考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

非弱肉強食は進化か?

弱肉強食の“弱肉”になりたいと、思っていた時期があります。

「世の中結局は弱肉強食だ」と言う人も居れば、「弱肉強食の世界だったら生きていけない」と言う人も居ます。

私は強くなれないなら、強い者の糧になる弱者で構わないと思っていました。そうやって強い者が残っていけばいいし、強者でも食べずに生き長らえるわけではないので肉になる弱者が必要なわけで、それなら弱者は肉になることで強者の・世の中の役に立つと考えていました。

 

ところが現代の人間の世の中は、弱者を一思いに肉の塊に変えてはくれません。

弱者は弱者のまま、負け続けながら、気まぐれに差し伸べられた手を借りながら、生きていくのです。

 

歴史ある宗教に反して、生物は進化をしながら続いてきたというのが、現代の人間の科学が日常にしみ込んだ、いわゆる普通の考え方でしょう。

進化していく限り、長い目で見れば必ずよくなっていくことになります。

 

 

この国は安全で、物質的にも豊かだと思います。情報のやり取りも活発で、捌ききれない情報はあえて遮断するくらいです。

そしていろいろなことを外部化できるようになりました。暗算しなくても電卓で計算できますし、文字から想像しなくても画像で見られます。画像から想像しなくても、動画を観ればもっと直接的に見ることができます。

この文明の利器は、進化なのでしょうか?

 

個々のヒトという動物を考えたとき、普段から電卓を使っているせいで暗算の能力が低下するのは……、想像力を働かせなくてもイメージが手に入り満足するのは……、これらは個体にとっては退化なのではないでしょうか。

ヒトという動物は集団社会を作って文化的に生きているのだから、些末なことに脳の処理能力を使わなくて済むようになったのは、人間としての進化でしょうか。

 

 

性質も嗜好も、多様化しています。いや正確には、多様化を認めるようになりました。

弱きを助け、補い合い支え合って生きるのが、今の世の中のあるべき姿なのかもしれません。

 

ですが始めに記したように「弱肉になりたい」弱者は、医学の進歩に助けられ、国の制度にお世話になり、不甲斐ない思いを抱えながら生きていかなくてはいけないのでしょうか?

 

私は、毎食後と寝る前に薬を服用しています。毎月、通院しています。

私は、できることなら人の役に立ちたいです。献血をしてみたいですが、薬を飲んでいるのでできません。

 

今思うのは、ただできるだけ生きることを続けること、できるだけ病気がよくなるようにすること、それだけです。

今生きているのは、いろいろな人に助けてもらって、運よく今まで死ななかったからだと思っています。一度途切れてしまえば、その後は無いのです。続けることは、可能性を残すことです。

今は、肉になりたいとは思わなくなりました。