考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

描いた絵3[紅葉のある道]

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紅葉のある道です。

2021年1月18日

 

使用したのは、透明水彩絵の具ウィンザーニュートンのコットマン12色セット+セピア単色。紙は、ヴィフアール細目のB5です。

 

紅葉の色とアスファルトの色を作ることにチャレンジしています。黒やグレーの絵の具は無いので、色を混ぜてみています。

四方をマスキングテープで貼って紙の波打ちを抑えようとしているにも関わらず、描いている途中で紙が反ってきてしまいました。

出来上がりが何となくパッとしない、しかし理由がよくわからないのでした。今になって考えれば、もっと保水力のある白い紙を使えば解消できそうです。

この辺りから、自分の描きたい水彩画に合う紙を探し始めました。

描いた絵2[海と太陽]

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海と太陽です。

2021年1月14日

 

透明水彩絵の具は、ウィンザーニュートンのコットマン固形水彩12色セットと、単色買いした同じくコットマンの固形水彩セピア。不透明水彩絵の具の白を単色買いして使っています。

紙は、ダイソーで100円商品のマルマンとのコラボスケッチブックです。

スケッチブックの周囲を太いマスキングテープで包むように貼り、紙の波打ちを抑えると同時に絵の周りに余白を取ってみました。

 

絵を描く動画をYouTubeで見ることにハマっていた時期のものです。この頃よく見ていたのが、外国語のガッシュ(不透明水彩)で風景を描く動画でした。

特定の風景を描き留めて絵として残したいというよりは、絵の具を使ってする作業をやりたいという動機で描いてみました。

描いた絵1[とある駐車場]

絵を描くことが日常の一部になった 小柏まき です。

昨年透明水彩絵の具を手に入れて、出来上がった絵を切り離すタイプの紙を使うようになってから、描いた絵をまとめでファイルに入れています。そのファイルに結構枚数が溜まってきました。せっかくなので、一つ一つの絵についての記録を兼ねて記事にしていこうと思います。

 

 

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とある駐車場です。

2021年1月12日

 

白は絵の具の色ではなく紙の色なので、塗り残すことで出しています。車の光っている部分などがそうです。

本当は雲をもっと白くしたかったのですが、画面上に一度乗せた青を吸い取ったり洗い出したりして白く(リフティング)するつもりが、あっという間に染み付いてしまって無理でした。

 

紙は、初めて水彩紙を使いました。ヴィファール パッド細目B5です。

右の辺の上部をプラスチックの目玉クリップで止めて、紙の波打ちを和らげています。

絵の具はウィンザーニュートンのコットマン固形水彩12色セットです。

粘土遊びに罪悪感を抱く自尊心

夜な夜なASMRを再生する 小柏まき です。

固形石鹸をカッターで削る動画から、形作られたモノを手で潰していくクレイクラッキング(clay cracking)動画に、中でもマニキュアのものから石膏のものへと好みが移ってきました。

マニアックではありますが、これらの共通項である[楽しむためだけのもの]という点に焦点を当ててみます。

 

 

石鹸をカッターで削る動画というのは、撮影者の両手を映して無言で石鹸を削っていくだけの動画です。石鹸の硬さや削る厚みや削り方によって、その音が違います。

石鹸を削る行為は、外出先で手を洗うとき用に小さくする目的から始まったのではないかと想像していますが、動画は気の向くままに削っていく感覚を楽しむものでした。

クレイクラッキングは、伸びる粘土で形作った物の表面をマニキュアあるいは石膏でコーティングし、よく乾かした物を手で潰したり割ったりするものです。

 

 

何気なく見ていたTwitterで、ACは砂遊びや粘土遊びをしましょうというような内容の言葉を見かけました。メンタルヘルス系の書物の引用だったと記憶しています。

私自身がACかどうかはさておき、私は幼少期には砂遊びや粘土遊びが好きだったと思いながら、今になってそれらの遊びをやろうとは思えない自分に気が付きました。

 

数年前からスクイーズやスライムが流行して、日常的に手に入りやすいオモチャとして定着したと認識していますが、そういった類の遊びはほとんどやってきませんでした。それは、感触や音や見た目を楽しむのみでなんだか勿体ない気がしてしまうからでした。

