考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

メンタルクリニックに家族が同行した話[エッセイ]

あけまして2022年。今年も細々とブログ投稿していこうかなという 小柏まき です。

闘病のことと、過去の記憶の整理と、些細な日常の中の備忘録として機能している本ブログです。

さっそくですが年末の通院とそれに関する家族のことを記しておこうと思います。

 

 

2021年は、私のメンタルクリニックに初めて家族が付き添ってくれた年でした。

 

それまでの過去

私には兄が居て、兄も昔精神科に通院していた時期があります。その通院には母が何度も付添っていたようでしたし、関係あるのかわかりませんが母はカウンセリングの講習を受けたりしていたそうです。私は高校卒業以来数年間、地元を離れていたのであまり詳しくは知りません。

私が今回のうつ病になって何年が経ったのか、記憶が壊れていて何かを見返さないと大まかな時間の量もわかりません。多分うつ病性の健忘症なのでしょう。

しかしハッキリわかるのは、家族に付添ってもらってメンタルクリニック(精神科・心療内科)に行ったことがそれまでに無かったことです。

 

家族が初めて「一緒に行ってあげようか?」と言ったのは2019年12月。母が思いつきで言い出して、結局うやむやになって当然のように一人で通院しました。

2020年4月、希死念慮の話をしたときに思いついたように父が「病院に行ってみようかな?」と付添うようなことを言い出し、理由を尋ねると「行ったことないから」とのことで、しかし当日になってやっぱり行かないと言うのでやめになりました。

2020年7月にも思い付きで「一緒に行こうかな?」と言われて同行する想像でストレスを感じ、それも実現せずに終わっていました。

 

 

 

同行すると決まった経緯と通院前

2021年10月、初めて父親が私の通院に同行しました。これは前もって主治医に次回は父親が付き添う旨を話しておきました。というのも、父から障害者手帳の取得を勧められて、手帳取得のための診断書を書いてもらうことを主治医にお願いするという目的があったからです。

障害者手帳の取得をどうするかという話は、私が社交不安障害と診断された2019年から出ていました。父が「障害者手帳を取ってみたら?」と軽く言ってきたことはありましたが、手帳を取る方向で話をしようとすると主治医や家族の誰も取得した方がいいと思っていない様子で、自立支援医療の更新時の診断書と兼用のを書いてもらうタイミングを逃していたので診断書のお金と申請する労力を考えて申請しないまま過ごしていたのでした。

何故このときになって父が手帳の話を持ち出したのか、それはおそらく、障害年金の申請の布石としてです。障害年金障害者手帳は別のものなので、本来は関係ないとされていますが、地域によっては障害年金の申請時に障害者手帳の等級を書く欄があるらしく、手帳の等級を年金の判断材料にする場合が否定できないためです。

 

この通院の少し前に、父は私の苦手なことについて “俺は小さい頃から時間を掛けてようやく克服してきたのに子どもは一から引き継いでいる” というようなことを暫く嘆いていました。私には意味がよくわかりませんでした。考え過ぎの心配性なところや人とのコミュニケーションが苦手なことは確かに父に似たかも知れません。ですが私のように日常生活に支障をきたすことがなかった父が、私と同じように病気や障害を抱えていて、しかもそれを努力と訓練で克服したとは私には思えませんでした。

こんな病気などで普通のことができずに自尊心も持てない、少しでもよくしようと時間を掛けてきてやっと今の状態の私を、否定されたような気持ちになりました。

 

初めて通院に同行してくれた父が、主治医に何か質問をするのか、私のことを何か言うのか、わかりませんでしたが専門家と直接話してスッキリするといいと思っていました。

 

 

付添い通院日(初回)

当日。いざ診察室に入って私がいつも通り近頃の状態を主治医に話し終えると、父が手帳申請用の診断書の依頼をして、主治医が「お父さん何か聞きたいこととかありますか?」と聞いても「いやぁ、特には」とふわふわ笑うだけでした。私は「前にこれがわからないって言ってたじゃない」と口を挟み、過去に父が私の社交不安について「“障害” なのか “症” なのか」と疑問を持っていた様子を説明して、それについて主治医が答え、父はうなずくというのをやりました。病人である私がやけにテキパキと仕切って喋っていたことが、父がせっかく一緒に行っているのに事務的なこと以外喋らないのが肩透かしを食らったようで疲れてしまいました。

