ハードモードとイージーモード・うつ病治療と社交不安障害
うつ病を治すには、認知の歪みを直す必要がある場合があります。
個人的に、うつ病を治すために受け取り方や考えグセを変えようと、気長で少しずつの訓練をしてきたつもりです。
うつ病になる人は、完璧主義で真面目な人が多いと言われています。
これの厄介なところが、自分が完璧主義で真面目であるという自覚がないということです。
「これくらい最低限だろう」と感じることのハードルが、うつ病にならない人に比べて高すぎるので、必要以上の努力をし、必要以上の不甲斐なさを感じてしまうようです。
この考えグセを変えていく例えとして、「人生がイージーモードのつもりで生きてきたのに、間違って最初にハードモードに設定してしまっていた。では本当のイージーモードを見つけ、今までやってきたハードモードの設定を本当のイージーモードに変更しよう。」という捉え方があると思います。
私は、うつ病になって寛解しては、またうつ病になる、という反復性うつ病性障害です。
繰り返す うつ病の根っこには、何か別のものがあるのではないかと考えて、ここ数年は愛着障害や発達障害について 書籍や論文を読む・研究者や当事者の話を聞く・当事者との関りを持つ などをしてきました。根底にあるものがハッキリわかれば、対処法がわかるのではないかと期待していましたが、新しい対処法を見つけるには至りませんでした。
私のうつ病の根底にあったのは、社交不安障害・強迫性障害・恐怖症などの不安障害に分類されるものでした。
効くとされる薬はうつ病治療のために既に処方されており、症状を軽くするために出来ることは今までやってきたことと全く変わらないことでした。
このことで数カ月間気分が沈んでいたのは、おそらく、新しい対処法の発見に至らなかっただけの理由ではないのだと、段々わかってきました。
以前にもブログ記事に書いた「選んで決めてきた人生だと思っていたのが、選択肢が無いために仕方なく普通の道を歩んで来られなかった人生だった。」という気づきの他に、“同士が見つけにくい” というのがあります。
うつ病は患者の人数が多いこともあって、同じ病気を抱えた人と関わることは、インターネットを介すれば比較的難しくない時代であると思います。実際に私も、SNSで同じように闘病している人と関わらせてもらって、自分一人では自覚できなかった症状も「これも うつ病の症状だったんだ。私だけのことじゃないんだ。」と知れたことが多くありました。それから、 症状や環境が違えど、同じ疾患の人が同じ時間を生きているという心強さがありました。
ところが、うつ病と比べて社交不安障害の人は、患者人口自体が少ないだけでなく、昔の翻訳の仕方で「社会不安障害」という名前で診断されていたりするのと、「対人恐怖症」や「会食恐怖」「書痙」などと症状でくくった表現があることで 、似た症状で悩む人がひとつの言葉で繋がることを難しくさせていると思います。
また、診断されること自体にハードルがあるのが事実です。
パニック障害に当てはまる症状があることから、診断される前の私のように「これはパニック発作なのかな? 」となんとなく思っている程度で診断されない人もいるでしょう。社交不安障害でパニック障害の一部の症状が出ることを、知らないのです。
医師も人間であり、問診もコミュニケーションです。医師に相談する、ということ自体が恥ずかしくて抵抗があります。
診断されたところで、精神科的治療と自身の努力でどうにかして生きていくしか、方法がありません。
この感覚が、うつ病単体の患者と(うつ病と強迫性障害くらいしか自覚がなかった頃の自分と)、まったく異なる部分です。社交不安障害の人生には、イージーモードは存在しないということを、じわじわと身をもって知っていくのです。
私のこの数カ月は、この期間だったわけです。
利用できる制度は使って少しでも楽に生活できたらな、という気持ちとは裏腹に、自立支援医療の更新手続き用の診断書には、うつ病の病歴が簡素に記されているだけで、障害者手帳を申請することは想定されていませんでした。
私が話しにくい話を主治医にして適切な診断を受けたいと思ったきっかけである、診断書を書いてもらう機会には、間に合わなかったようでした。仕事が早い主治医で、このタイミングで診断されれば診断書に加味されるだろうという私の行動より先に、診断書は用意されていたようでした。
改めて障害者手帳用の診断書を要望すれば、書いてくれるのかもしれません。しかしそれは勿論、別途診断書料が実費で必要になります。
仮にそこまでして手帳を持ったところで、障害者枠での雇用を目指した就職活動ができる状態でもありません。私は障害者になりたいのでしょうか? 手帳の有無で、何が変わるのでしょうか……?
