考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

小学校・中学校 不登校体験談②「意図と現実」

 小4から中学卒業まで不登校だった 小柏まき です。

 

小学生のときのこと。

久しぶりに登校した日の放課前のホームルームで、担任教諭がこんなことを言い出しました。「気が付いてる人も多いと思うけど、今日は小柏さんが学校に来てくれました。下校するときに小柏さんと一緒に帰ってあげてもいいよって人は居ますか?」この呼びかけに、正義感が強そうな女子やその子の友達、家の方向が同じ子たちが何人か挙手しました。担任の先生は「じゃあそれで」みたいな感じだったか「小柏さん、これでいいよね」というような感じだったか忘れましたが、どちらにせよ私にはクラスメイトの善意を無下にするようなことはできませんでした。

しかしだからといって、帰り道で彼女らを楽しませることもできませんでした。どうやらそのクラスには帰り道が同じ方向の善意ある女子が6~7人居たようで、ぞろぞろと言われるがままに一緒に下校したのですが、どの子ともそれまでほとんど話したことがありませんでした。

担任教諭は、なぜ私に相談も予告もせずに、みんなに呼びかけたりしたのでしょうか?

先に私に話したら、私が本当は一人で帰るのが寂しいのに遠慮すると考えたのでしょうか?

その日の下校は苦痛でした。私は一人で下校するくらいのことが寂しいなんて思ったことはなく、担任の善意とクラスメイトの有志の善意は、有難迷惑という言葉がぴったりでした。ぞろぞろとグループを作って歩く私たちはお互いに気を遣いながら、歩調を合わせ、彼女たちは学校に関係のない話題を探して話を振ってくれるのでした。

「〇〇ってドラマ、観てる?」

「ううん、観てないや」

「そっかぁ……」

「……」

観てないものは観てないのだからどうしようもありません。下校グループの中で観てる者同士がその話題で盛り上がってくれればいいのですが、どうやら私を話の中心にしたいらしく、噛み合わなかった話題はうやむやに却下されていきました。「それってどんなドラマなの?みんな観てるの?」なんて気の利いたことを言えればよかったのでしょうが、ホームルームからのモヤモヤを引きずりながら、善意のせいで気まずい時間を過ごしている彼女たちを見ていると、「帰り道でまで頑張る必要はない。このまま歩いてこの時間を遣り過ごせはいいんだ、暫くの我慢だ」と思ったのでした。

そして各々が自宅へ向かって別れて行きました。

 

彼女たちは、後悔したでしょうか? それとも善行をした満足を得られたでしょうか?

 

私には、担任の先生と有志のクラスメイトの善意による“ごっこ遊び”に無理矢理参加させられたような、それが善意によるものだからと文句を言ってはいけないような、疲れと不服が残りました。

私に施される善意に、私の気持ちは不在なのだと思わされました。

集中力のムラの中で

 

 

ogasiwa-maki.hatenablog.com

 

この記事にも書いた通り、今回のうつ病になって、手が思うように動かなくなるという経験をしました。当時は少なからず衝撃を受けました。自分の特技だと思っていたことが何もかもできなくなってしまったことを意味していました。

今は薬も合っているようで、だいぶ回復してきたので、こうしてブログを書くこともできるようになりました。
手書きもできるようになり、ふとメモした自分の文字を見たときに「私の字だ」と感じる自分らしさも取り戻せました。

たまに集中できるときには絵を描いたり、小物を作ったり、本を読んだりも、時間はかかりますがなんとかできます。

 

そこで今回は、描いた絵の画像を載せておきます。

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馬、ですね。

特に馬が好きというわけではありません。というか、たぶん本物の馬を見たことも馬車を遠目に見たことくらいしかありません。モデルはなんでもよかったので、たまたま馬だったわけです。適当に写真の画像を選んで見ながら描きました。

義務教育の図工や美術の授業もほとんど受けていないので、基礎はありませんが、描くと楽しいのが一番いいところだと思います。

過集中するタイプ

好きになると周りが見えなくなる 小柏まき です。

 

子ども時代から、絵を描いたりものを作ったりする細かい作業が好きでした。

元々身体が強い方ではなかったせいもあって、一人の時間にはよく絵を描いて過ごしました。折り紙を折れば大人が褒めてくれました。記憶にないくらい幼い頃には積み木を積み上げて自分で拍手していたそうです。

