考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

【義務教育と不登校】学校教育って

小学校の途中から中学校を卒業するまで、不登校でした。

その後、中学と高校の教員免許を取得した 小柏まき です。

 少し変わった経歴ですが、私を構成するものの中で欠かせない部分なので、学校教育の特に義務教育についての考えを記しておきます。

 

 

考えていること

 

 本来は仕事させられて学ぶ場を与えてもらえない子どものために学校教育がある。自発的な疑問を子どもが持った時に訊ける大人が居る、っていうのが大事なこと。昔は近所の大人が教えてくれる子も居た一方で知りたいことがあっても教えてもらえない子が居た、それを全国的に均一にしようとした筈が…

 

 教諭の質を保つのが難しい。小学校・中学校・高校を卒業して大学を卒業して、そのまま学校に就職してしまう、するとその人は”学校”以外の社会を体験的には知らないことになる。

 教諭や学者には「教えたがる」人が居る。学校は「教える場」より「教わる場」であるべきで、そこには子どもの学びたいという意思があるべき。ただ、何も知らないと何かを学ぶ気にはならないので興味を持つような情報を知らせる必要はある。


 学校には子どもに対する教育以外の事柄が多すぎる。例え教諭がどんなに子ども想いでも、他の仕事が多すぎるために教諭は酷使されている。なのに学校での事柄は教諭の責任を追及される。

 地方公務員は特別儲かるわけでもなく潰しも効かない。批判をするのは簡単だ、代替案を提示しないのは。


 私は学校に行けなかったことを誇りには思わないし、何もなしに他人にお勧めすることもない。

 学校に行けないから死ぬか生きるかという問題に発展するくらいなら、勿論行かなくていいと意見したいけれど。

 教科を学ぶには学校の授業は経済的にも労力的にも楽だから。学校に行けない・行かない子どもにとって、もっと魅力的な居場所があればいいなと思う。

 

 

 本来は、小学校などでは、まず概念を教えるはず。

 例えば、算数は論理的思考のための概念を教えるもので、実用性のない公式を教えるためのものではない。

 国語の「この文の作者の気持ちを考えよ」も、作者の本当の気持ちなんかわかるわけがない前提に立った上で想像力を働かせて意図を汲み取ることを教える。

 

 現代社会で生きていくのに必要な学力をつけるのは義務教育のうちに終わるのが当然であるべきで、才能ややりたいことがある人には中卒は充分な学歴だと思う。

 大学でやりたいことがあるとか、可能性を探すとか、理由があれば行けた方がいいが、お金のこともあるので一概には言えない。
 
 
結局のところ
 
 たまに、現代日本人のある種の考えが垣間見える言葉に触れる機会があります。それは、「こんなに大切なことを学校で教えないなんて」「学校って先生ってなんだろう?」という、『教育=学校教育』『先生=学校教諭』という考え方・捉え方です。
 
 初めに記したように、学校教育というものをその成り立ちから考えてみれば、国がやっている国民に広く学ぶ権利を与えた場が学校です。
 それを考えれば、ある地域では当たり前のように教えていることを別の地域では全く教えないといった、差は少ない方がいいのです。義務教育でどういった事柄を教えるかは、10年に一度改定される教育基本法で決まります。つまり、10年単位でその時代に合ったことを、ある程度均一に学ぶ機会を与えるのが学校です。
 ですから、生きる上で大切なことを知る機会の全てを学校教育が担っているわけではありません。学校で教えてくれないことはあって当たり前です。
 
 義務教育は子どもの義務ではなくて、保護者の義務です。それは義務と設定しないと、「子どもに家の仕事をさせたいから」という理由で子どもの学ぶ機会を取り上げる親が居た、という過去があってのことです。
 不登校の子どもを持つ保護者は、学校へ行くことを初めから全く勧めなかったり、子どもが学校に行きたがっているのに無理やり引き留めたりしていない限り、「自分の義務を果たしていないんじゃないか」と思い悩む必要はありません。その子に合った環境にできるだけ居させてあげるのが、義務教育が義務になる以前の目的だからです。