社交不安障害と診断されて1年が経った、うつ病の 小柏まき です。
1年経つのに見つからない
診断されて数カ月の間は、一生リハビリをしていくしかないという事実に気持ちが沈んでいました。人生をどういうスタンスで生きればいいかわからないまま、1年が経ちそうになって、保留し続けているのも嫌になってきていました。
目次
症状としての希死念慮
診断を受けたのが昨年4月です。今年の4月には、希死念慮が強い日が続きウンザリしていました。
うつ病やうつ状態には、希死念慮が症状として含まれます。もちろん人によってはその症状がまったく無い場合もありますが、私の場合は “頭痛が酷い日” と同じようにあるものです。
頭痛が酷い日には、頭の痛さで目覚め、薬が効いている間しか痛くない状態でいられません。また、薬を飲めば必ず効くとは限りません。こういった頭痛が酷い日は、今回のうつ病の治療を始めたばかりの頃に比べて大分減っています。これは地道な治療の成果だと思います。
希死念慮も症状の一つだとわかっています。ですが、頭痛のように頓服をもらっているわけではなく、どうにか遣り過ごすしかありませんでした。希死念慮を痛みに例えると、のたうち回って耐えるしかない感覚です。
冷静になった今考えれば、抗不安薬を頓服として使用するのが精神科治療としては適切だったのかもしれません。
根本的に、希死念慮が湧いてくる仕組みを変えるには、自分の何かを変えなければと、あがいてみました。
精神疾患を抱えている人が多いツイキャスを聞かせてもらうことがよくあるのですが、そこで「希死念慮」についてや「自己肯定感を高めるには」などなど質問させていただきました。すると、何人もの人が、心と時間を使って話してくれました。
人の話を聞くことの下手さ
HSPと呼ばれる人間の特徴かもしれませんが、私は人の話を聞いていると、相手の雰囲気にのまれてしまって心がとても動かされます。声の調子などから、話し手のこちらへの気遣いや、自己開示してくれていることの心の痛みを、自分のモノのように感じてしまい、元々の自分を見失ってしまいます。
そして話し手のことを想像して感情移入してしまうので、すべてをそのまま受け取ってしまい、反射的に相手の助言を自分にそのまま当てはめようとしてしまいます。
しかしこれは厄介なもので、話し手がしている話はその人個人のことであり、私個人とは状況も何もかも違っている場合がほとんどです。よって、話し手の気持ちを想像して感情移入して泣きながら聞いていても その想像がただの私の妄想である場合や、内容が話しの発端である現在の私にそぐわない場合があります。にもかかわらず、相手の好意や善意や心の痛みを強く感じてしまい、どの部分が自分に当てはめるべきアドバイスなのかわからなくなってしまうのです。
有り難いことに、何人もの人が心と時間を使っていろいろな言葉を掛けてくれました。その場で感情的に受け取って、活かせないのは勿体なく失礼なことです。冷静に整理して受け取るために、何日も時間をかけてアーカイブに残った録音を数十回聞き直しました。
幾つものアドバイスをもらいました。それぞれを自分なりに取り入れていきたいと思います。
わかったこと
ここでは、大きく分けて2つのわかったことに焦点を当ててみます。
- 希死念慮は感情として湧いてくる
- 合理的な考えをすべて感情に反映できたら不安障害は存在しない
一つ目の、「希死念慮は感情として湧いてくる」は、希死念慮のすべてが感情からなっているという意味ではありません。今回、私を悩ませている希死念慮は、湧き上がってくる強い感情なのだと思いました。
二つ目の、「合理的な考え」というのは、「○○する必要はない」というような頭でわかることです。「○○する必要はない」と自分に繰り返し言い聞かせて慣れていくことで、少しずつ感情をコントロールできる部分もあるでしょうから、頭で理解することにも意味があります。しかし、理解しているからといって感情をコントロールできるとは限らないのです。
不安障害には、パニック障害や恐怖症などがありますが、ここでは高所恐怖症に例えます。高所恐怖症の人が建物の高層階の窓から外を見下ろして、恐怖で呼吸が浅くなったり鼓動が早くなったりするとき、頑丈な建物の中に居て安全であることや、高層階の窓は嵌め殺しだから自分の身体が落下することはないことを、理解していないから恐怖を感じるのでしょうか? 頭ではわかっていても、だからといって簡単にコントロールできない。それが強い感情です。
ここでようやく気がつきました。感情をコントロールしようとばかりしていた私は、間違っていました。
「希死念慮をどうにかしたい」と思い過ぎて、希死念慮を持ってしまう自分を否定的にしか捉えられていませんでした。
これこそが、認知の歪みだったのでした。
今度は、失恋した友人の悩み相談という名の慰めの会を想定してみます。
好きな人に振られて泣きじゃくる友人に、どんな言葉を掛けるでしょうか?
「どうしてそんなに傷ついてるの?」「好きだからツラいなら好きじゃなくなるといいよ」と言うでしょうか?
強い感情の中にある人に、その感情を抑える話をしても、「受け止めてもらえない」「否定されている」と受け取られて、感情を感じ切ることができなくなっても仕方ないでしょう。その助言が善意によるものであるか否かや、理にかなっているかは、別の問題なのです。どうにもならないことで感情が溢れるのは、心の健全な働きなのですから。
強い感情に苛まれる自分自身に、「そんな感情を持つのはやめなよ」と、私は言い続けていたようなものでした。
Twitterでフォローしている心理系のbotアカウントのツイートでも、日常的に恐らく目にしているはずのことが、私には出来ていませんでした。
感情を感じることは悪いことではなく、その感情をちゃんと感じ切ることは、人生を歩んでいく中で大切なことです。逆に感情を抑えつけて遣り過ごそうとすると、自分で納得して次のステップに進むことの妨げになったりするものです。
私は今まで、「病気を治したい」「自分を変えたい」と少しずつ考えグセを矯正してきたつもりです。ですが、病気になってしまった自分・障害の苦痛に耐え続けて生きてきた自分を、認めて受け入れてあげることを疎かにしていました。
感情を感じている自分を認めてあげなければ、と思いました。
「○○でなければいけない」という考え方は、うつ病患者が自分自身にプレッシャーをかけてしまう、やめるべき思考グセだといわれますが、ここで私が思った「自分を認めてあげなければ」は「自分を、大切な誰かを扱うように扱ってあげよう」という肯定的なものでした。
私は自己肯定感が低く、自己肯定感を高める方法を探していました。
自己肯定感を高めるために必要だったのは、自己受容でした。
自己受容は、自分のいいところも よくないところも許して受け入れることです。それが出来て初めて、いろんな側面を持った自分を肯定する自己肯定感を高めることができるのです。
そんな今
この考えに至ってから、以前のような希死念慮に支配されることが今のところ無いのは、たまたまかもしれません。
思い返せば、今回のうつ病の初めの頃は、感情を感じることができませんでした。怒る気力も泣く集中力も、ありませんでした。当時は自分が強い感情について悩むときがくるとは思ってもみませんでした。
時間をかけて、治療が進んでいるんだなと思います。
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