考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫体験】女の、考えの調理場。

『好きと嫌いは自分じゃ選べない』のは自分を守るため

 

「“好き” とは、無意識を支配されること」だと思ってたけど、これは “嫌い” にも当てはまるんだよね。

好きと嫌いは自分じゃ選べない。

 by 小柏まき

 

 

 

昨年のこと。会話の中で「“好き” とは?」と訊かれて、「“好き” とは、無意識を支配されること」と自分の中から言葉が出てきました。

 

 

「好きと嫌いは自分じゃ選べない」という言葉は、『大恋愛~僕を忘れる君と』というドラマで遣われていた言葉です。

この言葉は、聞いてから自分の中で反芻してみて、とても納得して気に入った言葉です。

それまでは特に意識したことや言語化したことはなかったものの、“好き”とか“嫌い”とかを自分またはその人が選べることのように、どこかで思い込んでいたような気がしたのでした。

 

 

 

子ども時代に「好き嫌いはよくない」という教育を受け、嫌いな食べ物を克服しようとして少しずつ食べるように、努力というほど大袈裟なことではないかもしれませんが、意識してきました。

これは、食わず嫌いで慣れればだんだん美味しさがわかってくるようなモノには有効なことでしょう。また、それを食べられるようになると摂取できる栄養が身体にいい場合、嫌いで食べられなかった物が食べられるようになるのは「いいこと」ですよね。

 

また、“嫌い”と感じるより“好き”と感じるほうが自分自身も気持ちいいですし、どんなことでも好きになってしまえれば楽ですよね。

 

 

ここで危険なのは、 嫌いなことは悪いこと・好きなことはいいこと という誤った認識を無意識のうちにしてしまうことです。

 

“嫌い”と感じることは、心身が拒否反応を示しているということです。

拒否反応の原因が、運の悪い思い込みや根拠のないものなら、嫌いなものを克服してしまっても問題はありません。ですが、根拠がちゃんとあるのに頭で認識していない場合は、「嫌いだから」という理由で嫌いなものを遠ざけることで、自分を守ることになると考えています。

 

自分で自分を守るために、嫌いなものがあってもいいのです。

 

 

これは、人に対しても当てはまることだと考えています。

家族や肉親、友人や恋人、自分の心の近くに居ることを許した相手に、嫌いな部分があってもいいのです。たとえ相手に嫌いなところがあっても、その人自体を嫌いになる必要はないのです。

 

逆に、嫌いだと思っている人に好きなところを見つけても、いいと思っています。

これに関しては、嫌いな人を遠ざけきっていないという面では、自分に負荷をかけることになっているのかもしれませんが、たまたま嫌いな人の言動を見聞きしたときに「いいな」と思って心に留めておくような自分を許してあげてもいいじゃないかと、私は思うのです。

鬱で読書が難しい&コミュニケーション力低下による苦

ひとつの事象に遭ったことでネガティブな気持ちに捕らわれてしまった 小柏まき です。

 

今回のうつ病が、医療の力だけではなく出会った人から受けた影響もあって快復に向かっていると思います。

ですが、人との関りを広げると、思うようにならないことも多くあるのだということを実感した体験を書きたいです。

元々は、誰かを批判したり論破してしまったり陰口を言ったりするのは好まない性質なのですが、今回の記事で自分の心の動きを整理したいです。

愚痴や批判やネガティブ思考を見たくない方は、お戻りください。

 

 

 

 

 

何をそんなに気に病んでいるかというと、Twitterで繋がった個人が催している『オンライン読書会』なるものに参加したいと思ったのに参加できなかった、というものです。

 

目次

 

 

 

<時系列での成り行き>

オンライン読書会主催者との出会いと関係

 

出会いは、別の人のツイキャスのリスナー同士だったことに始まりました。お互いにコメントで参加していた流れで、Twitterをフォローし合ったことでした。

 

