考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

小学校体育の時間に感じた集団心理と過冷却のような意思

たまに見た夢が、小学校の体育みたいな夢だったりすることがある 小柏まき です。

夢の内容はよく覚えていませんが、過冷却の水が衝撃で一気に凍る動画を見かけて、子どもの頃の体験とイメージが似ていたので記しておこうと思います。

 

 

小学校の体育の時間といえば、思い出すエピソードがある。

体育館での体育の授業の前の休み時間、私たちは教室から体育館に移動した。その体育の授業を体調不良で見学する私に、体育館シューズに履き替えたために持て余してる上履の入った巾着袋を「持ってて」と言った子がいた。

普段は体育館の床の壁際に置いておくものだったけど、「いいよ」と言って預かると、それを見た子が「私のも」と。そうやって数人のをまとめて腕に掛けていると、「私も」と当然のように言う子が出てきた。

私は断るタイミングを失ってぼーっとしてた。

あとから来たクラスメイトはもう何も言わずに私の左腕に自分の上履き入りの巾着袋を掛けていく。見学は座ってていいから巾着は床に置かれる状態で紐が私の腕に集まってた。重みもないし意味もないように見えた。私には皆んなの行動の意味もよくわからなかった。

普段の体育館での授業のときには壁際に雑然と置いておく上履き入りの巾着袋、それの何が不便かを強いて挙げるとすれば、自分のをどこに置いたか忘れてしまえば少し探すことになるかもしれない。

うちの小学校は1クラス30人ちょっとなのでそのうちの約半分の15人くらいが女子、巾着袋は保護者の手製で生地も自由なので柄や色味が似ていたとしても、たった15個の袋から自分のを見つけるのは難しくはない。

言い出しっぺの子はたまたま私の近くに居たし、私ともそれなりに親しかったので自分の分の巾着袋を持った私の姿を見て、私がその子の袋も持っていたら授業終わりに私の元へ来て教室まで歩きながら渡してくれると思ったことだろう。喋りながら移動して体育館まで来た流れで思いつきそうなことではあった。

体育の授業の見学とは心細いものだった。普通の人ができること且つ自分にも権利があることなのに、自分は参加できない。見学がどれくらい学びになるのか疑問だった。体育の時間は先生に声を掛けられることもなく過ぎた。

 

最悪だったのは授業が終わった休み時間だった。

クラスメイトは私の左腕から自分の上履きの入ったの巾着袋の紐を取っていく。手首から肘の間に雑に重ねられた紐を、それぞれが勝手に引っ張っては絡まっているのが不満そうに回収できた子から教室へ帰る。私は腕に掛かった全部が持ち主の手に渡るまでそこにいなければいけないらしい。

私は物かなにかだと思われていたのだろうか。私は袋の紐を掛けておくための物でも、置いておくための場所でもなく、クラスメイトの誰かを特別にお世話したい保護者でもなければ、指導する立場の先生でもなかった。ただ、みんなと同じ授業を受ける権利があるはずで、だけど同じことができずに大人しくしているしかないだけの子どもだった。

私がここに居ても物や場所のように扱われるなら、私が居ることになんて気づかないで欲しかった。

頭の中も気持ちもごちゃついていたし、思い思いに引っ張られる紐だらけの腕は痛いし疲れたし、みんなの意思に任せて許可(?)したはずだったのに見つけづらさ取りづらさの苛立ちを向けられるのが理不尽でつらかった。

無心になって耐えようと、早く教室に戻りたいけどこの時間だけ我慢しようとしていた。

腕よりも心が痛い気がしてきたけど、断らなかったのは私だった。

 

ずっと考えていた。私はどこで「嫌」と言うべきだったのか? 本当に嫌だったのは最初の友達じゃない、何人目かの特に仲良くもないクラスメイトだったし、本当に嫌だったのは自分の頭で判断することをせずにそれを当然の権利のように行動する人全員だった。

幼い頃は食が細くて太れない体質でよくガリガリだと言われていた。きっと見る人が見れば集団に虐められているように見えただろう。

先生や家族に、私はこのことを話せなかったように記憶している。何が悪くて何が嫌だったのか、どうしてこんなに惨めな気持ちになるのか、言語化できなくてよくわからなかった。

