子どもの頃のこと。小学生になっていた年齢だったかどうか、あやふやな時期のことです。
実家は店をやっていて、家族で遠出することがほとんどない家庭でした。
父はサラリーマンで、仕事が忙しい時期には朝早くに家を出て夜遅くに帰って来るので、何日も顔を合わせないこともありました。
母は主婦でしたが、私たちを育て店の手伝いをして、パートに出る時期もありました。
祖母が店主で、祖母が家族で一番の発言権を持っていました。
ある日の昼下がり、私は居間でひとりで絵を描いていました。幼い頃から身体が強くなかった私は静かにひとりで絵を描く遊びをよくしていました。
そのときはたまたま、夜空の絵を描いていました。
空に、気の赴くままに星を作っていきました。そうしていると、母が私の隣に来て声を掛けてくれました。私の描いている絵に興味を持ってくれたように、珍しく一緒に描いてもいいかと言って、ふたりで星を描き込んでいきました。そんなことは滅多にあることではないので、嬉しくて楽しくて、この出来事とこの気持ちをずっと憶えていたいと思いました。私はすっかり舞い上がっていました。
そんな私を見て母は気を良くしたのか、この絵を居間の箪笥の側面に貼ろうと言ってくれました。私は、きっと明日からも、毎日この絵を見るたびに、今日の出来事とこの気持ちを思い出すことができるのだと思うとすごく幸せでした。
翌日、目を覚まして居間に行くと、きのうの絵は箪笥の側面にはありませんでした。
母は怒っていました。その理由は、祖母が怒ったことでした。祖母の怒りの原因は、居間という人目に触れる場所に、描いた絵を勝手に貼ったことでした。
きのうの絵を見ること、きのうの楽しくて嬉しい体験を思い返すことに心を躍らせていた私は、絵を剥がした母に、どうしようもなく嫌な気持ちを伝えたくて駄々をこねました。気持ちを表現する言葉を多く持たない当時の私は、言葉になりきれない気持ちを抱えた不快感でいっぱいでした。
駄々をこねる私と、その対応に困窮し怒りをにじませる母。そんな構図をどうにか作り上げても、気持ちが伝わっていない感覚がありました。
私にとっては、祖母に叱られたって構わない母でいてほしかったのです。しかしそれは姑の居る家に嫁に入った母には無理なことでした。それは私が幼くても、感覚的に知っていることでした。なので、ふと、私に責められている状況に置かれた母に対して、同情のような理解を少し持ちました。
どんないざこざを経ても、きのうの絵を元通りにしてくれれば、いいえ居間に貼ることが叶わないなら絵を私にくれればそれでいいのだと、激しい感情の中の欲求を自覚しました。治まらない感情を抱えたまま、考えは過去を切り捨てて進み始めました。そして駄々をこねるという恥ずかしい行為から、あの絵を返してほしことを伝えるという行為に、意識的に移りました。
あの絵をどうしたのか、せめて絵を私にくれないか、母を問い詰めてわかったのは、絵はもう捨てられてしまったことでした。
私が“絵”と認識していたものは、捨てられた瞬間に“燃えるゴミ”になったのでしょう。
悲しいのにその悲しみをうまく表現できず、怒りとして母を責めてしまうことに疲れを感じました。どうしても納得できないのに、それを誰にどう伝えようと伝えなかろうと、過去は返ってきません。私の元に残ったのは、母の怒りと罪悪感と、祖母の怒りと、自分の暴れるような感情でした。
このとき私は恐らく生まれて初めて、済んでしまったことは割り切って、感情に飲み込まれない“今”に目を向けることを選びました。
何をしていても過ぎる“今”を、過去に囚われた感情に任せて“嫌な今”を続けていくのか、何か別の今を迎える方法があるんじゃないか、あるとしたらそれを選んだ方が自分にとっても周りにとってもいいんじゃないかと考えました。次から次へと溢れる感情を置き去りにして、“今”を日常に戻そうと頭を動かしました。そうしているうちに、嫌な感情は少しずつ、流れて、薄まって、消えていくようでした。
感情をコントロールしたという実感に、「きっと、こうやって大きくなっていくんだ」と、人間という理性を持った生き物として生きていくことを思いました。
こうして私は、“一度失ってしまったものは、物も感動も、二度と返らない”ということを学びました。