考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

【反復性うつ病性障害】と【強迫体験】

うつ病を患っています、小柏まき です。

 

【反復性うつ病性障害】と、診断書にはあります。

頭痛鉛様麻痺(身体の怠さ)、肩凝り、意欲・決断力・記憶力の低下、気分の落ち込み、希死念慮自傷行為、などの症状があります。

 

頭痛に関しては、元々片頭痛持ちなせいもあり、原因の特定はまず無理なので対症療法です。うつ病になってからの頭痛とは、朝酷い頭痛がする夢を見て、痛みが実際のものだと気付いて「頭痛い……」と言いながら目を覚まし、頭痛薬が効いている時間しか痛みから離れられないというものです。

 

鉛様麻痺は、以前の『小学校・中学校 不登校体験談①』に記したような、起き上がれないほどの怠さのことをいう呼び名らしいです。私の感覚としては、「この怠さはインフルエンザに罹ったかな……でも高熱独特の浮遊感がない」「どうしたんだろう?重力が何倍かになっちゃったのかな?」という感想を持つ症状です。

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自傷行為というのにはいろいろな種類があります。イメージしやすい刃物で手首を傷つけるようなものもそうですし、皮膚を掻きむしったり、爪を噛んだりすることも、自傷行為に含まれるそうです。ニキビを潰してしまう、小さなカサブタを剥がしてしまう、という程度のことは、精神疾患と診断されたことのない人でもあるのではないでしょうか?

また、OD(オーバードーズ)や、苦しいのに食べ続ける過食なども、広い意味では自傷行為だと考えられます。

 

 

診断書にはその他に、【強迫体験】があります。

強迫性障害といわれるものです。強迫観念(不快・不安・恐怖)と強迫行為(儀式行為)からなって、生活に支障をきたすものです。強迫観念に繰り返し囚われてしまって、それを振り払うための行為をします。また、この不快・不安・恐怖は、実際には抱かなくてよいものだということを自覚しています。

 

潔癖症といわれる不潔恐怖では、例えば、こんな思考と行動になります。

医師の話では、不潔恐怖の人がもっとも共通して強迫観念を抱きやすい対象物は“お金”だそうです。たしかにお金は、いろんな人の手に渡って来たものが多いですよね。そして一般的に価値があるので、少々汚くても持っておきたいです。例え泥水の中に落としてしまった硬貨でも、拾って使います。ということは、お金は自分の手元に来るまでに誰がどんな扱いをした可能性もあるのです。そう考えると、お金を触った手を洗わずにおにぎりやサンドイッチを食べるのに抵抗が出てきます。

強迫性障害とは無縁でも、食事の前に手を洗う習慣がある人は多いと思います。

 

衛生観念は人それぞれで、実害がないとわかっていても気になる部分がある人も居るでしょう。生活していて苦しさを感じなければ、普通に生活ができれば、全く問題はありません。

 

 

強迫性障害の厄介なところは、「強迫観念は合理的でなはく、強迫行為は意味がない」と自分でわかっているところです。わかっているのに不合理な考えで頭がいっぱいになってどうしようもないので、仕方なく無意味な行動を取って自分を納得させるのです。不合理なことに強迫観念を抱く自分、そして無意味な行動を繰り返す自分、更には強迫観念と強迫行為によって生まれる不利益を意識し、恥ずかしくて情けなくて仕方なくなります。

恥ずかしくて情けなくて仕方ないのに、やめられない。このせいで自尊心は傷つきます。「自分は頭がおかしい」「私はキ〇ガイだ」と思って、消えてなくなりたいと思ってしまいます。

 

 

この病気を治す、もしくはそれなりに生活できるようになるために、月に一度は通院して、現在は6種類に減った処方薬を服用しています。

以前は7種類の薬が処方されていたのですが、頭痛が酷い日が減ったので頭痛薬をなくしました。抗うつ薬抗不安薬眠剤・胃薬を服用しています。抗うつ薬は3種類ですが、主治医と相談しながら、そのうちの一種類を以前の半分の量に減らしてみています。

サッカー日本代表をやんわり楽しんで応援したい

サッカーは観る派の 小柏まき です。

小学校の体育の授業でサッカーをやった記憶はありますが、なにせ走るのも球技も苦手な私には全く向かないスポーツでした。

 

先日、イニエスタがJリーグのヴィッセル神戸に移籍して、自分の中のサッカーへの注目度が高まっているのを感じます。

きのう、ロシア・ワールドカップの代表メンバーが決定しましたね。

 