 

過冷却のような意思

標準状態では水は0℃で氷になるものですが、0℃を下回る温度になっても氷にならない水もあります。ゆっくり温度を下げていくと凍るべきポイントを見逃してしまったように氷になれずに0℃より冷えてしまった水です。これは衝撃を与えると一気に結晶化して凍ります。瓶の中や鍋の中で一気に凍っていく様子は不思議にも見えるので、時々動画を見かけることもあります。

寒いこの時期、過冷却の水が一気に凍る動画をたまたまSNSで見かけました。氷になるべきなのにきっかけを見失ってしまった水が、なんだかあのときの私みたいだと思いました。「嫌」と断るきっかけを見失ってしまって、言葉にできない感情を抱えたまま泣くこともなかった私みたいだと。

 

自分の感情を基準にしてその都度言動を起こすというのは、人間生活では難しい場面も多いので、何か問題に直面したときに自分なりの基準を設けておくというのがいいのだと考えます。きっと成長して大人になっていくということは、そうやって自分なりの基準をパターンに応じて沢山設けておくことでもあるのでしょう。

このことには当時の私も考え至ったのですが、その基準をどうやって決めるかが定まらないままです。

基準の決め方は、実は大切ではないのかも知れません。自信の有無も関係なくて、“そう決めたから” という理由で充分なのかも知れません。

こんな風に思えるようになったのも年齢を重ねたからですね。

桜を見てきたんだけど透明水彩で描くのは難しい理由を考えた

透明水彩画を描くのが好きな 小柏まき です。

桜って花が咲くと “桜の木だ” と途端に認識するのに、普段は何の木かなんて考えない街路樹が意外と桜だったりすることに気が付いて「桜ってこんなにあったんだ」と感じます。

満開の桜を見るたびに、ふわ~というか、ぱぁ~というか、「うゎ~綺麗」と言いたくなる感覚に頭がなります。

この季節になると桜の絵を描きたくなるのですが、透明水彩で桜を描くというのは難しいというのをよく見聞きします。私自身はこれまで特別に桜を描くのが難しいと感じてこなかったのは、透明水彩画を描くようになって迎えた春が少なかったからだと思います。

 

個人的に元々、桜の季節にお花見に出掛ける習慣があまりないです。レジャーシートを敷いてお花見したことも幼い頃に一度あったらしいと親に聞くくらい記憶にありません。近年になって、桜が咲いている期間中の雨模様ではない日に体調と相談しながら外出できるようになりました。というわけで今年も桜を見に幾つかの場所に行ってみました。

 

一昨日は一人でバスに乗って大きな公園に行きました。この公園は昨年の秋に紅葉を見に行った場所で、通院しているメンタルクリニックから近いところです。「私の他にも花見客が沢山いるかな?」くらいの想像しかせずに行ってみると、人出は少なくなく多過ぎなかったものの、屋台が幾つか出ていてお祭りのときの提灯があちこちに連なっていて “お祭り感” があったのが予想外でした。桜の木に向けられたライトがあったので日が暮れたらライトアップもするのでしょう。屋台に並んだり、レジャーシートやテントを広げたりベンチに座ったり、歩いたり立ち止まったりして花を見ている人々は、老いも若きも散歩の犬もいました。イラついた人がいなくて何に急かされるでもない、気ままで和やかな気分でいられました。

外出するとほとんどの場合で具合が悪くなるのですが、この日は息苦しさや気持ち悪さに加えて頭痛が酷くなりました。

 

昨日は自転車で画材屋さんに行ったついでに住宅街の小さな公園に行きました。ポカポカした陽射しとたまに冷たく感じる風が心地よくて、ペダルを漕ぎながら透明水彩で描く桜について考えていました。

冒頭で触れた、満開の桜を見たときの感覚は、日常の景色がこんなに明度が高いもので遮られて視界が覆われることは他に無いから得られる感覚なのではないかという考えに行きつきました。白い景色といえば雪景色ですが、雪はすべてに乗ってしまうのに対して、桜の花は何気ない風景の中に突如としてボリュームを持って現れ、見上げさせて小さな花を風に揺らしてみせるところが生命を感じさせるのです。

