相談しながら外出できるようになりました。というわけで今年も桜を見に幾つかの場所に行ってみました。

 

一昨日は一人でバスに乗って大きな公園に行きました。この公園は昨年の秋に紅葉を見に行った場所で、通院しているメンタルクリニックから近いところです。「私の他にも花見客が沢山いるかな?」くらいの想像しかせずに行ってみると、人出は少なくなく多過ぎなかったものの、屋台が幾つか出ていてお祭りのときの提灯があちこちに連なっていて “お祭り感” があったのが予想外でした。桜の木に向けられたライトがあったので日が暮れたらライトアップもするのでしょう。屋台に並んだり、レジャーシートやテントを広げたりベンチに座ったり、歩いたり立ち止まったりして花を見ている人々は、老いも若きも散歩の犬もいました。イラついた人がいなくて何に急かされるでもない、気ままで和やかな気分でいられました。

外出するとほとんどの場合で具合が悪くなるのですが、この日は息苦しさや気持ち悪さに加えて頭痛が酷くなりました。

 

昨日は自転車で画材屋さんに行ったついでに住宅街の小さな公園に行きました。ポカポカした陽射しとたまに冷たく感じる風が心地よくて、ペダルを漕ぎながら透明水彩で描く桜について考えていました。

冒頭で触れた、満開の桜を見たときの感覚は、日常の景色がこんなに明度が高いもので遮られて視界が覆われることは他に無いから得られる感覚なのではないかという考えに行きつきました。白い景色といえば雪景色ですが、雪はすべてに乗ってしまうのに対して、桜の花は何気ない風景の中に突如としてボリュームを持って現れ、見上げさせて小さな花を風に揺らしてみせるところが生命を感じさせるのです。

透明水彩で桜を描くことの何がそんなに難しいのか。小さく沢山の花で景色を覆う桜は、白に近い色をしています。透明水彩画では白い色は紙の色を残すことで表すので、白に近い色のものほど手を加えられないことになります。また、細かい花の集合体ですが細かいものをすべて細かく描写しようとすると説明的な要素が強く出て、全体の見た目の印象が実物の与える印象からかけ離れてしまいます。実物を見ているときには、細部を見ているときには繊細な花の作りや花びらの薄さまでを感じ取っていて、離れて全体を見ているときには木の形からくる纏まった立体として風景に存在している様子を感じられます。絵に描こうとすると、このどちらかを選ぶことになる場合が多くどちらかの感じは失われやすいのだと思います。

ヒトの脳って自然のものを綺麗なように見るという風にできているんだなと思います。

透明水彩は、減法なんだと思いました。混色の際に絵の具を混ぜ合わせていく[減法混色]は、混ぜれば混ぜるほど光の量が減っていきます。透明水彩画を描くことは、手つかずの水彩紙の時点では真っ白で一番明るい状態ですが、そこに手を加えて暗くしていくことで絵を描いていきます。

将棋の駒の最強の布陣は、指し始める前の最初の並びだと聞いたことがあります。最初にはあったはずの “どの駒がどこに動くか” という可能性が、局面が進んでいくにつれて減っていきます。透明水彩画を描くことは、なんだか将棋と似たところがあると思ったのでした。

単純なコンプレックス

見られていると手が震えたり頭がパニックになって身体がバラバラになりそうになる、小柏まき です。

いいえ本当は、誰にも見られていない時でも手が震えてやろうとしていることを諦めたりもしました。社交不安障害の症状で、書痙とか会食恐怖とか対人恐怖とかいうものでしょう。

 

 

私は小学4年の途中から中学卒業まで不登校でした。当時の診断は自律神経失調症でした。中学校の授業を1コマも受けられなかったことで、一般的な人が受動的に知る機会があったことを自分は知らないであろうという認識があります。

学校に行かなくても学習はできる、と考えることもできるでしょうが、やる気やお金を特別に持っていなくても学習すことができる環境が整っているのが現代日本では学校なのです。自分に合った学習法を見つけて実践することは、多くの人ができている日々の登校ができない私にとって簡単ではありませんでした。

 

 

現在の私に下りている診断は、反復性うつ病と社交不安障害と強迫性障害です。

何も活動できない病状のときは、社会に貢献できていないという罪悪感はあれどコンプレックスというのはあまり意識せずに過ごしていた気がします。もちろん、痛いとか苦しいとかの感覚に意識を持っていかれる時間が多かったこともあります。

手が使えるようになったり何かに意識を向けていられるくらいの病状になって、少しずつ絵を描くようになりました。2020年に初めて透明水彩絵の具に出会ったので、水彩画を描くようになってもう3年目です。

 

私の学習機会の欠損は、美術においても同様です。小学校高学年の図画工作や中学の美術の授業を受けることができていません。中学では憧れから一応美術部に籍を置いてもらっていましたが一度しか出席できず、親に退部を勧められていましたが幽霊部員でした。高校では部活動はしていませんでしたが、選択科目では書道の希望が通らず美術に入れられたのでこの時には美術の授業を受ける機会がありました。

習い事は幾つかしたことがありますが、絵や美術に関するものは習ったことがありません。

 

今も習ったり、教則本を読んだり、ということを全くせずに自己流で絵を描いています。というのも、諦めているのです。

例えば絵画教室に毎週通うのを想定すると、予定の日に外出して人と関わって活動することがどれくらいの割合で可能か自信がありませんし、先生や他の生徒が居る空間で手が利いて絵が描けるのかも……想像しただけで軽く絶望します。