その後、その方がツイキャスで音声配信していたのを聞きに行ってコメントしたのが、今年の1月のことです。

そのときの話題も、オンライン読書会のことでした。「よろしかったら参加をご検討ください」と言ってもらったと記憶しています。

それ以降にも、その方のツイキャスを確か2回ほど聞きに行ってコメントしました。その度にお誘いの言葉をかけてもらいました。

 

 

 

私がオンライン読書会に参加しようと心が動いた経緯

 

オンライン読書会主催者のツイキャスを私が聞きに行った3回目のときのことです。以前オンライン読書会に参加したという方とコラボ配信をしていて、私以外のリスナーにも読書会参加経験者の方がいてコメントしていたのでした。どの人も言葉遣いが丁寧で、話をスムーズに進める働きができる人たちだと感じました。

そこで、「オンライン読書会もこんな雰囲気だとしたら、参加したら楽しいかもしれない」と思ったのでした。

 

そしてツイキャスを聞く度に誘ってくれていた主催者さんが、次の本を夏目漱石の『こころ』を扱うという話をしたのでした。

私は新書などの知識を吸収するタイプの本は、特別に興味を持ったもの以外買わないののですが、それまでオンライン読書会ではそういう本が扱われてきました。どちらかといえば小説が好きな私が参加するには、『こころ』はもってこいだったのです。

その話を聞きながら「『こころ』を扱うと聞いてがぜん興味が湧きました」とコメントすると、「是非ご参加ください」と応えてくれたのでした。

 

 

 

読書会『こころ』の回まで

 

参加の意思をなんとなくですが伝えたつもりだった私は、漱石のこころを読みだしました。

とはいっても、昨年読み始めてから途中でやめたままになっていた続きを読むことを再開したのでした。

というのも、うつ病で読書すること自体に力が要ることや、実生活と重ねて感情移入し過ぎて読むのがツラくなってしまったことが重なっていたのですが、状況も徐々に変化して読書を再開してもいいかなと思っていたタイミングだったのでした。

元々、読み進めるのが遅い私は、少しずつ、本当にちょっとずつ読んでいきました。

 

ツイキャスのときに、聞き専(聞く専門)で参加してもいいと言ってもらったので、そのつもりで参加の意思を伝えるべく、参加要項を確認しました。

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参加意思表示はリプライでのやり取りは既にしているから、待っていたら連絡をくれるのかな? それとも、こちらからDMもするべきなのかな? などと思いながらツイートを追って見ていました。

そこで、主催者さんが今回の読書会に関係するハッシュタグを作っているのを見つけました。

 

『こころ』を読んでいますよ、参加する意思は変わっていませんよ、という意味も込めたつもりで、そのハッシュタグを付けてツイートしました。

 

すると、主催者さんがリツイートしてくれて、その後「あなたのツイートをトゥギャりました」という通知が来ました。

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オンライン読書会開催時刻を過ぎて

 

主催者さんから連絡はありませんでした。

私も、気づかなかったわけではありません。本当にどうしても参加したいのならこちらからDMするべきでした。数日前から、DMするかどうか、迷っていたのです。

迷っても行動しなかったのは、私自身に行動するための動機がなかったのでしょう。

 

 

 

翌日になっても消化できずネガティブ思考に

 

やっぱり自分は居ても居なくても気づかれないような存在なんだな……。誘っておいて忘れるなんて……。こんな風に思うなら自分から連絡してアピールすればよかったのに……。などと、悲しい気持ちがなかなか消えませんでした。

 

そこで、主催者さんの参加要項のツイートをリツイートし、続けて自分の参加意思表示のリプライをリツイートしました。

晒す行為は、個人攻撃とも受け取れる行動でした。普段の私だったらしないようなことです。

自分らしくないことをするほど、落ち込んでいるんだ。と、予想外に感じました。

それと同時に、平和主義な自分のほうが偽物のような、繕っているような気もして、モヤモヤしました。

 

リツイートの通知が行ったであろう後に、主催者さんから来たDMです。

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<内省>

心の動き

 

