考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

儀式を必要とする人間【強迫】

不安障害の 小柏まき です。

強迫性障害や社交不安障害、高所恐怖症や、パニック障害も、不安障害という大枠に分類されるそうです。

私は強迫性障害と社交不安障害に主に悩まされていますが、今回は強迫性障害の儀式行為と、高所恐怖症に触れていきます。

 

 

 

近頃はどのメディアを見ても新型コロナウイルスの話題が多いですね。

日本人の危機意識も高まったところで緊急事態宣言が出た印象でした。

少し前、『咳エチケット』や『正しい手洗い』をよく見聞きする時期がありました。

 

 

『正しい手洗い』については、毎年冬頃にテレビやネットで、インフルエンザ予防や風邪予防の情報として見かけます。

そういうのを見ると、「小さな子どもに正しい手洗いをさせるのは難しいことなんだろうな」とか「小中学生になっても、なかなか正しく手洗いしていない子もいるんだろうな」「高齢で、ハンドソープが日常にある生活に慣れていない人も多いのかも」と思ったり、自分の手洗い方法も意識的に見直したりしていました。

 

今回の新型コロナ関連で『正しい手洗い』を強く呼びかける情報を目にしていました。そして、「正しい手洗い方法がわかったから実践しよう」という手洗いに対して前向きな言葉も見かけました。

そこで私には、多少の違和感がありました。

 

今まで『正しい手洗い』ができていなかった人の中で、意識すれば簡単に『正しい手洗い』ができる人が少なからず居るのではないか? と。

……そういう人が今までしていた手洗い、それこそ儀式行為だったのではないでしょうか?

外から帰ったとき・トイレから出るとき、水を流して手にかける。しかし一般に言われる『正しい手洗い』の効果は得られていない、不十分な手洗いは、「そうしないと、なんとなく気持ちわるい」とか「手を洗うよう注意されたくない」という気持ちを解消するための儀式なのではないか。と思ったのでした。

いやもしかしたら、不十分な手洗いをしていてもそれが不十分であると知らなかっただけで、ちゃんと満足感を持っていた人も居るかもしれません。

どんな人のことも、ここで批判するつもりは全くありません。儀式行為は意外と、誰にでも身近にあるものなのではないかと思ったのでした。

 

 

強迫性障害の不潔恐怖は、「きれい好き」とは違うと思います。決定的に違うのは、“ありもしない” 強迫観念に悩まされ、それを消し去ろうと儀式行為をするところです。

不潔恐怖症の人が必要以上に手を洗っているとき、もちろん個人差はあれど、普通ではないことをしている認識が本人にあって、それを苦痛に感じている場合が多いのではないでしょうか。「こんな無意味なことをしている自分は頭がおかしい」「ハンドソープも水道水も時間も労力も無駄にしている」「手が荒れて痛いのにまたやってしまった」などと思っているのに、日常生活に支障をきたす恐怖に支配されてしまうのです。

逆に、こうした苦痛を感じずに必要以上の儀式行為をしている人、それをすることが楽しい人は、治療の必要はないでしょうし、強迫性障害と診断される機会もないことでしょう。

 

 

 

私は高所恐怖症なのですが、頭では安全だとわかっていても高さを感じるとリラックスしていることが出来ません。

自分でも意外だったのは、数年前に映画館に行ったときに、座席の空き加減から後ろの方の席に座った途端に恐怖でじっとしていられなくなったことでした。座ってみるまでは後ろの方の席が “高い所” だと感じるとは思っていませんでした。

上映開始が近くなり、映画館の照明が落とされて暗くてなったとたん、ソワソワと落ち着かず浅い呼吸しかできない状態から解放されました。この場合は不安を払拭する儀式行為は無く、出来る対処法としては視界を遮ることくらいでしょうか。

 

 

合理的な考えを、気持ち・感情に漏れなく反映できたら、不安障害も存在しないのだと思います。

 

 

精神疾患によって往来する様々な感情や衝動をコントロールできないことに、モヤモヤしていました。無益なことをしている、自分にとってマイナスになることに捕らわれている、自覚があっても自分を変えるにはまだ時間を要しそうです。

認知行動療法や暴露療法と呼ばれる精神療法は、このためにあるのでしょう。しかしながら、対面で会話する療法は専門家の少なさと金銭的負担から、受けづらいという難点があります。

 

自分のことを話すと、真摯に向き合って時間と心を使ってくれる人も、この世の中には居て、そういう人と巡り合えることが人生における “救い” のひとつなのだと思います。

根本的にほぼ解決した状態までもっていくのは、自分自身だと思います。病気・障害と適当に折り合いをつけていきたいと、思っています。