 

 

個人的な趣味として、遊ぶためだけに遊び、それに使ったオモチャは遠くない将来、数日か数十日のうちにゴミになる。それが先回りして罪悪感のようなものを伴って想像され、自分でやろうとは思わないのでした。

なので動画を再生することで、存分に心のままに楽しんでいそうな動画投稿主に感情移入して楽しんでいる節があることに、思い至りました。

 

自尊感情が低い故に、自分が一時楽しむためだけに物を消費することに勿体なさや罪悪感を覚えるのかもしれません。

 

自分を大切な誰かのように扱うとしたら、遊んで楽しかったオモチャをすぐに処分しても、遊びに使ったのだから勿体なくはないのかもしれません。

もっと言えば、遊んでみて思ったように楽しめなかったとしても、自分には合わない遊びだと知ることができたという意味で価値があるのかもしれません。

 

 

私は絵を描くことを日常的にしていますが、その目的の第一は【自分を楽しませるため】です。

もっと、自分を楽しませてあげるようにいたわり、自分に寄り添ってあげることが、病気や障害を持っている身には必要なのかもしれないと思ったのでした。

 

 

自立とは依存先を増やすことだと聞きます。

どちらかというと自閉的で、冒険することよりも安定を好み、独りでひとつのことに時間を掛けて取り組むタイプだという自覚を持っていても、自分を満足させる術のバリエーションを増やしたいのです。

これはリスクヘッジでもありますが、何よりも自分を知ることに繋がるとも思います。

現在の私は、[自分という人のことを案外知らないのだ]と感じる場面に出会うことが昔に比べて増えたのかもしれません。

誰かのことを信じ切って、自己犠牲も厭わない。自分の気持ちや考え、命さえも手放そうとしていた、今のうつ病の最初の頃の私に戻りたくないのです。

 

「35℃超えたからエアコンつけていいよ」と連絡をもらって有難がり電気代が掛かることに申し訳なさを感じながらスイッチを入れた

「歯軋りのせいで眠れなかった」と撮られた動画を見せられて反省してマウスピースを買ってくるまで眠らずに過ごした

“死にたい” と泣かれて「一緒に死のう」と言った

そういう私は、私の命を健康を大切に出来ていなかったと、今になってみれば思います。

 

 

 

そういえば子どもの頃、何かモヤモヤしたりむしゃくしゃしたりした感情を持て余していた時、「壊すためだけの玩具があればいいのに」と考えていたことを思い出しました。しかしその当時の私でも、一時のストレスをぶつけるしか用途のない玩具は勿体なく感じて、実際にあったとしてもお金を出して買わないだろうと思っていました。

気が引ける行動を無理に取ることはないとも思うので、クレイクラッキングのように壊すために作るような物ではなく、とりあえず気ままに手で触って遊ぶことをやってみたいという気持ちが出てきました。

 

というわけで、これも動画で見て気になっていた室内で砂遊び同様に遊べるキネティックサンドというものを買ってみました。

これは濡れた砂のように形作ることができるのに乾くことがなく、纏まるのに何度でもほぐせるらしいです。

自分を楽しませるためだけに遊ぶことができたらいいなと思います。

数カ月でわかってきた絵の具のこと

透明水彩絵の具を入手してから、今月で一年経った 小柏まき です。

がっつり不登校だったため中学校の美術の授業を受けたことすらないのですが、昨年8月に固形水彩12色セットを購入して触ってみ始め、試しに絵を描いてみるまでに数十日かかりました。

その後、暫く自分なりに絵を描いてみて、絵の具の扱い方・絵の描き方がわかってきたような気がします。

わかってきたような気がするというのは、自分がどういう風にわかっていなかったかに気づいた部分があるからです。

 

 

まず、セットで売られている絵の具のチョイスが解せませんでした。

ここには、三原色が入っていないことと、白が入っていることの2つの要素がありました。

 

 

どうして三原色のシアン・マゼンタ・イエローという絵の具が入っていないのかと、なんだか不思議に感じていました。絵の具のブランドHPなどを見ても、単純な「シアン」などの絵の具がラインナップされていないことが何故なのかとわかりませんでした。