サッカーを観戦するきっかけになったのは、テレビ局に遊びに行ったことでした。たまたまテレビ朝日に行った日が、『やべっちF.C.』の公開生放送の日でした。せっかくだから観ていこうという軽い気持ちでその場にいました。ナイナイの矢部さんは、サービス精神がしっかりしていてテレビの中と同じでした。川平慈英さんは、カメラが回っていなくても動きがキレッキレでした。

それまでサッカーに特別な興味を持ったことはありませんでしたが、一緒に居た当時の恋人がサッカー部出身だったこともあり、ルールを教わりながらテレビ観戦するようになりました。

 

その年にあったのが、南アフリカ・ワールドカップでした。なので日本代表の試合を観て、日本チームが勝つごとに、楽しさも増しました。ワールドカップが終わっても、日本代表の試合を中心にテレビで観戦していて、サッカーショップに行ったりサッカーミュージアムに行ったりしました。

そんなときに、彼がユニフォームのレプリカを買うと言って、ついでに私の分も買ってプレゼントしてくれました。テレビで観ているだけのときにも、それを着ていました。

 

あるとき、日本代表の国際試合のチケットを取って、直接観戦することになりました。南アフリカ・ワールドカップが2010年、翌年の3月に観戦する予定でした。結局、そのチケットは払い戻され、私はいまだに日本代表の試合を生で観たことがありません。

 

その後はJリーグの試合を観戦しに何度かスタジアムに足を運びました。彼と観戦して、得点するとハイタッチして喜びました。

 

今年は2018年なのですね。あれから、そんなに時間が経ったという実感がありません。暫くの間、テレビでもサッカーを観ていなかったせいで、代表選手の入れ替わりにも、ついていけないままの頭です。本田選手、香川選手、岡崎選手、長谷部キャプテン、吉田選手、川島選手、長友選手、彼らが変わらずに活躍してくれていることが救いです。

 

なんだか楽しい思い出が、どんどん過去になっていきます。

ここには、過去に縛られている自分と、何代も前のユニフォームが、残っています。

禁煙したタバコ屋育ち

本日5月31日は『世界禁煙デー』だそうです。今回は、喫煙について記してみようと思います。 

 

健康増進法』が施行されたのが何年前のことだったのか、よく憶えていませんが、この法律ができたことで受動喫煙への関心が高まりましたよね。

受動喫煙については、喫煙者が喫煙中に同じ空間に居ること以外でも、喫煙者の髪の毛や衣服についた煙を周りの人が吸ってしまうことを「三次喫煙」というそうで、ある自治体の役所では「職員は喫煙後45分間エレベーターの使用を禁ずる」という取り組みをしているそうですね。

 

過去には私にも、日常的に煙草を吸う習慣がありました。

煙草との出会い、吸い始めたきっかけ、禁煙するきっかけなどを振り返ります。

 

元々は実家が“たばこ屋”をしていました。しかしながら、家族には喫煙者が居ないという、馴染みがあるんだかないんだかよくわからない距離感で育ちました。

少なくとも、家で煙草屋をしていなかったら、私が育った家庭の形はなかったことでしょう。

これは私自身が大人になったときに、煙草を手に取っていたかどうかにも関わっていると思います。

 

子どもの頃、家の玄関の外には、赤地に白抜きの「たばこ」という幟と、煙草の自販機とジュースの自販機がありました。幟と同じく赤地に白抜きの「たばこ」の文字がこちらは横に並んでいるテントが、頭上の壁からせり出していて、その下に煙草屋のカウンターがありました。カウンターはショーケースのようになっていて、そこに近付くとセンサーが反応してピロピロ~ン♪と鳴るのでした。

店主は祖母で、ほとんどの日にお店を開けていました。

 

高校卒業後に上京した私は、20歳になりました。それから、煙草を吸っている人に影響を受けたりしながら、幾つかの種類の煙草を吸ってみて、手に入りやすく吸いやすいものを習慣的に吸うようになりました。

 

健康増進法が施行されたり、煙草が値上げされたり、いろんなことがありました。日常的な喫煙の動機は、やはり深呼吸と気分転換です。そして、喫煙していて得だったと思う唯一のことは、喫煙所に集まる人と会話をする機会を得たことです。普段特に直接関わる機会のない人でも、喫煙者は喫煙所に集まって休憩時間を過ごすので、仲の良い人ができたり、人が多い場所ではしにくい話をしたりということがありました。

 

そうやって数年は喫煙者だった私ですが、いろいろあって地元に帰って実家で暮らすようになりました。

それから暫くして、家族に大きな病気が見つかりました。そして、副流煙を家族に吸わせたくないという理由で、禁煙しました。

 

