考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

不登校体験談③中学時代『進路指導室』『適応指導教室』

小学4年生の途中から不登校になった 小柏まき です。

中学生になったら、何かが変わって普通に学校に行けるようになるかもしれないと、根拠のない淡い期待で現実逃避していました。

 

授業を受けていなくても、勉強をしていれば中学受験をして私立の学校へ進むという道もあったかもしれませんが、私は全く勉強をしていませんでした。

そんなわけで、小学校の同級生のほとんどと同じ、地元の公立中学校に席を置くことになりました。入学したての頃、ホームルームに参加したことがありましたが、ずっと担任教諭の目を見ながら話を聞いていたのでとても疲れた記憶があります。

 

ずっと連続して学校を欠席していた私にとって、クラスメイトは知らない人ばかりでした。しかし向こうは私のことを聞き知って気を遣っているような、なんだか少しだけ白々しいようなよそよそしいような、それでも私も気遣ってもらうのは忍びなく感じてしまう、そんな微妙な距離感でした。

 

うちの中学校には私と同じ小学校以外に、隣町の小学校出身の生徒が何割か居ました。そういう生徒たちが新しい交友関係を作っていくのを頭のどこかで想像しつつ、自分に置き換えて考えてみると、コミュニケーション能力や日頃の過ごし方や学力などすべてにおいて「自分には無理だなぁ」と思いました。

 

その頃この国は、不登校に問題意識を持った大人たちが不登校児童生徒の受け皿を作り始めたばかりの時代でした。

私が中学校に入学したした年に、同校内に『進路指導室』という名前の部屋ができました。名前こそちゃんとしているものの、どう見ても年に一度出番があるかどうかの物が棚や壁際に積まれていて、その光景は倉庫(物置?)そのものでした。そこには、昔保険室の先生だったという老齢の先生が居て、なんということもない会話をしたりして過ごしていました。

進路指導室には、私以外に先輩が何人か来たり来なかったりしていました。

 

 

中学1年生の途中で、適応指導教室というものの存在を知らされました。

適応指導教室は、進路指導室と違って学校とは別の、自治体が運営するフリースクールのようなものでした。

学校の進路指導室で一緒だった先輩が、適応指導教室に通うようになって、過ごしやすい場所だと誘ってくれたのでした。

適応指導教室に行っても出席日数がカウントされると聞かされて、高校に行くのに不利にならないかもしれないと思いました。結果的には「適応指導教室 出席」という風に、学校に出席するのとは違う扱いでした。

それでも、どんな場所なのか興味を持ったので、見学に行きました。

 

最寄りの適応指導教室は、市の建物で、運営も市がしていました。施設の関係者とは別に、教室がある日は常に3人の先生がいました。そのほかに、曜日ごとにボランティアさんが来ていました。

建物には、ラウンジに幾つかのテーブルや椅子があって、そこには飲み物の自動販売機や本棚に本が並んでいました。他にも、オセロや将棋もあって、それらを使うのも自由でした。また、体育館や、小さめの調理室のような部屋、小さめの静かな個室などがありました。

基本的に、どの部屋で何をして過ごすかは自由で、使った部屋や物は元通りに戻すという規則でした。

例えば、先生に勉強を教わりたい場合は、前もって先生に直接教科と時間をお願いしておいて、小さめの個室を使わせてもらうということもできました。

 

私も先輩と同じように、中学校の進路指導室ではなく、こちらの適応指導教室に通うようになりました。

 

市内の小中学校から来ているそれぞれの児童生徒たちは、住んでいる場所も、学年もバラバラでしたが、気遣い屋で精神年齢が高い印象の子がほとんどでした。

私たちはそこで、クッキーの材料を持って行って調理室でお菓子作りをしたり、体育館でバスケットや卓球やバドミントンをしたり、ラウンジで絵を描いたりお喋りしたり、天気のいい日にみんなで近くの公園を散歩したりして過ごしました。

 

ここで印象深かったのは、先生方が いい人しか居なかったことでした。先生の一人は、定年退職後の男性で、親しみやすい校長のような立ち位置でした。そのほかの先生方は、20代から30代前半でした。私が在籍中に、男女一人ずつから入れ替わりがあって女性2人になりましたが、新しく来た先生も いい先生でした。

 

ここでいう“いい先生”というのは、真摯に子どもと向き合って、話を理解しようとしてくれる大人でした。

お喋りをしたりしているときには、ふざけ合ったりもするのですが、どの子のことも大切に扱ってるのがわかりました。

私は、「こういう大人もいるんだ」と思いました。憧れて目標にしてもいいかもしれない存在として、もっと先生のことが知りたくなって、色々な質問をしたりしました。

 

これは、後に私が教職課程を履修する、きっかけの一つになった出会いでした。

 

適応指導教室で最も親しくさせていただいた先生とは、卒業後もお会いして語らったりしました。お互いの誕生日には、今でも毎年連絡を取り合っています。

 

“学校の教科担当の先生が面白い人だから、その科目を好きになる”というのはよくあることだと聞きます。

私は適応指導教室の先生に出会って、生きて年齢を重ねていくことを、肯定的に捉えられるようになった気がします。