一色の色にもカタカナで長い名前が付いていて、ちんぷんかんぷんでした。

しかし調べていくうちに、その長い名前には意味があるのだと少しずつ知りました。そして、それはその絵の具が何から出来ているかを示していたりするのだとわかってきたのでした。

 

そもそも、私の絵の具に対する概念自体が間違っていたのです。

絵の具も元をたどれば自然の植物や動物や鉱物なのです。

頭では知っているつもりでした……。企画展で見たフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』のターバンの青は、ラピスラズリを粉状にしたもので色を出していることも。草木染を体験したことがあるのだから、布を染色するのに植物を使うことがあるのも。数年前までアイシャドウの黄色い粉はパサついたものしかなかったのに、近年ではテクスチャーと発色が進歩していることも。

絵の具だって、何もないところからヒトの手で生み出されているわけじゃなくて、既に存在している物質の一部を使ったり加工したりしているのだということ。それがやっと感覚的に理解できたのでした。

 

三原色の絵の具があればいいのにと簡単に考えていましたが、たまたま三原色のうちの一つの色をした物質が採れなければ、有る物質を合わせてどうにか作らない限り存在しないわけです。

そして自分の考え方がどうしてこう安直になってしまったのかと考えてみると、3年ほど前にスマホを手にしてからデジタルで絵を描くことが多かった影響なのかもしれません。

 

 

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ひとつだけ開封してもらえない白……

 

それから、透明水彩絵の具の白の存在。

水彩絵の具に[透明水彩]と[不透明水彩]があることを知ってから、得る情報のどれもが透明水彩では白を表したいときに紙の色を活かすというものでした。

白いところは何も塗らずに塗り残す、だとしたら白みのある色を作るときに混ぜる必要もないのではないかと思いました。つまりピンク色にしたいところには、赤と白を混ぜて塗るのではなく、赤を水で薄く溶いて塗ればいいではないかと。

いよいよ12色セットに入っている白の存在価値がわからなくなりました。

 

絵の具の話題を扱っている記事を読み、動画を観て、知っていそうな人に質問を投げかけたりもしました。

白は白でも透明感ではなく重厚感が欲しいときに塗るという人もいました。広い面をベタ塗りするときに混ぜて均一にするという話もありました。

 

重厚感が欲しい場合、例えば白い陶器の花瓶を描くとき、白い紙の上に透明水彩の白を塗っても見た目に変化を期待するのは難しいと感じました。白い陶器を透明水彩で表現するときには、その白が青みか黄みか或いは赤みか見極めてそういう色を薄く塗るのがいいと思います。白をこってり塗りたいときには、不透明水彩の白の方が下地を覆い隠す力が強いので向いていると考えるからです。

 

それから、広い面をベタ塗りするという場面が、透明水彩で描きたいときにあるのかどうかよくわかりませんでした。

今になって思えば「ベタ塗り」という言葉から、完全に均一な塗りを思い浮かべてしまったからイメージが湧かなかったのでしょう。例えば薄い色の青空を描くのに、私は青い絵の具を水で薄く溶いて塗っていました。シャバシャバした色みず状のものは扱いづらく、水分が蒸発してくれば即座に濃く発色してしまいます。そういう場合に白い絵の具を混ぜることで水っぽさを控えて色をコントロールすることができるだろうということが、絵を描いていくことでわかってきました。

 

今の私が、透明水彩絵の具を手に取りたての頃の私に、白の用途について助言するとしたら「透明水彩の白は彩度を下げるためにある」と言うでしょう。他の色と混ぜたり、他の色を塗った上に重ねたりすることで、他の色の鮮やかさを抑える役割があるのだと思います。

白い絵の具は白い物のためではなく、他の色をほんのり変えるためにあったのだと今は思っています。

「生きづらい」という言葉

近頃は健忘が酷くて、色々なことが覚えていられない 小柏まき です。

ちょっとこんなことを書いて語弊がないか迷ったのですが、考え方を変える要素として記しておこうと思います。

記憶が正確ではなくて内容が間違っていたら申し訳ないですが、ここに書きたいのはテレビ番組の内容ではなく、そこに寄せられた意見に対しての感想です。

 

 