 

かといって身体を動かすことが嫌いなわけでもなかったのですが、走って早いとかでもなく走る距離が長くなると体力が続かなくて具合が悪くなってしまうへなちょこです。おまけにボールの扱いも上手くなく、家族全員スポーツ観戦の習慣がなかったためゲーム性のスポーツの複雑なルールはなかなか覚えられなかったので、自分でやって好きな運動は限られています。

 

小学生の頃、縄跳びの二重飛びができるようになりたくて、連日練習していたことがありました。学校の敷地内でもやっていましたし、家の駐車場近くでもやっていました。親には「ずーっとやってる」「よくそんなにやってられるじゃん」と言われるくらい食事の時間も忘れて熱中していました。このときは、“二重飛びができるようになるまでやる”と自分の中で決めていたのでした。どれくらいの期間が必要かは想像がつきませんでしたが、「ずっと練習していればいつかできるようになるだろう」と思っていました。結果もその通りで、暫くしてできるようになり、達成感が自信になりました。

 

その後、しかしこれも小学生の頃、今度は一輪車に乗れるようになりたいと思って目標を達成するまで練習しました。縄跳びのときには完全に一人だったのですが、このときにはクラスに運動神経がいい女の子がいて、彼女にコツを教わったり一緒に一輪車という遊びを楽しみながらやっていました。ある日の放課後、そうして二人で校庭の一輪車置き場の近くの鉄棒につかまって練習していたら、親が迎えに来たことがありました。どうしたんだろう?と思って訊くと「いつになっても帰って来ないから心配した」そうで、辺りを見てみれば私たち二人以外の児童は誰も居なくて、校舎の時計は夕方を指していました。日が長い季節だったのでしょう、まだ夕暮れどきで、真っ暗になる前でした。

 

大きくなってからは、プールで気ままに泳ぐことと、リンクで気ままにスケートを滑ることが、何時間やっていても楽しいくらい好きです。ですが、どちらも専用の施設へ出向かないとできないところがネックで、もう何年もできていません。

 

他に集中して寝食を忘れるのは、やはり運動以外のことでした。

課題に集中してほとんど寝ずに学校へ行ったり、手作りを始めると食事を忘れていたり、ジグソーパズルに夢中になり過ぎて背中が筋肉痛になったりと、そのモードに入ってしまうとトイレに行くのも面倒になってしまいます。

 

元々の私には、こういう気質がありました。

「うつ病は脳内ホルモンの異常→薬が効く」という一つの事実

どちらかというとムダ毛は剃るより抜きたい派の

 小柏まき です。

 

先日の通院のまでの約9週間、薬を減らしてみていました。

ジェイゾロフト(抗うつ薬)のジェネリックを朝・夕50㎎ずつだったのを、朝・夕25㎎ずつにするというものでした。

今年の春は日々の寒暖差が激しくて、同じ病院の患者さんたちも私と同じように自律神経の乱れによる症状を訴える人が多かったそうです。私の場合は、よくわからない具合悪さで夜中に目を覚ましたり、昼間に頭が気持ち悪くなって横になったり、耳鳴りや視界に星が飛ぶことや手湿疹が出るなどの症状がありました。これは自分でも自律神経失調症だと思っていたので、気候が安定すれば治るとわかっていました。

ところが、気候がある程度安定して、身体が暑さになれてきた感覚があるのに、変わらない症状がありました。それが、夜の気分の落ち込みでした。

 

トラウマの存在を受け入れられない(0か100か思考)

「トラウマ」という言葉があるのは昔から知っていましたし、「〇〇はトラウマだわ」と軽い口調で使うことがなかったわけでもありません。ですが、自分に深刻なトラウマ・深い心の傷があるというのがピンとこないというか、信じたくないという気持ちがあるのだと思います。

自分は境遇に恵まれているほうだと思っているので、それが覆ってしまうのが嫌です。

内向的(原因を内に求めがち)なので「誰々のせい」という風に物事を捉えるのが苦手で、好きな人に嫌いなところがあることを受け入れられないのです。

 

病気を根本的に治したい(完璧主義)