診察を終えて会計待ちのときには父は私の後方にある長椅子に腰掛け、視界の外に居ました。もしかしたら他人の振りでもしたかったのかも知れません。会計に呼ばれて済ませ、クリニックを出ようと待合室を見ても父が見当たらず暫くウロウロと探し回りました。どう見ても待合室に居ないので外まで出て探し、やはり居ないので再び待合室を見て回り、受付の人にここに座っていた男性の行方を聞こうとしたとき、父がトイレから出てきました。長椅子から立ったときに「トイレ行ってくるね」と一言声を掛けてくれればいいのに、それが出来ない人なのだと思いました。

 

この同行は、病気の人に対する付き添いではない。診断書の依頼なら私一人だって出来るはずなのに、父は私には出来ないと思い込んでいるのか、自分の仕事ででもあるようにそれだけのために一緒に行ったのでした。

薬局で薬をもらった後、時刻は昼の12時過ぎでしたが、父は図書館に行くからと言い道端で解散しました。

 

 

付添い通院(2回目)

12月の通院に父が同行したのは、障害年金申請のための診断書とその他の書類を主治医に依頼するためでした。

通院の前に、主治医には前もって話を通しておかなかったので、受付で挨拶して診察時には診察室に先に入ってと父に言っておきました。

実際に行くと父は、受付のところで「どうも」と会釈をして、診察時には純粋な付き添いだと思っていた主治医に「お家での様子はどうですか?」と聞かれてもそれには答えず、手続きの話に入って書類の依頼をしていました。

詳しい診断書を書くことになった主治医が、私の幼少期からについて幾つか確認や質問をしてきました。私がそれらに答えた後、主治医から「お父さんにお聞きします。〇〇さんは大きな病気などをしたことがありますか? 子どもの頃も含めて」と質問されました。私は自分が答えてしまってはいけないのだと思って黙って父の様子を見ていました。父はこの質問にも、答えませんでした。「なんかあったよねぇ」と言って遣り過ごそうという感じでした。そんな父が恥ずかしくなってきて私は「あったでしょ?」少し待っては「肺炎で入院したでしょ?」と口を挟んでしまいました。

 

私は知っていたのです、父が私の病歴など憶えていないことを。病歴だけではなく、私のことなんて興味が無いことを。

 

思えば今までの人生で何度もインフルエンザに罹りました。マイコプラズマ肺炎には子どもの頃2回罹り、一度は入院しました。中学生のときに肩を脱臼しても病院に行かず、大学生のときに胃痙攣で痛みが酷くても救急車を呼ぶのでなければ病院に行こうとせず適当に断食して2週間寝込んだのでした。

主治医に聞かれたとき、私自身が肺炎以外に何も思いつきませんでした。

 

父も私も、私の身体のことを興味を持って心配する意識をあまり持っていませんでした。

 

昔のことを忘れることが悪いことだとは思いません。なので、主治医に質問されたとき、憶えていないなら「憶えてません」「ちょっとわからない」とせめて父に答えてほしかったというのが正直なところです。わからないままで、しかもその話題に取り合わないままでいいというスタンスが、なんだか少し悲しかったです。

 

この12月の通院時、私は生理痛と貧血やなにかで歩いている感覚が無くフラフラしていて、倒れないようにゆっくり歩いていました。バス停までやバスを降りてからクリニックまで共に歩く父は、私を追い越して暫く待ってみたり並んで歩いてみたりを繰り返していました。「どうしたの?」「大丈夫?」とか「具合悪いの?」とは一言も聞きませんでした。

帰り道に駅の近くで「じゃあ〇〇寄って帰るからここで」と道端で解散しました。時刻は昼の12時過ぎです、「お昼何か食べてから帰るの?」「何時ごろのバス? 電車?」気にならないものなんです。私は、置いて行かれたのだと感じてしまいました。

 

 

私は誰かにとっては具合が悪くても気にもならない存在かも知れません。

でもだからといって、私自身にとっての私の価値まで、誰かの影響を受ける必要はないのかも知れません。