小説『きことわ』(新潮文庫) 朝吹真理子 著 の読書感想です。
感想
過去は記憶と記録によって存在する。しかし、記憶はいつの間にか薄れ・抜け落ち・書き換えられてしまう。その記憶が正しい過去のものだと証明することはできない。
昔、聾学校の生徒の絵を見た。その絵は、生徒が眠っているときに見た夢を描いたものだった。独特の空間が、細い線で緻密に描かれていた。健聴者である私が夢を記憶しようとしたとき、夢を言葉で説明してその言葉を記憶しようとする。もしかしたら、手話や指文字が第一言語の人は私よりも夢を夢のまま覚えているんじゃなかろうか。一度脈絡のある言葉に置き換えてしまうと、それ意外の部分はすぐに忘れてしまう気がして、それでも言葉を覚えていれば夢や過去を覚えているつもりになっている気がして、言葉や記憶の限界を感じたことを思い出した。
小説というものは言葉で表現されたものですが、『きことわ』には、言葉で表せないようなものが書かれているように感じたのです。そう感じさせる文章は才能によるものでしょうか。
思い出とは、過去の記憶です。時間というものは、過去から今を通って未来につながっているものなのでしょうか?
私の個人的な時間の概念の捉え方を記します。
“時間”という概念自体が人間が作ったもので、実際には常に今しか存在しません。過去は記録と記憶によってあり、未来は想像です。
時間というのは、人が文化的に生活するために何もないところに目盛りを付けて時刻を作り、その量を把握することで、己や他者のことを知ったり・共有したりすることに使われているものだと考えています。
私が聾学校にお世話になったのは、学生時代の教職課程であった“介護等体験”でした。実際に聾学校の児童・生徒さんたちと触れ合う時間は少なかったのですが、普段は関りのない学校でどんなことをして過ごしているのかを教えてもらったり、部活動の文化祭での出し物を見せてもらったりしました。
そこで見せてもらったひとつの絵がとても緻密で、その絵の題材が作者である生徒さんが眠っているときに見た夢だと知って、少し衝撃を受けました。「私には描けない」と感じたからです。勿論、生徒さん個人の絵を描く能力もそうなのですが、「自分にはこんな風に夢を憶えていられない」という思いが強かったです。
寝ているときの夢は、大抵起きて暫くすると忘れてしまいますが、内容をなんとなく憶えている夢でも、「〇〇がどうなって、どういう感じの人が出てきたな」という風に、目覚めてすぐに心の中で呟いてしまっていることに思い至りました。そうやって、夢で見た感覚を言葉にしてしまうと、思い出すときにもその言葉を夢の記憶として扱ってしまいます。
一度言葉にした記憶は、言葉を思い出として引き出してくるので、その言葉になりきれなかった部分の記憶は引き出されづらくなり薄れていってしまいます。
聾学校の生徒さんでも人によるとは思いますが、私が衝撃を受けた絵を描いた生徒さんは、夢の記憶方法が違うのかなと思いました。
人は、“心の声”と呼ぶ言葉に置き換えたものに頼って記憶したり・思考したりするとは限らないのでしょう。
特に、文字を書くことを生業としている人には、文字を文字のまま記憶する人もいるようです。人の名前を文字で見たまま憶えているので、記憶を引き出していざ読もうとしたときに読み方の正解がわからないというような話を聞いたことがあります。
ちなみに私は、心の中で音読して憶えるタイプなので、音は憶えていても漢字がわからない、ということがよくあります。
前回の記事に引き続き、見たり感じたりする世界も人それぞれで、憶え方や考える方法も人それぞれだと、改めて感じるのでした。