透明水彩で桜を描くことの何がそんなに難しいのか。小さく沢山の花で景色を覆う桜は、白に近い色をしています。透明水彩画では白い色は紙の色を残すことで表すので、白に近い色のものほど手を加えられないことになります。また、細かい花の集合体ですが細かいものをすべて細かく描写しようとすると説明的な要素が強く出て、全体の見た目の印象が実物の与える印象からかけ離れてしまいます。実物を見ているときには、細部を見ているときには繊細な花の作りや花びらの薄さまでを感じ取っていて、離れて全体を見ているときには木の形からくる纏まった立体として風景に存在している様子を感じられます。絵に描こうとすると、このどちらかを選ぶことになる場合が多くどちらかの感じは失われやすいのだと思います。

ヒトの脳って自然のものを綺麗なように見るという風にできているんだなと思います。

透明水彩は、減法なんだと思いました。混色の際に絵の具を混ぜ合わせていく[減法混色]は、混ぜれば混ぜるほど光の量が減っていきます。透明水彩画を描くことは、手つかずの水彩紙の時点では真っ白で一番明るい状態ですが、そこに手を加えて暗くしていくことで絵を描いていきます。

将棋の駒の最強の布陣は、指し始める前の最初の並びだと聞いたことがあります。最初にはあったはずの “どの駒がどこに動くか” という可能性が、局面が進んでいくにつれて減っていきます。透明水彩画を描くことは、なんだか将棋と似たところがあると思ったのでした。

単純なコンプレックス

見られていると手が震えたり頭がパニックになって身体がバラバラになりそうになる、小柏まき です。

いいえ本当は、誰にも見られていない時でも手が震えてやろうとしていることを諦めたりもしました。社交不安障害の症状で、書痙とか会食恐怖とか対人恐怖とかいうものでしょう。

 

 

私は小学4年の途中から中学卒業まで不登校でした。当時の診断は自律神経失調症でした。中学校の授業を1コマも受けられなかったことで、一般的な人が受動的に知る機会があったことを自分は知らないであろうという認識があります。

学校に行かなくても学習はできる、と考えることもできるでしょうが、やる気やお金を特別に持っていなくても学習すことができる環境が整っているのが現代日本では学校なのです。自分に合った学習法を見つけて実践することは、多くの人ができている日々の登校ができない私にとって簡単ではありませんでした。

 

 

現在の私に下りている診断は、反復性うつ病と社交不安障害と強迫性障害です。

何も活動できない病状のときは、社会に貢献できていないという罪悪感はあれどコンプレックスというのはあまり意識せずに過ごしていた気がします。もちろん、痛いとか苦しいとかの感覚に意識を持っていかれる時間が多かったこともあります。

手が使えるようになったり何かに意識を向けていられるくらいの病状になって、少しずつ絵を描くようになりました。2020年に初めて透明水彩絵の具に出会ったので、水彩画を描くようになってもう3年目です。

 

私の学習機会の欠損は、美術においても同様です。小学校高学年の図画工作や中学の美術の授業を受けることができていません。中学では憧れから一応美術部に籍を置いてもらっていましたが一度しか出席できず、親に退部を勧められていましたが幽霊部員でした。高校では部活動はしていませんでしたが、選択科目では書道の希望が通らず美術に入れられたのでこの時には美術の授業を受ける機会がありました。

習い事は幾つかしたことがありますが、絵や美術に関するものは習ったことがありません。

 

今も習ったり、教則本を読んだり、ということを全くせずに自己流で絵を描いています。というのも、諦めているのです。

例えば絵画教室に毎週通うのを想定すると、予定の日に外出して人と関わって活動することがどれくらいの割合で可能か自信がありませんし、先生や他の生徒が居る空間で手が利いて絵が描けるのかも……想像しただけで軽く絶望します。