 興味はあるけど不安

→不安がひとつずつ解消されてきた

→受け入れてもらえた気がして嬉しい

→参加するのが楽しみ

→連絡が来ないけど自分からしたほうがいいのか迷う

→苦手意識が働いて行動できない

→参加できなかったことにガッカリする

→問題の所在を判断できずにモヤモヤする

 

 

 

モヤモヤの要素(箇条書き) 

 

誘われなければ参加しようという気にならなかったこと。

聞き専OK、ツイキャスで参加者の様子が少しだけわかった、テキストとして元々読みかけだった『こころ』を扱う、など不安のハードルが徐々に下がったこと。

興味があることに参加できると思って楽しみにしていたこと。

読書に時間と労力が必要だったこと。

人と関わるのが好きなのに、うつ病と社交不安障害でコミュニケーションが苦手なこと。

Zoomの使い方がわからなくてインストールして使ってみて準備していたこと。

ツイキャスで興味がある旨を伝えたうえで、主催者にTwitterのリプライで参加の意思を伝えて、返事ももらっていたこと。

オンライン読書会の『こころ』の回のために作られたハッシュタグを付けてツイートしたこと。また、それを主催者がリツイートし、Togetter(トゥギャッター)にまとめたと@ツイートをしていたこと(通知が来た)。

参加の意思を伝えておいてあるのにスルーされてしまうなら、参加しなくてもいいという考えが頭の片隅にあって、こちらから念押しのDMをしなかったこと。

読書会『こころ』の回はひときわ盛況だったと後のツイートで見かけたこと。

主催者のブログで『こころ』の回が2~3回開かれるとされていたのに、1回で「終了してしまいました」とのこと。

主催者からのDMに「3/24のツイートを見つけて」とあったのが、実際は私の参加意思表示は単独のツイートではなく、主催者のツイートへのリプライで、そこに主催者からもリプライを返してくれていたこと。また、“見つけた”のは、主催者がたまたま目にしたりわざわざ探したりしたわけではなく、主催者のツイートと私のリプライを私が続けてリツイートしたため(主催者に通知が行った)。

 

 

 

伝わらない言葉

 

DMで私が「現在、当方は読書が容易ではないので、ご縁が無かったものとご了承ください」と返信した意図が伝わらなかったようで、「ご事情について踏み込むことはいたしませんが」「また、今後ともよろしくお願いいたします」と返信をもらいました。

「現在、当方は読書が容易ではない」とは、「うつ病で本が読みづらい」「たまたま途中まで読んでいた本を扱う読書会だったから参加できそうだった」という意味で遣った言葉です。

「ご縁が無かったものとご了承ください」は、「今後、指定された他の本を読んで参加することはできない」という意味で伝えたつもりでした。

 

私がうつ病だということはTwitterアカウントの名前にも書いています。主催者さんも精神疾患を抱えていて、以前は本が読めなかったという話をツイキャスでしていて、「私も読めません」とコメントしてやり取りしていたのですが、きっとそれも含めて忘れられてしまったのでしょう。

 

 

 

結果的によかったと思う

 

オンライン読書会には、毎回3~5人くらい参加していると、ツイキャスで言っていたと記憶しています。『こころ』の回が盛況だったとはいえ、例えば15人の参加者がいたからという理由で1人の存在を忘れてしまう主催者だったら、読書会も相応の内容だったのだろうと推し量っているのですが、これは私の心が納得しようとして卑屈になっているのでしょうか? 自分では、判断のつかないことです。

 

どちらにせよ、人の言動を真に受けやすい私は、早い段階で忘れてもらったことで傷が浅く済んだのだと思います。

それともう一つ、読書会に参加しなくてよかったと思う点は、私自身が何かの作品を読み解くとき、自分なりにある程度の期間をかけて考える人間なのだということです。自分の読み解き方がほとんどできていない状態で他の人の感想を聞いてしまうと、その考えに影響される可能性がありました。

 