教則本を読もうとしない理由は幾つかあります。人や環境からの影響を受けやすいタイプだという自覚があるので、一つの正解を示されると他にも正解があるにも関わらず最初に触れた一つの事柄から無意識に強く影響を受けてしまいそうだというのがあって、うつ病をよくするために自分に何かを課さないようにしていて「~でなければいけない」といった囚われを極力無くしたいのですがそれに逆行しそうで避けています。それからこれは精神疾患あるあるらしいのですが、文章を読むことが容易ではないというのがあります。内容に興味があって文章を読もうと試みても、文字を目で追っているだけで言葉が意味を持って自分の中に入ってこないのです。そのうち目で追うことも怪しくなってきて戻っては読み直そうとする、それを何度も繰り返しても読めたはずの内容がまったく身にならない感覚です。私の場合は本が読める時期も巡ってきたことがあるので、もしかしたら今後いつか本を読むことはあるかも知れません。

 

他の誰かは私にはできないことをやっている、ということを意識しても落ち込むだけの場合が多いので普段は意識しないように、出来ないことよりも出来ることに目を向けいようとしています。

小中学校の授業を当たり前のように受けたり、絵を習いに行ったことがあったりする人の何気ない言葉に、地味にダメージを受けてみて自分の持っているコンプレックスの形を知ります。

私が水彩画を描く一番の目的は自分を楽しませることです。なので出来上がった絵がどうというよりも、描くという行為をしている時点で最大の目的を達していると思っています。どちらかといえば、楽しむために上達したい気持ちもあるということです。

もっとも上達しなくなる方法は、やめることだと思います。ここでいう “やめる” というのは、心身共に離れる、興味を持って見聞きすることもやめるということです。別のことに興味が移ったり、調子が悪くて時間が空いたりというのは、何度あっても構いません。

楽しむための、行動するための、ハードルをベタベタに下げておこうと思います。

愛着形成を木と好環境に例えてみる

経緯と目的

自分の愛着形成について意識するようになったのは、岡田尊司先生の本を読んだときにセルフチェック項目があったのがきっかけだったと記憶しています。当時身近だった人にもチェック項目を質問してみましたが、比べると私のほうが圧倒的に愛着障害の傾向が強くて意外だったのでした。自分は親に大切に育ててもらったと、自分の誕生日とは親に感謝する日だと思っていました。

私は心理学・発達科学を専門としているわけでも、個人的に新しいことを学んでいるわけでもありません。ただ自分の在り方についてより好いことを知って取り入れたいと思っています。記憶は頼りにならず、現在は読書もまともに出来ない状態です。ですのでこの記事は、個人的なイメージを記す備忘録のひとつでしかありません。

 

 

愛着形成のイメージ

自己の本質が木だとして、養育者の “まなざし” がこの木に向け与えられる好環境だとします。

環境は、土壌や気温や日当たりです。

 

 

愛着形成は船と港の関係に例えられることが一般的です。養育者が港で、そこを帰る場所として船は沖へ出ます。大海原でもしも怖い体験をしたときには、いつでも元の港に戻れば安心できます。港は安全基地であるのです。


船と港の関係に例えたときの、港よりも能動的で、自己が成長してもなお影響を与え続けるものとします。

 


木の幹の周りに囲いをして不安定な幹を支えて育てようとする自助機能があるとします。これは自己を守ると同時に周囲の世界から自己を隔絶する役割も持つものです。

自己の本質がうまく育った後に世界と関わりを持っていくには囲いを壊していき、それでもなお木として立っていられるようになる必要があると考えます。

 

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左の木は、健全に生きている木です。上に伸びている部分が大きく見えますが、見えない地中には地上に出ている面積よりも大きい根っこがあるかも知れません。

一方で右の木は、地面に上手く根を張ることが出来ずに、命を保つことが危うい状態です。自己が立っているのが危ういので倒れてしまわないように、また風に飛ばされるなどの外からの刺激に負けてしまわないように、周囲を何かで囲ってしのいでいます。

 

左右どちらの木の絵でも共通することは、グレーに塗られた部分に力が使われていることです。

左の木は、高く太く成長しながら光を受ける葉を沢山つけて大きくなることにエネルギーが使われています。見えない地中では根も広く大きく蔓延っていて、根を長く深くすることにもエネルギーが使われているでしょうが、この絵ではその姿は省略しています。ですが、根が地面と繋がっていて地中の水分や養分を受け取ることは、木が成長しきっても続きます。また、根の存在は、地上に出ている部分が大きくなっても木が倒れてしまわないように支えています。

右の木の絵では、木の周りに囲いを作ることにエネルギーを使っています。ブロックか何かを積んで囲いを作るイメージです。根を張って、高く大きく成長すること自体ではなく、どうにか事切れないためにエネルギーを使ってしまっています。そして、木自体がしっかり根付いて大きくなろうとするときには、囲いを撤去するのにまたエネルギーが必要になるのです。

 

 

大人になっても、子どもの頃の影響を受け続けて生きづらいと感じる、自己と他者との距離や関係や自己についての認識の持ち方に影響を与え続ける。人が成長する過程には、そういった要素がある気がしました。