先日、生放送のテレビで、【夫や妻をどう呼ぶか】という話題を扱っていました。私はその番組を見ていたわけではなく、居間で他の家族が観ているのをたまたまそこに居合わせて聞きかじったのでした。

そのテレビ番組では、「“奥さん” “嫁” と自分の妻を呼ぶのは変だ」というような意見を言っている出演者が多かったようでした。

 

私の個人的な感覚では、“奥さん” と呼ぶと、自分の妻ではなく他の誰かの妻のことを指しているみたいで変だと感じます。“嫁” と呼ぶと、自分の妻ではなく自分の息子(或いは兄弟)の妻のようで変な感じがします。ですが、言葉とは伝わることが大切なので、拘りを他者にまで強要することはないとも思います。

 

 

この番組の最後の方に視聴者からのメールが読まれました。

話題について、総意のように扱われた意見とは違う意見を持っている人が、「自分の意見を否定されているようで生きづらさを感じます」とメールを送ったそうなのです。

スタジオで話している人達でまるで一つの答えを出したような流れになっていたところ、違う意見の人が居るのだということを知ることができ、また視聴者からのメールが生放送時間内に読まれたことに番組作りの誠実さを感じました。

 

さて、私がここで少しの衝撃を受けたのは……生きづらい” ってこれくらい日常的に使っていい言葉だったんだ! というところでした。

いや、もしかしたらメールした視聴者は、テレビ番組で自分と違う意見がまるで正しいことのように扱われるのを常々苦にしていて、酷い苦痛を抱えているのかもしれません。私自身の想像が及ばないことや、それに苦しむ人が居るであろうことは充分考えられます。

私が感じた衝撃の根本は、「生きづらい」と人に伝えてある程度の理解を求めたっていいのだということと、「生きづらい」と感じて言葉にしていいんだという、一種の許しでした。

どうして私は、「生きづらい」と思ってはいけないような思考に陥っていたのか……。どうして自分は甘えていると、どこかで思い込んだままなのか……。

 

誰かが誰かを、意図せずとも苦しい気持ちにさせることはあります。

それが当たり前なのだから自分と違う意見の人が幅を利かせていたって仕方ない、嫌だったら距離を取ればいいと、私は意見を伝える権利を自分自身に認めていなかったのかもしれません。それどころかネガティブな感情を悪いものとして、伝えてはいけないのみならず、その元となる意見を意見として持つことすらいけないことだと、と囚われていたような気がしました。

無意識に自分の気持ちを閉じ込めていたのではないかということに、無意識が故に気が付いていなかったのです。

 

 

誰かの言葉に触れることは、真っ直ぐだと思い込んでいた自分の中だけの常識が歪んでいることを知るきっかけをくれるものです。

精神疾患患者には認知の歪みがあることが多いといいますが、こういった誰かの言葉から受け取る気付きを自分のものにして思考グセを矯正することを、これからも地道にやっていこうと思います。

水彩で人物画②(逃げ恥の感想も)

描いた絵を載せていこうと思いつつ、なかなかブログに手が伸びない 小柏まき です。

 

今年の初めに、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』のスペシャル番組がありました。連続ドラマが放送されていたのは2016年らしいですが、私も毎週楽しみに観ていました。

スペシャル ドラマに先駆けて、昨年末に連続ドラマが一挙に再放送されましたが、やはりそれも楽しく観ました。このドラマの何が面白いかというと、恋愛を通じて自尊感情の低さと向き合い、一般的ではなさそうな工夫をしながら、人との関係や自分の在り方を考えていくというところでした。自分自身の嫌いな面も、寄り添って受け入れてくれる人が居ることの素敵さが表現されています。

 

そんなわけで、昨年末に人物側描いてみようと思って浮かんだモデルがガッキー(新垣結衣さん)でした。


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下描きの時点では難しさを感じていましたが、以前に描いた戸田恵梨香さんの絵に続き、個人的に満足のいく出来でした。

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新垣結衣さん

 

水彩絵の具はウィンザーニュートンのコットマン。紙はダイソーで買ったマルマンとのコラボ スケッチブックです。

 

先日発表された新垣結衣さんと星野源さんの【逃げ恥婚】、お似合いの二人にドラマ視聴者として嬉しくなりました。ご結婚おめでとうございます。