薬についてですが、主治医は薬を減らす方向での話が多く、よく言われたのが「薬が多い」でした。減薬チャレンジして処方量が減ったものの、薬の種類は相変わらず、毎日飲む6種類と頓服の痛み止め1種類の計7種類です。
長時間の外出のときには、大抵具合が悪くなります。頭痛や気持ち悪さ、暑いと寒いが同時にある感覚、息苦しさがあります。その日のうちにその症状がなくなることが経験上わかっているので、「いつものこと」と我慢して、痛み止めを飲むくらいしかできません。
例えば、頓服として抗不安薬があれば、もっと楽に過ごせるのでしょうか?
いろいろなことが、よくわかりません。これは、「自分で選んで決めてきた」と思い込んでいた人生が、選択肢が一般的な人よりも少ないだけだったとわかったことで、自分の気持ちや意思が、以前にも増してよくわからなくなっているのかもしれません。
【販売開始‼︎】スマホ歴1年未満でLINEスタンプを作れました
申請から24時間かからずに、LINEスタンプの審査を通過して動揺した 小柏まき です。
LINEクリエイターズ スタンプというサービスが開始した頃には、申請が相次いで、審査結果が知らされるまでに数ヶ月〜半年ほどかかっていたそうですが、近頃は5日くらいで通知が来ると何かで見ていました。
夜寝る前に申請して、翌日の夕方には承認の通知が来ました。
想像以上に審査が早くてちょっとソワソワしてしまって、「心の準備ができてから販売しよう」と思いました。
数時間して落ち着いてきたので、“リリース” をそっと押して販売を開始しました。
タイトル:生首彼女
クリエイター名:やみノ巻
スタンプ説明文:首と手からなる彼女が日常に寄り添います。
[生首彼女]
https://line.me/S/sticker/8535035?lang=ja&ref=gnsh_stickerDetail
日常で使いたい16個のスタンプです。
タイトルは『生首彼女(なまくびかのじょ)』です。
実は審査を通過するかどうかで気になっていたのが、タイトルでした。「生首」なんて縁起でもない名前で大丈夫だろうかと。問題ありませんでした。
クリエイター名は、どうせだったら変な名前にしたいという出来心で、平仮名とカタカナと漢字を使って『やみノ巻』にしました。
昨年の今頃、私はスマートフォンを持っていませんでした。元々機械に詳しいわけでもなく、うつ病もあって頭の働きの鈍りを感じることも多々ありました。
今回のスタンプ作りも、わからないことだらけでした。
「作るのに、どれくらいかかったんですか?」と訊いてくれた方がいました。自分がいつからスタンプ用の絵を描いていたのか、覚えていませんでした。
見返してみると、6月27日に最初の絵を描いていました。1ヶ月くらいかけて、思いついた使いたいスタンプの絵を、描きたいように描いていたのでした。いつまでにスタンプを販売する! などの目標は設定せず、今楽しいことを続けてきました。
病気をよくしたいというのを優先して、今まで考え方を変える訓練を少しずつしてきました。<自分に課す>ことをしないようにしていたので、新しいことや何か形になることが出来るとは思っていませんでした。
これを機に、自分を褒める練習をしてもいいのかなと、今は思い始めました。
そして、SNSで関わってくれる方たちが、「LINEスタンプを作ってます」と発言した私に、「いいですね」「買います!」「応援しますよ」「頑張ってください」「完成楽しみです」と言ってくれたことが凄く嬉しかったです。
実際に買ってくれるかどうかとか、審査に通って販売できるかどうかとか、スタンプが完成するかどうかすら、この嬉しさには関係ありませんでした。こういう言葉をかけてくれる気持ちを持った人と関わることができて、本当に有難いなと思います。
スマホ歴1年未満でLINEスタンプを作ろうと試みています
「しっくりくるLINEスタンプを使いたいから、自作しようかな!」
という動機で、スタンプを作り始めた 小柏まき です。
Twitterで「LINEスタンプ作りました」っていう人を見ることがあるし、きっと私のような時代に取り残されている人間にもスタンプ製作ができる機構が存在することだろうと、自分で使いたいスタンプ用の絵を描くことを始めました。
まず、私がLINEスタンプについて知っていたことは、何個かずつのセットであろうこと。そして、申請して審査を通過したものしか使えないこと。でした。
目次
パケージできる個数
LINEスタンプは最低8個組で、16個、24個、32個、40個という単位でパッケージできるようになっています。