思い返してみればつらい体験はそれなりにありますし、つらく感じるからと思い出すことをやめてしまう記憶もあります。そういった事柄を、思い出して感じ直して、気持ちを整理したいという動機で、このブログも始めました。ですが、まだ早すぎたようです。

夜になると、思い出すことと考えてしまうことがあります。今回のうつ病を発症するきっかけとなった時期のいろいろなことを、まるでたった今あったことのように思い出します。そしてもう一つは、私の人格形成に関わる幼い頃からの体験や因果です。

私は子ども時代から上手くいかないことが多く、自己肯定感が乏しいです。この人格自体が反復性うつ病性障害の根本にあると考えていて、歪んだ認知を変えて病気を根治したいという欲求があります。

 

今回の通院で、減らしていた薬の量を元に戻すことにしました。せっかくチャレンジした減薬に失敗したと考えると虚しいものですが、うつ病は一進一退でそう簡単にいかないことは今までに身をもって学びました。

精神疾患を「心の病」と表現されることがあると、「自分でコントロールできる問題」だと錯覚してしまいそうになります。ですが、自分でどうにかできるなら病院も医師も必要なく、抗うつ薬抗不安薬も開発される必要もないのです。

早く治したい・元気になりたい、という気持ちの方向自体は間違っていないのですが、急いては事を仕損じるので、調子の変化を観察しながら気長にやっていくのが、結局は一番の近道なのですよね。

うつ病が酷かったとき体験談

これでもだいぶ回復してきた 小柏まき です。

私は反復性うつ病性障害と診断されていて、今回のうつ病で通院を始めたのが、記録によると平成25年です。

 

うつ病を発症したきっかけや経緯は、自分の中で整理がつかないままなので、いつかこのブログで文字にして整理(調理)して昇華(消化)できたらいいなと考えています。

 

今回はうつ病の症状が酷かったときのことを記します。

  • ほぼ寝たきり状態
  • 言葉が発せない状態
  • 座っていられるがテレビを1番組見ていられない状態
  • 文字は読めるが文章は読めない状態
  • 短い動画なら観ていられる状態
  • 手が思うように動かない状態
  • 泣く気力・集中力がない状態
  • 自殺企図をしていた時期

これらの症状がバラバラに出ていたわけではなく、同時期だったり波があって繰り返したりしてありました。

 

ほぼ寝たきり状態は、言葉の通り一日のほとんどをベッドの上で横になって過ごしていました。鉛様麻痺や起き上がっていると頭が気持ち悪くなってくる状態です。薬を飲むためになにかしらを口にして生きていました。

 

言葉が発せない状態は、例えばコーヒーを淹れてくれようとした家族に「コーヒー飲む?」と声を掛けられたときに、「うん」の一言すらまともに出て来ない状態でした。言葉を話そうとしても頭が回らない感じで、コーヒーは好きだけど飲んでも飲まなくてもどちらでも構わないなと思いながらそれが言葉になって口から出ることはなく、口を開けて「あ……」というくらいでした。

 

寝たきりではなくて居間に座って居られるようになって、テレビに目を向けられるようになっても暫くは番組がひとつ終わるまで観ていられませんでした。初めは興味があって見始めても、30分もせずに頭がぼーっとしてしまって疲れを感じて、観ることをやめて横になるしかない状態でした。

 

文字は読めるが文章は読めない、というのは体験したことがないとピンとこないことでしょうが、うつ病体験者からはよく聞く症状でもあります。メモ書きくらいの単語なら読んで理解することができるのですが、本を読むなどなにかまとまった内容のあるものを何行か読もうとすると、目は文字を追っているのに内容が頭に入ってこない・目で文字を追うのも難しく何度も同じ行を読んでしまうということが起きるのです。

 

座って居られるけれどテレビを1番組観るのも疲れる、かといって人がワイワイ喋っている番組で視覚情報も聴覚情報も多いものはもっと疲れる、というときにはYouTubeでメッセージ性がほとんどない動画を観たり、百円均一で売っているトムとジェリーのDVDを観たりしました。

 

手が思うように動かなくなったことに気が付いたとき、個人的にはうつ病の症状の中で最もショックがあったように思います。元気だった頃の私は、物を作ることに楽しみを感じて過ごしてきた時間が多かったです。幼い頃には「手先が器用だ」と褒められることが嬉しく、大人になってからも誰かが私を褒めてくれるとき「字が綺麗」と言われることが、恐らく一番手軽な褒め言葉だったが故に多く言われたことでした。