教則本を読もうとしない理由は幾つかあります。人や環境からの影響を受けやすいタイプだという自覚があるので、一つの正解を示されると他にも正解があるにも関わらず最初に触れた一つの事柄から無意識に強く影響を受けてしまいそうだというのがあって、うつ病をよくするために自分に何かを課さないようにしていて「~でなければいけない」といった囚われを極力無くしたいのですがそれに逆行しそうで避けています。それからこれは精神疾患あるあるらしいのですが、文章を読むことが容易ではないというのがあります。内容に興味があって文章を読もうと試みても、文字を目で追っているだけで言葉が意味を持って自分の中に入ってこないのです。そのうち目で追うことも怪しくなってきて戻っては読み直そうとする、それを何度も繰り返しても読めたはずの内容がまったく身にならない感覚です。私の場合は本が読める時期も巡ってきたことがあるので、もしかしたら今後いつか本を読むことはあるかも知れません。

 

他の誰かは私にはできないことをやっている、ということを意識しても落ち込むだけの場合が多いので普段は意識しないように、出来ないことよりも出来ることに目を向けいようとしています。

小中学校の授業を当たり前のように受けたり、絵を習いに行ったことがあったりする人の何気ない言葉に、地味にダメージを受けてみて自分の持っているコンプレックスの形を知ります。

私が水彩画を描く一番の目的は自分を楽しませることです。なので出来上がった絵がどうというよりも、描くという行為をしている時点で最大の目的を達していると思っています。どちらかといえば、楽しむために上達したい気持ちもあるということです。

もっとも上達しなくなる方法は、やめることだと思います。ここでいう “やめる” というのは、心身共に離れる、興味を持って見聞きすることもやめるということです。別のことに興味が移ったり、調子が悪くて時間が空いたりというのは、何度あっても構いません。

楽しむための、行動するための、ハードルをベタベタに下げておこうと思います。

愛着形成を木と好環境に例えてみる

経緯と目的

自分の愛着形成について意識するようになったのは、岡田尊司先生の本を読んだときにセルフチェック項目があったのがきっかけだったと記憶しています。当時身近だった人にもチェック項目を質問してみましたが、比べると私のほうが圧倒的に愛着障害の傾向が強くて意外だったのでした。自分は親に大切に育ててもらったと、自分の誕生日とは親に感謝する日だと思っていました。

私は心理学・発達科学を専門としているわけでも、個人的に新しいことを学んでいるわけでもありません。ただ自分の在り方についてより好いことを知って取り入れたいと思っています。記憶は頼りにならず、現在は読書もまともに出来ない状態です。ですのでこの記事は、個人的なイメージを記す備忘録のひとつでしかありません。

 

 

愛着形成のイメージ

自己の本質が木だとして、養育者の “まなざし” がこの木に向け与えられる好環境だとします。

環境は、土壌や気温や日当たりです。

 

 

愛着形成は船と港の関係に例えられることが一般的です。養育者が港で、そこを帰る場所として船は沖へ出ます。大海原でもしも怖い体験をしたときには、いつでも元の港に戻れば安心できます。港は安全基地であるのです。


船と港の関係に例えたときの、港よりも能動的で、自己が成長してもなお影響を与え続けるものとします。

 


木の幹の周りに囲いをして不安定な幹を支えて育てようとする自助機能があるとします。これは自己を守ると同時に周囲の世界から自己を隔絶する役割も持つものです。

自己の本質がうまく育った後に世界と関わりを持っていくには囲いを壊していき、それでもなお木として立っていられるようになる必要があると考えます。

 

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左の木は、健全に生きている木です。上に伸びている部分が大きく見えますが、見えない地中には地上に出ている面積よりも大きい根っこがあるかも知れません。

一方で右の木は、地面に上手く根を張ることが出来ずに、命を保つことが危うい状態です。自己が立っているのが危ういので倒れてしまわないように、また風に飛ばされるなどの外からの刺激に負けてしまわないように、周囲を何かで囲ってしのいでいます。

 

左右どちらの木の絵でも共通することは、グレーに塗られた部分に力が使われていることです。

左の木は、高く太く成長しながら光を受ける葉を沢山つけて大きくなることにエネルギーが使われています。見えない地中では根も広く大きく蔓延っていて、根を長く深くすることにもエネルギーが使われているでしょうが、この絵ではその姿は省略しています。ですが、根が地面と繋がっていて地中の水分や養分を受け取ることは、木が成長しきっても続きます。また、根の存在は、地上に出ている部分が大きくなっても木が倒れてしまわないように支えています。