禁煙の方法は単純なものでした。

「禁煙しよう!」と決めた瞬間に吸っていた煙草をもみ消し、残りの煙草を捨てて、その後は夢に出てこようが吸いたくなろうが、とにかく我慢しました。

家族の命の問題に直面している時期だったので、動揺している分、決意が固くて、たまたまうまくいったのだと思います。

 

禁煙に成功してみると、お金はかからないし、消化の確認を気にしなくていいし、飲食店で禁煙席に座れるしで、いいことしかありませんでした。

ですが、煙草屋で育って、喫煙者になってみた経験は、今の私を形成するのに必要な体験でした。

喫煙者の気持ちがわかりますし、『煙草=悪』みたいに思うことはありません。国は税収があるわけですし、煙草を製造・販売している人も、世の中には居るのです。

美人ベテランBAさん

コスメを見て回るのが好きな 小柏まき です。

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この記事でも書いたように、素敵だと感じるものと出会うといつまでもずっと眺めていられそうな、傍から見たらオタク的な面が私にはあります。

 

病院に行くときに街に出るので、用事が済むとデパートの化粧品売り場『コスメカウンター』に行くことがあります。

とはいえ、BAさん(ビューティー・アドバイザー)に「今日はお休みなんですか?」「お仕事のときのメイクはどんな感じですか?」なんて訊かれると、「ええ、まぁ」「大したアレじゃないです」とかわけのわからないことを言って誤魔化しながら徐々に半歩ずつ移動して逃げる、という変な客なわけです。

「病気で働けていないんです」と言ってもいいのかもしれませんが、そうすると接客する側からしても、購入の見込みが薄いなと思いながら応対しなきゃいけなくなるので、当然面白くない感じが態度にも出てしまうんですよね。

だからといって、私がその場から居なくなったとしても他に相手に出来るお客さんがすぐ来るとは限らない田舎なので、相手をしてくれるとは思うのですが。他にお客さんが居るときは、できるだけBAさんを独占しないようにしています。

という風に、買わない客は買わない客なりに気を遣っているわけです。本来は欲しいものは少し迷って買えるくらいの財力があればいいのですが、仕方ないです。

 

昔は化粧品売り場の、というかデパートの店員さんって、結構見た目で接客態度を変える人が多かった印象だったのですが、近頃はそういう嫌な印象を受けることはほとんどありません。単純に、昔は私が若かったからとかメイクが下手だったからとかなのかもしれませんが、店員さんの質が上がったこともあるのかなと思います。

「どうせ何も買わないんでしょ」的な態度を取られるのが怖くて、編み出した方法があります。まず同じ階にある有名ジュエリーブランドへ行って、新作のカタログを貰います。それを持ってショーケースを見て回ると店員さんが「袋、お使いになりますか?」と言ってカタログを紙袋に入れてくれます。お礼を言ってジュエリーブランドから出てくると、もう他のお店の店員さんから見れば“有名ジュエリーの紙袋を提げた客”に見えるのです。姑息ですが、私はカタログは貰えるし店員さんには優しくされるし、店員さんは期待を持って接客できるし、誰も嫌な思いをしません。

 

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店員さんの接客態度というのは、そのブランドによって結構違うので、教育の仕方が違うのだと感じます。

そんな中でも、どちらかというと価格設定がお高めで、元々はフランスの香水ブランドとして始まったコスメブランドがあります。私はそこで買い物をっしたのは、かなり前に一度くらいしかありません。ですが香水類がとてもいい匂いのものが多いので、いろんな香水を散々試させてもらって、何も買わずに帰ったことがあります。驚いたのは、その後そのブランドに新作コスメを見に行くと、BAさんの一人が憶えていて声を掛けてくれることです。「前は香水をお試しになった方ですよね」「また来てくださったんですね」と、マスクをしていても、髪型が違うときも、すっぴんに日焼け止めだけのときも、です。

このBAさんはベテランっぽいのですが、元々が美人なうえにメイクも綺麗にしていて、更に接客が素晴らしいです。一体彼女の記憶力はどうなっているのでしょうか?

もし次にこのブランドでお買い物できるときが来たら、このBAさんから買いたいと思わせてくれます。もっと言えば、彼女のように綺麗に聡明に年齢を重ねられたら素敵だなと、憧れてしまいます。

非弱肉強食は進化か?

