考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

【壱】9年半付き合った恋人(躁鬱)の看病【あらまし】

失恋から立ち直れない 小柏まき です。

 

以前の記事にも書いたように、私には長く付き合った恋人が居ました。

今回のうつ病になったのが、その元彼と付き合っていて、看病をしているときでした。

 

彼は双極性障害でした。

以前にも一度うつ病を患って、転職・転居してからのことでした。具合が悪いからと仕事を休みがちになって、徐々に連続して欠勤することが多くなり、病院に行くようになりました。最初の診断名はうつ病で、その後、双極性障害(躁うつ病)と診断されたのでした。

私は既にこの頃、うつ病を発症して仕事を辞めて、実家で暮らすようになり、寛解状態のまま親のすねをかじっていました。彼はずっと正社員で働いてきて、二人とも当然のように結婚するつもりだったので、精神疾患になってからも「俺が働くから、まきは働かなくてもいい」と彼は言っていました。

 

うつ病と診断されて休職して、ほぼ寝たきりになった彼を24時間体制で看病するべく、同棲状態で彼の部屋に滞在しました。

毎回、通院に付き添って、一緒に診察室に入って医師に状態を説明しました。手続きなどの人と接しなければいけないことは、代わりに私がしました。

どうにか食事をして薬を飲んでほしくて、彼が食べてくれそうなものを買ってきたり作ったりしました。作っても気に入らないものは一口も食べてもらえないので、彼が食べるかどうかでメニューを決めていました。

他にも、できる限り身の回りの世話をして、彼の調子が少しでもいいときは趣味を一緒に楽しんだりしました。

 

昼間横になっていることが多い彼は、夜になると「死にたい」と言って泣きました。そのたびに私は、死なないでほしい気持ちを伝えて説得しました。それが決まって0時頃で、彼はひとしきり泣いて落ち着くと、睡眠薬を服用して眠るのでした。私は彼が死んでしまわないか不安で、やってきた眠気を我慢して説得にあたるので、彼が眠る頃には目が冴えてしまって眠るタイミングを逃すのでした。

しかし次の日の夜になれば、前日の夜にあんなに時間と心を使ってした話の記憶よりも死にたい気持ちのほうが強くなってしまうようで、また「死にたい」と涙を流すのでした。私は毎日、彼を説得しました。

そのうちに私は完全に睡眠のリズムが崩れて疲弊していきました。それでも変わらず、彼は死にたがるので、私は「一緒に死のうか」と提案しました。が、その言葉は彼には響かなかったようで、「まきは死ぬことないよ」と言われて片付けられてしまいました。本気だと受け取ってもらえなかったのかもしれません。

あるとき、首吊り用の紐が用意されていたので、私は輪の部分にハサミを入れて自殺できないようにして、紐を片付けることは敢えてせず“吊れない紐”を残しておきました。

 

躁うつ病には、鬱の時期と躁の時期があります。

 

躁の時期には怒りっぽく攻撃的になり、怒鳴ったり物に当たったりすることがありました。

まるで、身体も気持ちも重くしていたストレスが方向を変え、外に向かって吐き出されるように、いろいろな行動を起こしました。

髪を何度もブリーチしたりピアスを沢山あけたり、買い物依存症のようになって次から次へと欲しいものを見つけてはそのことばかり話していたり、多弁になって部屋の中でも私の移動に合わせて近くに来てずっと喋っていたり。

沢山食べるようになって数十キロ体重が増えたり、そうかと思うと体重を気にして一日に7~8回くらい体重計に乗って「俺太ったかな?」「大丈夫だと思う?」としきりに訊いてきたり、身体を動かすことにハマってジョギングやエクササイズダンスに私を誘って一緒にやったりしました。

私は他にも、知らない人に喧嘩を売ってしまいそうになるのを止めたり、高額の買い物は相談してほしいことを伝えたりしました。ですが基本的には彼が好きなようにさせたかったので、「無駄遣いかな?」と言ってくるものは、「どうせ買うならこだわったほうがいい」とか「一見無駄に思えることが心を豊かにするんじゃない?」と、ほとんど彼の意志を尊重しながら意見しました。

 

そんな風に生活していると当たり前にお金が無くなっていきました。私は貯金を切り崩し、「必ず返すから」と泣きながら土下座する彼を、信頼しきっていました。

結局、奢った分や私の移動費・生活費などは含まず、150万円ほど貸したまま返ってきていません。

 

彼の地元の家族は「彼女が面倒見てくれてる」と言って、丸投げで病気に関する知識を付けるわけでもありませんでした。たまに東京に遊びに来て、私たちに案内をさせつつ食事を御馳走してくれたりしました。

 

私の実家の家族は、恐らく私が好きな彼氏のところに入り浸っていると認識していたと思います。

 

私は季節ごとに実家へ帰って、お盆やお彼岸の親戚が集まるときの料理や応対をし、読み終えた本などを自室に持ち帰り、衣替えをしてまた荷造りするのでした。

彼が鬱状態のときには、彼の部屋を留守にする日数より少し多めに食べ物や飲み物や日用品を買い出して、料理を作って置いておきました。ところが沢山あると思うと食べる方向に気が向くのか、電話で話すといつもより早いペースで消費してしまった報告を聞くのでした。

そんな日々が、どれくらい続いたのか、よく憶えていません。

 

あるときから、彼の付き添いで行く病院に私もお世話になるようになって、今回のうつ病の診断を受けました。

それから私は、彼の部屋に長くは滞在しないようになっていきました。通院の日を合わせて、待ち合わせて一緒に病院へ行き、彼の部屋に数日から数週間滞在したら実家へ帰るようにしました。この頃には彼の状態がある程度安定していたことと、私の状態が悪かったことがありました。

 

その後、彼とは別れることになるのですが、看病当時も私は幸せでした。

彼が少しでも幸せに生きていてくれることが、そのときの私の何よりの願いだったからです。