8個じゃあ少ないと思った私は、16個を目指すことにしました。
どんな種類のスタンプが好ましいか
一般的にどんな種類を持ったスタンプが使いやすいとされているのか、幾つかの絵を描き進める合間に検索してみました。
検索エンジンで「LINEスタンプ 作り方」と調べると、「売れるLINEスタンプの特徴」「自作のLINEスタンプなら『LINE Creators Studio』」など、ブログやアプリがヒットしました。
他の人に気に入られるよりも、自分で使いやすいものを作りたいと思いつつも、どうせなら一般的にも使いやすいとされている種類があったほうが便利なんじゃないかと考えて、幾つかのブログを参考に種類を考えてみることにしました。
『LINE Creators Studio』(アプリ)の特徴
LINEスタンプ作成用に、LINEが提供しているアプリが『Creators Studio(クリエイターズ スタジオ)』です。
撮った写真を加工するなど、スマホでのスタンプ作りから申請までできるそうなので、他のお絵描きツールなどを持っていない場合は、このアプリひとつで手軽に済むのが魅力でしょうか。
『Creators Studio』については、「自分で作ったスタンプを120円で買わなきゃいけない」などの口コミも目に付きますが、どうやらこれらは過去のもので、現在では価格のシステムが改定されたようです。
公式の説明文には「2019年6月26日以降にCreators Studioで審査リクエストしたスタンプは売上の分配額が0円になります。」「2019年6月26日以降にCreators Studioで審査リクエストしたスタンプはクリエイター本人に限り無料でダウンロードすることができます。」とあります。
つまり、以前は販売したスタンプの製作者(クリエイター)にも売り上げの分配があったのが、現在は売り上げの分配がない代わりに製作者(クリエイター)本人は無料でスタンプが使える、ということみたいです。
アプリ自体も無料なので、手軽に撮った写真を加工して自分で使いたいという希望に応えるサービスだと思います。
上記のアプリを使わずにスタンプを作る場合、『LINE Creators Market』というwebサイトから、申請する必要があります。
LINE Creators Market
『LINE Creators Market(クリエイターズ マーケット)』のwebページにアクセスします。ここでは、LINEアカウントでログインして、クリエイター登録をします。
ガイドラインに従って、スタンプや絵文字をアップロードできます。
元々持っているスマホ アプリやパソコン ソフトで絵を描く場合は、こちらのほうが新しくアプリをインストールしなくて済むのでスムーズかなと思い、私はCreators Marketに登録しました。
そして、Creators Studioのアプリを使うのと最も異なる点が、売上金の分配があることだと思います。ほとんどの場合は儲かるようなものではないでしょうが、数円でも収益が発生すると嬉しい……正確に表現するならば、搾取される感じを覚えなくて済みそうだと考えました。
しかし売上金の分配があるということは、銀行口座の登録が必要ということなので、どちらが手間だと感じるかは人によりそうです。
スタンプ用の絵がトーク画面でどう表示されるか、シミュレーターでテストしてみることもできます。
こんな風に、背景色を変えてみて使っている色との差があるかどうかを見ることができます。
スタンプ画像をタップして表示させるので、実際に使うときを想像しやすく、スタンプの並び方を考えるのにも便利です。
「そろそろ出来上がりでいいかな」という気がしてきたので、申請してみようと思います。
【暗】社交不安障害の人生をどうやって生きればいいのか
社交不安障害と診断されて、3ヵ月が過ぎた今日この頃。
気持ちの整理がつかないままの 小柏まき です。
診断されたらスッキリするんじゃないかと考えていたのですが、実際に診断されてみると腑に落ちる部分はあったものの、自分が “幼い頃から障害を抱えて生きてきたんだな” という実感がだんだんと湧いてきて、気分が落ち込んでいきました。
私は小学校4年生の頃から学校にいけなくなり、それから中学校を卒業するまで不登校でした。
それは自分に学校があっていないんだ、学校の教育があっていないんじゃないか、それを自分で判断して学校に行かないことを選んでいる、自分で選択してきた選んで決めてきたと思っていました。
しかし障害だと診断されたことで、当時の自律神経失調症の原因は社交不安障害による過度のストレスだったと考えることができます。
