考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

映画『万引き家族』の(ネタバレあり)感想・考察

カンヌ国際映画祭パルムドール受賞の日本映画『万引き家族』を、レンタルDVDで観ました。

ネタバレを含む感想です。

 

目次

 

 

 

父[治]と息子[祥太]がスーパーで協力して万引きをするシーンから始まります。

帰り道では、商店街の肉屋さんでコロッケを5つ買います。5人家族なのでしょう。

息子[祥太]の「シャンプー忘れた」という言葉から、生活必需品を万引きしていることがわかります。また、「寒いから今度にしよう」という父親[治]は、忘れていたことを咎めるでもなく、その場しのぎ的な印象を与えます。

シャンプーは盗むのにコロッケは買う。その日に作られたホカホカのコロッケは、彼らにとっても、お金で買う価値があるものなのでしょう。

2月の寒い日、もう暗い時間に、団地の玄関前に一人の小さな女の子がいます。その子に「コロッケ食べるか?」と声をかけて家に連れて帰ることから、話は展開していきます。

 

古い平屋の一軒家、「食べさせたら返してきなよ」と少女を帰らせようとするのは、万引き男性[治]の妻[信代]。

シャンプーを忘れたことを非難する女性[亜紀]は、二十歳前後のお祖母ちゃん子。

年金暮らしのお祖母ちゃん[初枝]は、ぼんやりしていそうで、少女の身体に複数の傷があることに気づきます。

 

 

 

 考えさせられる言葉と行動

「店にある物は、まだ誰の物でもない」「拾ったの。捨てた人は他にいるんじゃない?」「選ばれた、ってことかな?」「私はあなたを選んだのよ」

持って帰ってくることは、選んで近くに置くことは……物を・人を“万引き”することは、誰にとって悪いことなのでしょうか?

 

 

奪う人間がいるということは、奪われる人間がいるということです。

お祖母ちゃん[初枝]は“奪われた側”でもあるという点が、興味深い点でもあります。

 

 

お祖母ちゃん[初枝]は、亡くなった夫を奪った後妻(故人)の家へ出向き、数回にわたって現金を受け取っていました。月命日だから寄っただけ、と称して仏壇に線香を供え、帰り際に差し出された封筒を遠慮なく受け取り、帰り道ですぐに金額を確かめます。

一見すると、帰り道で歩きながら封筒の中を見るくらい、渡された現金に執着があるように見えます。 しかし、その後、家に帰っても受け取ったお金は封筒の中に入れたまま簡単に仕舞っておくだけです。何かに使うわけでもなく、誰かにあげるわけでもない……もしかしたら受け取ること自体に意味があるもかもしれません。金額の確認は、数字に表れる人の気持ちの量(強さ)を計る材料なのかもしれません。

 

 

 

法律に裁かれ・戻され・守られることの 安心と絶望

法律が適切に働くことが、この映画の救いでもあり、現実的な絶望を感じさせる要素でもありました。

 

法律の使者は、落ち着いて真っ当なことを言い、誠実に人に向かいます。独特な関係の中で愛や喜びを感じて生きていた物語の主人公たちが、世の中の常識的にはどう解釈されるのかを、見る者に突き付けてきます。

普段の生活で、心に従って生きる人の言語化していない部分を、言葉にさせて聞き出そうとしてきます。そして仮に提示される言葉たちは、とても表層的に聞こえます。

 

 

子どもは親を選べない。それでも生みの親が望めば、親の元で暮らすことが子どもにとって“いいこと”なのでしょうか? 

 

法律で守られないものを守る術は、無いのでしょうか? 

 

 

 

この映画の主題は、<人と人は何で繋がっているのか>だと思いました。

 

人と人は何で繋がっているのか

血縁関係であること、あるいは“家族”の名のもとに、人は一緒に暮らすのでしょうか?

お金は、人と人を繋ぐことに、どう関係しているのでしょう?

秘密の共有、後ろめたさ、これらで繋がった人たちの関係では、繋ぎとめるモノ以外のモノが生まれ育まれることは無いのでしょうか?

 

 

 

親の条件

直接語られるわけではない、[信代]と[治]の生い立ち。

 

 

「好きだから叩くんだよ、なんてのは嘘だよ」「産んだら母親なの?」

これらは[信代]の言葉です。[信代]が実の親から精神的・肉体的暴力を受けて育ったことが垣間見えるシーンは多くありました。

 

 

「それくらいしか教えてやれること無くて」

これは[治]の言葉です。子どもに万引きをさせた動機が、子どもに何か教えてやりたいという気持ちからきているようでした。

サッカーボールを使ってリフティングをする父と子を窓の外に見たときに、[治]が羨んでいたのは、父親のほうなのか息子のほうなのか、あるいは両方だったのかもしれません。

[治]の本名は、[しょうた]。[祥太]は、息子として暮らしていた子に付けた名前でした。

[治]は子どもたちと一緒に遊んだりするシーンが多く、思い返してみると一度として子どもを叱るシーンがありません。理不尽に怒られて萎縮して育ち、自分は理想の父親に近付こうとしていたのかもしれません。

 

 

 

“今”を生きることだけ

子どもたちは学校へ行くことはなく、「家で勉強できない奴が学校へ行くんだ」と教えられています。

将来のことどころか、数年後のこと、家族の形が変わるときどうするかなどを、どの登場人物もあまり考えていない印象です。

もしかしたら登場する大人たちは、変化していくことを知っていて、更にはそれが想像の範囲に収まらないことを自覚していて、変わってから対応していくしかないというスタンスを確立しているのかもしれません。 

 

 

 

老人という人生の先輩

家族の微妙な変化に気付いて、声を掛ける[初枝]。

万引きに気付かない振りを続けていて、突然「妹にはさせるなよ」と商品をくれる駄菓子屋のお爺さん。

お年寄りの中には、長年生きている分の知恵を身につけている人が、思っている以上に居るのかもしれません。

 

 

 

平和な家族の幸せ

[初枝]と[信代]が一緒に台所に立ち、[信代]はみんなで食べるトウモロコシを茹で、[初枝]は自分の酒のつまみを切る。

[亜紀]と[信代]の恋バナ。

汗だくになってセミの抜け殻を集める[祥太]に[ゆり=りん]が「おにいちゃーん!」と呼びかけ、一緒に木の幹を登るセミを見る。

積もった雪を見て、雪だるまを作ろうと言う[祥太]と、誘われるがまま雪を転がす[治]。

これらは、何気ない日常の幸せな風景を映していました。

 

 

「ありがとうございました」と口を動かす[初枝]。

「お父ちゃん」と口を動かす[祥太]。

この2つは、声のないセリフでした。

 

 

 

人の繋がりを描くための舞台としての貧困

日本の首都である東京のどこかに、この映画のような暮らしが実際にあっても、不思議ではありません。

貧困や犯罪を物語の題材に選んだのは、目を向けるべき社会問題として、かもしれません。

ですが、困った状況になるほど人間の本質は表れやすく、健やかなるときよりも病めるときに本当の絆が見えやすいものだと思います。

個人的には、人の心や絆を描きたかったから、この舞台を選んだのではないかと思いました。