もしかしたら、これらが意識に上らないまま、“行動しない”という選択に表れていたのかもしれません。

 

読書会に参加するなどの方法をとらなくても、夏目漱石の『こころ』の感想は、見聞きする機会は幾らでもあるとも思います。

 

自分のペースは、きっとゆっくりなのだろうと、今は思っています。

細かいことが気になる【元号ver.】

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新年度が始まりましたね。

先日、新しい元号の発表がありましたね。

 令和 だそうですね。

 

『令和』と発表されて、気になることが幾つか頭に浮かんできました。

 

 

とりあえず、書いてみました。

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まずは、「令」の字。

下がカタカナの「マ」みたいな文字でもいいのかどうか、というところです。

試しに「マ」っぽく書いてみます。

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……書きやすい! なんだか、バランスが取りやすいです。縦に長い棒を書くところが、なんとなく書きづらいのと、「今」や「マ」が書き慣れているから、ということだと思います。

 

 

「令」の文字には、横棒なのか点なのか悩ましい部分もあり、真っ直ぐ下ろしてきた縦棒の終わりが左に向かって跳ねるのか、それとも縦に払うのか止めるのか。いろいろと悩ましいです。

どうしてそんなことが気になるかというと、微妙に違う書き方をしたときに、それが “同じ漢字の違う書き方” という扱いになるのか、それとも “別の漢字” になってしまうのか、わからないからです。

この文字に関しては、どちらでも正しいらしく、小学校などでは「マ」のように書く方で教えるのだそうです。

 

 

 

次に気になったのは、アルファベットの頭文字です。

RなのかLなのか、Rだとしたら巻き舌風に発音するべきなのか、いや日本語だからローマ字表記にしたときの頭文字は発音に影響を与えないものか、などという取るに足らないことが頭をよぎってしまいました。

 

例えば「ノート」を平仮名で表記する場合、「のーと」ではなく「のうと」となるものです。理由は平仮名には伸ばし棒が存在しないからですが、表記が変わろうと、声に出すときの発音は変わりません。この場合、“「ノート」を平仮名表記に変換する”ということ自体が特殊な条件なわけです。

これを応用すれば、ローマ字変換したときにRで始まる名詞を発音するとき、それが駅名で英語でアナウンスする必要がある場合などでない限り、特に発音を意識する必要はないということになります。

 

 

 

そして家族の話を聞いていたら、テレビで新元号発表のニュースを扱っているときの画面上にずっと「年号」と表示されていたそうで、「元号」と「年号」の違いが気になりました。

「平成」や「令和」などを指すのが【元号】で、「平成31年」「令和元年」などが【年号】だと、いつからかなんとなく思い込んでいましたが、テレビのテロップに影響されて自信がなくなってきました。

検索してみると……「元号」も「年号」も似たような意味でつかわれるものの、【年号】は「西暦2019年」などにも使われる言葉で、平成から令和に変わるようなことを「改元」と呼ぶことなどから、『新元号発表』という場合には【元号】をつかうことが一般的なようです。

 

テレビのテロップ、一般的ではないというだけで、間違いだというわけではなかったようです。

「きっと新年度で就職や異動があって、今までテロップ作りをしていなかった人が新人として仕事をした結果、テレビ局内でも表現が統一されていないんだろうな。4月だなぁ」などと勝手な想像をして季節感を味わっていた私というものは、ちっぽけな存在だと思いました。

区切りを好む人々【新元号予想】

人というものは、区切りを付けたがるものだと感じる今日この頃です。

元号改正(改元)が明日に迫った今日、平成も残すところ一ヶ月となりました。

 

ここしばらくは、「平成最後」という言葉をメディアから受け取ることが多く、ニュースでは平成最後のお花見の様子を伝えていました。

実際は、元号が変わろうが変わるまいが、桜は季節に咲きます。逆にいえば、特に「〇〇最後」でなくても、今日のこの瞬間は二度と来ることはなく、いつ見た桜景色でも全く同じ光景を見ることは叶わないのです。