自分に合った選択肢を選んで歩んできた人生だから、自分の人生に責任を持ちたいと、ずっと思ってきました。
でも、本当は他に選択肢があるなら選びたくなかった、別の選択肢を選びたかったのに選ぶ余地がなかった、自分には選択肢が与えられていなかった、ということに気がついたのです。自分が好きで選んできた人生だから自分で責任を持てると思っていたのが、好きで選んでいるわけではなかったようです。
労働に見合わない報酬だったとき、その労働自体にやりがいがあると思い込むという心理があります。その労働自体にやりがいがある・楽しみがある、という風に自分に言い聞かせないと、それをする自分が受け入れられないからだそうです。
私は、元気な体があれば、自分に力があって普通のことが普通にできたなら、きっと学校に行っていた。たぶん学校が好きなタイプだったことでしょう。
そのことに気がついたときに、そうやって障害が原因で避けてきた選択肢、選べなかった人生が “本当に送りたい人生” だったんじゃないかと思って、「私は障害のせいでやりたいことができていなかったんだ」「障害が無い人が羨ましい」「普通に学校に行けてた人が羨ましいな」と思ってしまったのです。
大学生の頃に、ショーのステージに立つ機会が与えられたことがありました。
私は、人前に立つことが怖くて仕方なくて、それでも人前に立ちたくない理由がよくわからなくて、結局ショーのステージには立たずに、裏方としてそのイベントに参加する方法を特例的に取らせてもらいました。
もし〇〇だったら、もし〇〇でなかったら、そんなことは実際には存在しないと言うことはよくわかっているつもりです。でも自由に生きてこられなかったんだと身に染みて感じたときに、どうしても「もし障害を持っていなかったら……」というのを考えてしまうのです。
重いうつ病を繰り返す『反復性うつ病性障害』の根底にあったもののひとつは、社交不安障害でした。
そしてこれから先も、この極度の緊張や恐怖と付き合って生きていくしかないのだと思うと、原因がわかっても苦しみを取り除くことはできないのだという現実に、じんわりと身体の何割かが沼地に沈んでいるような絶望感を覚えます。
マイノリティが形成する社会もまたマイノリティを生む
社交不安障害、強迫性障害、反復性うつ病性障害の 小柏まき です。
私は今、同じように精神疾患を抱えていたり、マイノリティに属している人と、SNSで関わりを持つことができる環境に恵まれています。
しかしながら、同じカテゴリーに属していても、人は誰も自分以外を体験することはできません。
そういう意味で、他者を完全に理解することはできません。
どんな条件の少数派であれ、寄り集まれば小さな社会が形成されます。
3人以上集まることで平均値がつくり出され、“普通” が作られて、その平均値からの差が大きい人が必然的にそのコミュニティの中で “一般的でない” という位置に存在することになってしまうのです。
例えば、身長が180cmの人、170cmの人、163cmの人が、Aというコミュニティを形成していたとします。この3人の平均身長は171cmです。この中では、170cmの人がもっとも平均的で、163cmの人がもっとも平均的でない、ということになります。しかし、この3人の平均身長である171cmの人はこの中に1人も居ません。また、広い世の中を見渡せば、 163cmの人もごく普通にたくさん居ます。
試しに、日本の成人女性というカテゴリーの平均身長と照らせば、Aコミュニティでは “普通” からもっとも遠かった163cmの人が、もっとも “普通” に近い存在でしょう。
こうして3人以上の人間が集まれば、おのずと平均的な人と、平均的でない人が生まれてしまいます。
メンタルクリニックに通っているという同じ境遇にある人同士が集まっても、抱えている疾患はそれぞれ違い、それぞれに悩みや困り事があるものです。
世の中的なマイノリティだからという理由で集まった人たちが、必ずしも共感し合えるとは限らないのです。
世の中で少数派として孤独感・疎外感を感じている人間が、同じカテゴリーに属する人と悩みの一端を共有すると、親近感が湧いて心と心の距離が近く感じるものです。
なかなか他者と共有することができない気持ちを共有できる人が見つかったとき、心と心の距離感を実際以上に近く感じてしまう傾向が、どうやら私にはあるようです。
そして、マイノリティに属さない人よりも、同じカテゴリーに属する人のほうが自分の気持ちを汲み取ってくれるのではないか、というような過剰な期待をしてしまうのです。