手が以前の自分の手がように動かなくなって、自分が自分でなくなってしまったような感じがしました。病気になる前の私は居ないのだと実感しました。

そして考えました。長く生きて年老いた人が若い頃にできたことができなくなるというのは、こういう感覚なのではないかと。老人になったこともないのに、老人の気持ちがわかるような気がしました。

 

泣くことは、涙を流す行為自体がストレス発散になります。涙はストレスホルモンを体液に混ぜて排出するものです。声を上げて泣けば、声を出すことによるストレス解消効果があるでしょう。しかしそれらには最低限の体力と気力が必要なのです。

 

自殺企図とは自殺を企てるということですが、「死にたい」とか「消えてなくなりたい」という希死念慮を抱くときの感情の落ち込みのようなものはなく、自殺することを前提にどうやって自殺しようかと真面目に起きている間中考えている状態でした。

憑りつかれている、というより乗っ取られているようで、心はほとんど動くことがなく頭だけが働いているようでした。

これは連続して2週間くらいの期間続きました。

 

あまり長い記事は自分で読みづらいので、今回はこれくらいにして、あとで思いついたことがあったら付け足したいと思います。

“うつ病減らスンジャー”に(無責任に)入隊!

この度、うつ病減らスンジャー🍀(クローバー)を拝命しました。

小柏まき です。

 

うつ病減らスンジャー】なるものは、鳥本明さんが深夜のテンションで戦隊ヒーローをイメージして作ったもので、うつ病の人口を減らしたい・うつ病の人のツラさを減らしたいという企画(?)です。

www.torimotoakira.com

 

初期メンバーを募集していることは以前から知ってはいたのですが、なにかの活動を継続する自信がなかったので「なりたいです!って安易に引き受けるのも無責任ですよね」といって、内心「私には無理だな」と思っていました。

 

 

どうして気が変わったかというと

 

ちなみに、なったからと言って特に責任はありません。

【ご報告】鳥本明はうつ病減らスンジャーになりました!&隊員募集【ブルーもいるよ】 - これ読んで生き 

勝手に名乗っても大丈夫です。出来たら報告くれると嬉しいです! いつ辞めても大丈夫です。

【ご報告】鳥本明はうつ病減らスンジャーになりました!&隊員募集【ブルーもいるよ】 - これ読んで生きろ

 

上記のように、メンバーを名乗っても特に責任が発生する感じではないので、継続した活動ができなくても気負う必要はないのかなと思いました。

さらに、鳥本さん本人を含めて4人が集まったそうで、とりあえず初期メンバー5人をもう一人で達成しそうでした。迷いましたが、いい機会と捉えて志願することにしました。

 

一番大きかったのは、流されるのもいいかなと思ったことでした。

私は元々、友達が多いほうではなく、自閉的な傾向があります。なので自分の手の届く範囲で満足することが多く、知らないことが沢山あります。

誰かに影響されることで、自分からは始めないようなことを始めてみたり、知らない世界を見たりするのが、結構楽しいということは体験的にわかっているのです。

 

反復性うつ病性障害の私が、今回のうつ病を発症したとき、生活の中心や行動や自分の存在価値さえも自分以外のところに捧げてしまっていました。人に振り回されていたと見ることもできるのでしょうが、私自身が決めてしていたことだったので、全ての責任は自分にあったと思っています。

うつ病を治そうと決めてから、ただ生きることを続けるために生きて、ただ病気を治すために行動を選んできました。

うつ病減らスンジャー】を名乗ることが、少しでも自分の心の負担になるようでは、本末転倒です。

ですが、当事者である鳥本さんの言葉を肩肘張らずに受け取ってみると、単純に楽しそうだなと思ったのでした。

 

うつ病減らスンジャーはそれぞれ、名前に絵文字をひとつ付けています。私はメンバーと被らない絵文字ならなんでもいいかなという感じで、きのうの記事の「幸せとは何なのかと」考えさせてくれた“四つ葉のクローバー”にしました。色で担当を分けるとしたら、なに色なのかモヤモヤさせられた“緑色”になることでしょう。なんだか私らしいです。

 