 

明日の11時30分頃に新元号発表予定だそうですが、明日は4月1日。エイプリルフールでもあります。

「【速報】新元号『〇〇』に決定」という、嘘と本当が入り混じったSNSの投稿が目に浮かびます。

 

 

区切りといえば、年末年始や誕生日などいろいろありますね。

今日で今年度も終わりです。

 

文化的な生活を送る人間の心理として、区切りを設けることで、その区切りまでに何かをしたいとか、新しい目標を立てたいとかの目安にしやすくなるものです。

例えば離婚調停中の夫婦は、年末に差し掛かると年内の決着を望むそうですし、年始には財布や歯ブラシを新しくする人は少なくないことでしょう。

ある時期に終末予言が流行ったりしたのも、こうした心理や、便乗したお祭り騒ぎをしたいなどの理由からなのかなと思います。

 

 

 

元号を予想

 

“新しい元号を予想する”というのも、ひとつのイベント的な娯楽でしょう。

マスコミは大々的に予想すると、それを受けて元号候補から外れてしまって、結果的に予想が外れるからか、インタビューやアンケートで収集した誰かの考えを伝える方法をとっているように見えます。

 

さて、個人的な元号の予想をしてみようと思います。

年末に清水寺で発表される『今年の漢字』で、今年は新元号に使われている漢字が選ばれることを予測して、「解」の字は入らないでほしいです。個人的な今年の漢字を「解」にしたいからです。これは予想というよりも希望ですね。

どちらにしても、割とどんな人でも書きやすい簡単な文字で構成された2文字になることでしょう。

 

「安心」や「安全」の「安」の字も、世の中的には好まれる文字だと思いますが、今回の改元で使われることはないでしょう。そう思う理由は、現在の総理大臣が安倍晋三氏だからです。きっと、元号を私物化している、なんて批判されてしまうでしょうから。

 

それから、過去の 明治・大正・昭和・平成 に使われた頭文字、M・T・S・H から始まらない音が選ばれることでしょう。

こうして今までの元号を並べてみると、2文字とも へん と つくり に分けられる元号の次に、2文字とも分けられない文字を使うという傾向でもあるのでしょうか?

 

 

というわけで、私的予想は【久真(きゅうま)】なんてところにしましょうか。

字面が大正っぽい感じで、さっきの傾向に当てはまっていない? 一見した読み方が「くま」っぽい?

 

では、【温丸(おんまる)】なんてどうでしょう。

響きが「おまる」っぽい? 「ぬくまる」の方がいい? 字面はいいかと思いきや、温暖化を連想させる?

 

ならば、【順泰(じゅんたい)】なんていうのはいかがでしょう?

……文字がゲシュタルト崩壊してきたので、この辺にしておきます。

 

 

 

なんて勝手な予想をしていられるもの、明日の発表の時までです。一度知ってしまうと、知らなかったときの自由な発想ができる思考に戻ることはできません。

こうして流れに乗って適当に楽しむ、というのも面白いですね。あとで読み返して、あてずっぽうな元号予想を展開していることに、うすら恥ずかしい気分になれるかと思うと、変わりゆくことの貴重さが少しわかる気がします。

 

 

そんなこんなで、3月も今日で終わり。

今年の4分の1が過ぎようとしています。

お正月の頃の自分が立てた、抱負や目標などを、見直してみるいい機会ですね。

絵のモデルは誰でしょう?①

ハマると寝食を忘れてそればかりになる 小柏まき です。

 

うつ病の状態が毎週1時間のドラマを見ていられるようになってから、連続ドラマを幾つか観るようになりました。そんな今期ももう終盤です。

 

 

 

この絵のモデルは誰でしょう?