右の木の絵では、木の周りに囲いを作ることにエネルギーを使っています。ブロックか何かを積んで囲いを作るイメージです。根を張って、高く大きく成長すること自体ではなく、どうにか事切れないためにエネルギーを使ってしまっています。そして、木自体がしっかり根付いて大きくなろうとするときには、囲いを撤去するのにまたエネルギーが必要になるのです。

 

 

大人になっても、子どもの頃の影響を受け続けて生きづらいと感じる、自己と他者との距離や関係や自己についての認識の持ち方に影響を与え続ける。人が成長する過程には、そういった要素がある気がしました。

感じることと考えることの関係

記憶が頼りにならなくて何度も同じことを繰り返しているかもしれない 小柏まき です。言い換えれば、何度も繰り返してることは必然的に行く場所なので繰り返してもいいとも思います。記憶のどこが欠けていようが、自分の納得するようにしかできないからです。

 

 

近頃、自分にとっては大きなこと(他者から見れば小さなこと)に直面するたびに、うわっと泣き出したり、胸が一杯になって動けなくなって唸っていたり、強い感情に飲み込まれていながらその感情が何なのか言い表す言葉を見つけるまでに時間がかかることが多いです。

 

考えること感じることでは、考えることの方が高尚なのだと未熟だった頃には思っていました。

そんな認識が本当は違うのかもと思わせてくれたのは、ある授業中の先生の言葉でした。その先生はわかりやすい学歴の人で、きっと人生の多くの時間を己のコントロールをして学習したり学問したりしてきたはずでした。その先生が、ある人を見て言っていたのが、「彼のいいところは、ちゃんと感じてるところ。」という言葉でした。

私は「ちゃんと感じてる」ということの意味があまりわかりませんでした。わからないと思った理由は、私にはその “彼” がチャランポランに見えたことが大きかったです。私にはその場のノリで笑って見せて求められていそうなことを言う、そういう人に見えました。興味を持って見てみたものの期待にそぐわずチャランポランだった、しかし状況的に感想を述べるべき場面だった、だから先生は授業を取り仕切る立場で「受け取りました」という意味で言った言葉なのかなと一先ず受け取りました。

それがしっくり来ていなかったのでしょう、何日経っても何週間経ってもふとした時に引き出して見返すようなことをしていました。そのうちに、感じることを補うために考えることをしているのではないかと思いうようになりました。

 

授業での先生の発言は、先生の率直な感想で、先生から見た彼の特筆すべきところが「ちゃんと感じてるところ」だったのではないでしょうか。先生は “ちゃんと感じられていない” ということについて思うところがあったのではないでしょうか。

 

 

ここしばらく何だかわからない感情に飲み込まれていたのが少し落ち着いてきて振り返ってみると、結構ありきたりな言葉で表せる感情だったと、なんだ意外と自分は単純じゃないかと思います。

こういうときに、[感じることと考えることの関係]について何年も前から自分の中にあるポイントをもう一度見直しておきたいと、今回はここに記しました。

描いた絵14[緑のあるところ]

昨年描いた透明水彩画です。クサカベさんの無料サンプル紙に描いた2作目です。

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緑のあるところ

2021年6月2日

 

絵の具はウィンザーニュートンのコットマン12色セット+セピア単色。

このサンプル紙ファブリアーノ5は、使ってるホワイトワトソンと同じコットン50%紙。こっちの方が発色がいいような感じがしました。青系のステイン具合含め、コットン感が強い気がします。紙の漉き目が独特ですが嫌いじゃありません。

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陽射しがある日に行った緑のあるところを描きました。

 

描いた絵13[もち様]

YouTubeもちまる日記 をよく観ていた昨年5月に描きました。

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もち様

2021年5月28日

 

紙はホワイトワトソン F2。絵の具はウィンザーニュートンのコットマン12色セット+セピア単色。

 

透明水彩なので白いところは塗り残すことで紙の色を活かしています。

白・黒・グレーなどの色を使わずに混色で色を作りました。

絵の具を塗って乾いたところに重ね塗りしようと触ったときに下の色が動きやすいのは、吸い込みの少ないホワイトワトソン紙の特徴でもありました。そんなことを実践しつつ感じました。

 

動画で桶に入ってキョロキョロしてるワンシーンが可愛くて描きました。