考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

合理的配慮による多数派の損の感覚(食物アレルギー【体験談】)

多様性を認める世の中の構成員になりたいという気持ちを持つようになって、その難しさに気付く機会に出会うことがたまにあります。“合理的配慮” という言葉を見ることも日常の中であります。

先日、X(旧Twitter)で見かけた 加藤路瑛@感覚過敏研究所 さんの発言を目にしました。

合理的配慮にしろあらゆる支援制度は、自分に無関係な部分で行われる分には「良きもの」であり、自分に不利益が出たら「否なもの」になるのかもしれない。

https://x.com/crystalroad2006/status/1784891375479075110

感覚過敏で学生服のワイシャツが苦手で学校に行くのがつらい人がいます。不登校になるケースもあります。感覚過敏の学生のためのワイシャツがあるよと伝えれば、きっと多分誰もが「そういう合理的配慮は大切だね」と言ってくれるはず。

相手が自分と似たような白いワイシャツを着る分には全く問題ない。しかし、これがちょっとオシャレな色付きだったりすると、「いいな。私もそれがいい」となる。

ここに芽生える感情は素直なものだけれど、この感情の根源は何なのでしょう?

https://x.com/crystalroad2006/status/1784933886356750488

 

小学2年生の頃、私は一時期 食物アレルギーでした。牛乳と卵の過剰摂取がきっかけだったようで、口にする物を徹底して管理した結果しばらくして一般的な食事が取れるようになりました。

当時は母が、なるべくその日の給食の献立に近い内容でアレルゲンを除いたお弁当を毎日作ってくれていました。牛乳は豆乳に、制限の多い魚類は許可されていた鮭に、栄養が偏り過ぎないようにしてくれていたのと、クラスの皆んなが給食を食べている中でまったく違うメニューを一人で食べる私の気持ちを考えてくれていたのだと思います。

 

給食の時間、準備をして皆んなと同じ物を同じ器で食べるという行為は私から見れば望んでも叶わないことでした。その一方でクラスメイトから見れば、一人だけお弁当を持参して包みを開けて給食の準備の間待っているだけの私は特別に見えたことでしょう。

給食で出るミニトマトは1人2個くらいで、私のお弁当には沢山のミニトマトが入っていました。

「いいな、1個ちょうだい」と言った近くの席の子に「いいよ」と言って1つあげてしまったら、「私も」と続く子を断ることができませんでした。断れば「ズルい」と言われると想像したのは、断られて即座にこちらの状況を理解して引き下がるような想像力がある子はそもそも「ちょうだい」と言ってこないと思ったから……だったような気がしていますが、単純にどう断ればいいのかわからなかった気もします。

私からすれば食べられるものが制限されない人のほうがよっぽど羨ましかったのですが、図々しくお願いしてくるクラスメイトに理解してもらうために説明したり断ったりすることの面倒臭さのほうが、自分の食べる分を確保することよりも大きくてどうでも良くなってしまいました。

そういう自分の居る小さな世界が、集団心理を原動力にして自分の頭で考えて決めることを避けて通る人が、嫌いでした。

 

今の時代ならアレルギー用の学校給食も提供されるようになったりしていて、食物アレルギーの児童生徒を個別の特例として扱わずカテゴライズすることで一定の配慮ができるのだと思います。

しかしながら合理的配慮の難しいところは、カテゴライズして一律の条件で一定の配慮が受けられる場合ばかりではないという点なのではないでしょうか。「この人はこういう人だから、ここまでの配慮をしよう」という個別の柔軟性を持たせることが、グレーゾーンで苦しむ人を減らすのだと考えています。

多様性を認めるということは、グレーはそのグレーの加減に合わせて配慮される権利を持つことかもしれません。

そして難しさのもう一つの要因は、配慮や支援する側もそれぞれ別の人間だということです。誰かのプラスになりたい気持ちを持つことは容易でも、自分のマイナスになることをしたいとはなかなか思わないものです。

 

もちろん私自身も、常に配慮される側であるとか、配慮・支援する側であるとかのどちらか一方ではないので、両方の側から考えたいです。