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下の【】の中に白い文字で正解があります。

 

 

 

答え

北川景子

できることのムラの中で

反復性うつ病性障害、強迫性障害パニック障害・社交不安障害(未診断)の 小柏まき です。

 

今年は自立支援医療の更新に診断書が必要になる年だと記憶しているので、今の主治医に自分の状態を話して、診断してもらう必要があるのではないかと、少々悩んでいます。

 

以前の主治医による診断書には、「反復性うつ病性障害」と「強迫体験」などと記されていました。

というのも、私の中に「自分は具合が悪くなる個体だから仕方ない」という病識の無さや、「症状を話すのが恥ずかしい」という気持ちと、「社交不安障害と診断名がついたところで処方薬は変わらないだろう」という考えがあるからです。

 

 

しかしながら、生きづらい、不自由なことが多いことは悲しいものです。

 

 

先日、数年ぶりに かぎ針編み(クロッシェ)をしてみました。

幾つか編んでみたのですが、少し大きめのものを数日かけて編んでいたら、軽い腱鞘炎のような痛みが手首に出てしまいました。

 

今よりも元気だった頃には考えられないほど、身体も脳も、弱って力がない状態になってしまっています。

 

写真はレース編みのコースターです。

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このコースター、編み上がったと思ってアイロンの蒸気を当てようとアイロン台にピンでとめているときに、間違って編んでいたことに気がつきました。

やはり元気な時に比べると、頭がぼーっとしているのだと感じました。

 

間違いに途中で気付けば、沢山の糸を解くことになっても戻って編み直す、というのが私の元々の性格です。

なので、そもそも編み直さなくていいように、何度も何度も数えながら編み進めるというタイプでした。

この病気になって、完璧主義をやめて病気を治したいと考えるようになってから、完璧な物を作ることよりも、“楽しんでできること”を優先するようになったので、ちゃんと数えれば気付くはずの間違いに気づかないまま編み上げてしまいました。

これは意識的に矯正したことなので、この歪なコースターは、完璧主義から遠ざかることができたという、前進の証のようなものです。

 

 

できなくて不自由に感じたり孤独や悲しみを感じたりしていること、それらは、どうしようもなく存在している今の私なのです。

 

人にメッセージを手書きしようとしたら、ドラマの演技でもわざとらしくて笑ってしまうくらいに手が震えて、まったく思うように文字が書けないこと。

人と関わるのが好きでお喋りしたい気持ちとは裏腹に、言葉が出て来なくなってしまって思うように喋れないこと。

外に出て、お店に行って店員さんと話すことが楽しかったのが嘘のように、人と対峙すると立っていることも困難になることがあること。

オシャレを楽しむことが好きだったのに、恐怖を感じるほど太る副作用を持つ薬も、効き目を優先して選んでいること。

これらの全部が、内に秘めていても、こうしてブログに書いても、変わらない今の私なのです。

 

 

こうやって私は自分に、語り掛けるのです。

「自分そのままを受け入れてやれ」と。

過去の惨めさを受け入れる【愛着再形成(仮)】

近頃ふと、過去の自分の惨めさや悲しみや孤独を、それと感じずに過ごしてしまっていることに気がついた、小柏まき です。

 

 

 

今回の記事の概要

過去の自分が惨めな状況にあったということに自覚的になることで、自己肯定の基盤を作ることができるのではないか。自分に欠陥がある、自分が不甲斐ないせいでままならない、という認識を改めることになるのではないか、という仮説です。

 

 

 

今の持病を根治か寛解したい

反復性うつ病性障害の根底に発達障害を疑ってみたことがありますが、主治医に言わせると私は自閉傾向があるが障害とは呼べないとのことでした。

発達障害を疑う前には、愛着障害を疑っていました。なぜ反復性うつ病性障害のベースに他のものの存在を疑うかというと、根本にある原因がわかれば対処の方法があるかもしれないからです。「根こそぎ治してしまいたい」という考え方こそ、白か黒かハッキリさせようというような、うつ病になりやすい思考グセなのかもしれませんが……。

どちらにせよ、自分の性質を把握していくことで“自分を乗りこなすこと”がしやすくなるといいなと考えています。

 

 