うつ病減らスンジャー🍀として、私にできることはなんだろうと考えてみました。

私はブロガーと名乗れるほどブログ歴も知識もありませんし、Twitterも影響力があるようなアカウントではありません。

やはり、とにかく嘘の無い言葉を記すことしか、今の私にはできそうにありません。

それでいいのかなと思います。ただの自分をそのまま表していくことが、今後の自分のためになるでしょう。それに、この記事を読んでくれている“あなた”が少しでも何かを感じてくれたら、それにこそ意味があると思っています。

四つ葉のクローバーを探した思い出

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小学校低学年の頃、まだ私が不登校になる前のことだったと思います。

当時少し仲が良かった友人と二人で、近所の草むらになんとなく遊びに行きました。そこにはたくさんの三つ葉のクローバーが生えていて、四つ葉のクローバーを見つけると幸せになれるという迷信に従って、四つ葉のクローバー探しを始めました。

クローバーはまとまって生えているので、沢山の三つ葉のクローバーの中に四つ葉が紛れていないか、しゃがみ込んでそっとかき分けながら見ていくというとても地味な作業でした。

 

長じてから気にして見てみると、四つ葉のクローバーはそれほど珍しくなく、四つ葉のクローバーがまとまって生えているところでは逆に三つ葉を見つけられないんじゃないかと思うくらい沢山あるものですが、当時はそんな場所を見たこともなく、『四つ葉のクローバー=珍しい』と思い込んでいました。

 

子どもにしては、結構長い時間をかけて探していたと思います。途中で何度か諦めようかという会話もしましたが、それをやめたところで面白い遊びや聞いてほしい話があるわけでもなかったので、二人とも四つ葉を探し続けました。

 

すると、もはやどちらが見つけたのか忘れてしまいましたが、四つ葉のクローバーを確かに見つけたのでした。

友人は「あったー!」と言って、すぐさま、その四つ葉のクローバーの茎を葉っぱ近くから千切り取ったのでした。

友人のその行動は私には理解不能で、「えっ」と思っている間に友人は小走りにどこかへ向かいました。私も立ち上がってついて行きながら、「なんで摘んじゃうの?」「沢山の三つ葉に交じって生えてる四つ葉をもっと眺めたかったのに」「いや、そもそも四つ葉のクローバー探しは摘むためのものだったの??」と頭の中がぐちゃぐちゃで言葉がなかなか出てきませんでした。

友人が向かった先は、たまたまその辺に居た知らないお爺さんの元で、それもまた私には訳が分からなかったのですが、お爺さんに友人が喋っているのを聞いてやっと理解しました。友人は誰かに自慢したかったのです。

お爺さんのほうも、子どもが突然寄ってきて四つ葉のクローバーを自慢し始めたので面食らったかと思いきや、なにやら四つ葉のクローバーを見つけたらこうした方がいいみたいなことを語り出しました。たぶん「こんな上のほうだけじゃダメだ、もっと根元のほうから採取しないと。それで採取したら浅い器に水を溜めてそこに入れておけば云々」と言っていたと思います。

私はそれを聞きながら、「いや、どう見てももう上のほうで千切っちゃってあるじゃん。千切る前には戻せないんだし、もう一つ見つけるのなんて疲れと日暮れの時間から考えて絶望的でしょ」と思っていました。しかし知らない子ども相手に一生懸命喋ってくれている手前、話の腰を折るのも気が引けたので、黙って話を聞いた後に適当に別れました。

 

お爺さんと別れる頃にはお爺さんの話に、というか四つ葉のクローバー自体に飽きた様子の友人は、手の中のクローバーを持て余していました。なので、「私、欲しいな」と言うと迷わずに私にくれました。

全てが、あっけなかったです。

 

家路につきながら、私は考えました。四つ葉のクローバーを見つけたら私はどうするつもりだったのかと。そして、幸せとは何なのかと。結局、見つけたいと思ったものを見つけて喜びを感じる、それに尽きるのかな、と。

家に帰って家族にあらましを話して、持って帰って来たクローバーをどうしたらよいか相談しましたが、千切って来た葉っぱはそう長く持たないということになり、次の日あたりに処分したと思います。

 

この体験では、一度生きている状態から切り離してしまえば元には戻せないという、儚さを感じさせられたような気がします。