しかしそれは自分勝手な期待なので、思っている通りにはならないのが当たり前です。その当然の結果に、勝手に気持ちを裏切られたような感情を抱いてしまうことがあります。
心を相手の近くに置いている分、傷ついたと感じたときの傷が深くなってしまいます。
お互いの顔を見て声を聞きながら取るコミュニケーションに対して、SNSは一見すると間接的な関わりであるように見えて、外見や 話すきっかけや その場での体裁など の外壁を取り払って、ある程度の範囲の不特定多数に本音を晒すことが可能です。
“程よい距離感” というのは、個々のケースによるところが大きいでしょうが、負担が少なくなく楽しめるように上手く乗りこなしていきたいものです。
車に轢かれそうになって自転車ごと転んだのを引きずっている話
数日前、自転車で片道30~40分の場所に、久しぶりに出掛けました。
家族のお使い兼、外出のリハビリと有酸素運動を目的として、自転車で出掛けることがありますが、梅雨の時期ということで近頃は機会が減っていました。
目的の用事を済ませて、あとは家に出帰るだけになった、まだ夕方前の帰り道、信号待ちをしていました。
信号が青に変わって、よっこいしょと漕ぎ出したとき、気づくと目の前には横断歩道を横切る車のボディが迫っていました。
私は慌ててブレーキを掛けましたが、動揺していたためか体制を崩していて、右手だけ強く握ってしまいました。右手のブレーキは前輪と繋がっていて、しまったと思ったときにはもう体が前に崩れていきそうでした。
しかし、前に転ぶというのは危ないことです。前に向かって転倒すると、神経が集まった顔を傷める危険性があります。また、体を支えるために手をつくのも怪我の危険があります。
腕の力よりも脚の力のほうが強いことから、転ぶときには後ろに転んでお尻のほっぺたで着地する。このときに尾てい骨を打たないようにする。後頭部を打たないようにする。ということが頭によぎりました。
反射的に私は重心を後ろに持っていくようにして、お尻から着地しました。幸い、転んだ場所は平らで何もない歩道で、後ろから来る歩行者や自転車も居ませんでした。
転んだ私の上には、ほぼ同時に自転車が倒れかかってきました。お尻と片手を地面について、自転車をキャッチして顔を上げたときには、もう先程の車は見当たりませんでした。
斜め掛けバッグから転がり出た飲みかけのペットボトルを自転車のカゴに入れ、信号が変わる前に周りを確認しながら渡り、安全運転で帰宅しました。
打ったお尻と自転車が当たったであろう膝に痛みを感じ、頭痛と動悸を感じながら、帰宅して一息ついてみると、地面についたほうの手がガタガタ震えて力が入らない状態でした。
ショックだったのだと、パニックだったのだと、気がつきました。
元々、外出先で視覚・聴覚情報が多くストレスがかかった状態だったので、既に頭にモヤモヤした気持ち悪さを感じてはいたのです。しかしこれは外出時には頻繁に起こることなので、いつものようにそのうち治るだろうと高を括っていたのです。
それから1日2日は、頭痛と吐き気と眩暈で、頓服の痛み止めを飲んで気を紛らせつつ、寝込むような形で過ごすこととなったのでした。
そんなこんなで日付の感覚も曜日の感覚もなくなっていた金曜日の夜、就寝前に飲む処方薬が足りない事実に直面して、やっとその日が通院の予約をしていた日だったことに思い至ったのでした……。
仕方がないので、その日は足りない薬を飲んで眠りました。翌朝メンタルクリニックに連絡して、予約をすっぽかしたお詫びを言い、その日に診察の予定を無理を言ってお願いして、どうにか診てもらい薬を処方してもらって事なきを得ました。
土曜日のクリニックは午前中しかやっていないこともあって、患者さんで混み合っていました。12時までの営業時間にも関わらず、私が診察室に呼ばれたのが12時15分を過ぎた頃で、それでも私のあとに何人もが待合室に居ました。
医師や医療事務さんたち、薬局の薬剤師さんたちも、大変だなぁと思いました。
自転車で転倒してから、一週間近くが経つと思いますが、いまだに眩暈や気持ちわるい具合の悪さが残っています。膝には痣ができていて、触れると痛いです。
外に出ることも、少し怖くなってしまいました。
転ぶときに、無理をして転ばないように踏ん張ったり、変に脚などを捻って転ばなくてよかったと思います。
でももしこれが私じゃなくて、高齢者の乗った自転車だったら……と考えると、同じように転んでも、骨折などの大怪我をしていたかもしれませんし、その怪我をきっかけに寝たきりになってもおかしくないことでしょう。
事故というのは誰も望んでいないことですし、もちろん無いほうがいいことですが、できる限りは防ぎたいものですね。