感情を感じていなかった過去

少し前に、とある人の現状に対して、過去の自分と重ねて「羨ましい」という言葉が出てきました。

そこで「羨ましい」という言葉はネガティブなものだと指摘してくれる人が居ました。ところが、言葉を発した私自身にはネガティブな感情が一切ありませんでした。

その後も思い返しては、羨ましい気持ちは変わらないのになぜネガティブな感情が湧き上がってこないのか、考えていました。

そして、羨ましがっているのは誰かと考えたときに、それは現在の私ではなく過去の私なのだと考えました。

イメージとしては、現在の私の中に、過去の私が居て、正直な気持ちを伝えてきているのがそのまま口から出てしまったようでした。

では、過去の私以外の部分の現在の私は、そのことについて「羨ましい」と感じているのでしょうか? そうではないのだと思います。過去は過去、済んだこととして切り離して考えているのです。ネガティブな感情にならないのは、このためでした。

昔の私は、自分のことを惨めだとも孤独だとも感じていなかったんだと思います。すべて自分のせいで悪いことが起こって、周りの人たちに迷惑をかけていると思い込んでいたのでしょう。

 

 

解離を認めて愛着を形成し直す

その過去の自分を、今の自分が「惨めだった」「悲しかった」「孤独だった」と認めてあげることで、今の自分が過去の自分にとって愛着形成の対象(養育者)の役割をやっているのではないか、という仮説を立ててみました。

別の見方をすれば、これは、解離していたときの感情を改めて感じ直すようなことかもしれません。

考えてみれば私は、自我を形成するにあたって『自分を否定された経験』というものに心当たりがありません。これは、実際に他者から否定的な言葉や態度を向けられたことが無い、という意味ではありません。

他者からの否定的な言動は、私自身の力不足に起因するものであって、正当なものであると思い込んでいました。そのため、反発心を抱くことがなく『否定された』という認識を持てなかったのでしょう。

このことは、私自身の内側にすら自分の味方をする存在が居なかった、ということです。

私の自己肯定感の低さは、こうした思考によって築かれたのではないでしょうか。

 

 

コントロールするどころか正体がわからない感情

こうしてしばらくの期間、自分の内側について考えてみていました。

すると、ある日から突然、ツラい感情に支配されてしまいました。感情に飲み込まれて、わけもわからず泣いてばかりいるという日が続きました。泣いている理由を考えようとしても上手く整理がつかず、その感情がどう形容されるものなのかもわかりませんでした。

そうかと思うと、今まで心が動いていたことに関して心が動かなくなったりして、そもそも感情が有るのか無いのか自体もわからなくなってしまいました。

そんな状態を何日だか何週間だか経ると、気が済んだとでもいうように、元の心が動く状態に戻りました。

 

強い感情に飲み込まれているときには、その感情の正体がわからないものなのだと思いました。

「悲しい」「さみしい」「苦しい」「虚しい」「恥ずかしい」「もどかしい」

少し冷静に捉えられるようになってはじめて、その感情を形容することができるのでしょう。しかしながら、ひとつの言葉に収まらない場合は多く、織り交ざった感情や心の動きによって移り変わる感情を正確に捉えることは難しいものです。

 

 

忘れていた記憶

不快な気持ちを伴うことが健全だ、と思うような体験を、その体験ごと忘れてしまっていることがままあります。

特にきっかけがあったわけではなくても、ふと昔の出来事を思い出して、その出来事の存在自体を忘れていた自分に少し驚くようなことが、少し前にもありました。

その出来事に興味が無くて思い出さずにいただけなのか、本音では嫌な記憶だから意識に上らないようにしていたのか、自分でもわかりません。

 

 

 

これからも生きていくとしたら、ここ数週間のような、考えることと感じることを、きっと繰り返していくのでしょう。感じることを補うように、考えていくことでしょう。

きっとそうやって少しずつ、自分自身の内側を頑丈なものに、“人ひとり分の価値がある”と自分で認められる自分に、造り直していくのだと思います。本当に少しずつ。