弱肉強食の“弱肉”になりたいと、思っていた時期があります。

「世の中結局は弱肉強食だ」と言う人も居れば、「弱肉強食の世界だったら生きていけない」と言う人も居ます。

私は強くなれないなら、強い者の糧になる弱者で構わないと思っていました。そうやって強い者が残っていけばいいし、強者でも食べずに生き長らえるわけではないので肉になる弱者が必要なわけで、それなら弱者は肉になることで強者の・世の中の役に立つと考えていました。

 

ところが現代の人間の世の中は、弱者を一思いに肉の塊に変えてはくれません。

弱者は弱者のまま、負け続けながら、気まぐれに差し伸べられた手を借りながら、生きていくのです。

 

歴史ある宗教に反して、生物は進化をしながら続いてきたというのが、現代の人間の科学が日常にしみ込んだ、いわゆる普通の考え方でしょう。

進化していく限り、長い目で見れば必ずよくなっていくことになります。

 

 

この国は安全で、物質的にも豊かだと思います。情報のやり取りも活発で、捌ききれない情報はあえて遮断するくらいです。

そしていろいろなことを外部化できるようになりました。暗算しなくても電卓で計算できますし、文字から想像しなくても画像で見られます。画像から想像しなくても、動画を観ればもっと直接的に見ることができます。

この文明の利器は、進化なのでしょうか?

 

個々のヒトという動物を考えたとき、普段から電卓を使っているせいで暗算の能力が低下するのは……、想像力を働かせなくてもイメージが手に入り満足するのは……、これらは個体にとっては退化なのではないでしょうか。

ヒトという動物は集団社会を作って文化的に生きているのだから、些末なことに脳の処理能力を使わなくて済むようになったのは、人間としての進化でしょうか。

 

 

性質も嗜好も、多様化しています。いや正確には、多様化を認めるようになりました。

弱きを助け、補い合い支え合って生きるのが、今の世の中のあるべき姿なのかもしれません。

 

ですが始めに記したように「弱肉になりたい」弱者は、医学の進歩に助けられ、国の制度にお世話になり、不甲斐ない思いを抱えながら生きていかなくてはいけないのでしょうか?

 

私は、毎食後と寝る前に薬を服用しています。毎月、通院しています。

私は、できることなら人の役に立ちたいです。献血をしてみたいですが、薬を飲んでいるのでできません。

 

今思うのは、ただできるだけ生きることを続けること、できるだけ病気がよくなるようにすること、それだけです。

今生きているのは、いろいろな人に助けてもらって、運よく今まで死ななかったからだと思っています。一度途切れてしまえば、その後は無いのです。続けることは、可能性を残すことです。

今は、肉になりたいとは思わなくなりました。

子どもの頃の絵~不本意なユネスコの賞~

子どもの頃の夢は、「画家」でした。画家のことは何も知らずに、絵を描くのが好きだからという理由で言っていました。

その後、「ケーキ屋さん」や「お嫁さん」になりたいと、周りの子たちに合わせて適当なことしか思いつかない子どもでした。

 

小学校3年生の図画工作のときに、『ゴールデンウイークの思い出』かなにかのテーマを出されました。図画工作の先生は、当時の担任の先生ではなく図工の時間になるとやって来るオジサン先生でした。

オジサン先生は、「とにかくこの授業の時間中に描き上げて」と何度かみんなに言っていました。そこで私は、『バーベキュー』と題した絵を描きました。河原に大人が2人と子どもが4人、子どもたちはそれぞれに遊んでいて、大人たちはバーベキューの支度をしているような絵だったと思います。私にとってはその河原でのバーベキューが、絵に描きやすい“わかりやすい思い出”でした。私はやることが早いタイプではないので、適当に題材を決めて、時間内に仕上げるためにいつもよりずっと適当に絵を描きました。突然言われてその時間内に描き上げるのだから、それなりのものを提出しておけばいいという考えでした。

 

それからどれくらい経った頃だったでしょう、全校集会の前に担任の先生から「今日は表彰されるから、名前を呼ばれたら返事をして前に出てください」と指示されました。それまでにもそういう機会はあったので表彰されること自体は嬉しかったのですが、このときは何で表彰されるのか、全く心当たりがありませんでした。表彰状とは“横長の薄い黄色っぽい紙に、縦書きで筆で書いたような文字が並んでいるもの”だと思っていた私には、「こういう賞状もあるんだ」と思わせる、縦長の白い紙に横書きのワープロ文字の表彰状が授与されました。

教室へ帰った後、担任の先生が改めて何の賞をとったのか説明して、クラス皆で拍手をしてくれた気がします。それはユネスコの賞でした。たぶん、全校生徒のうち10人くらいが受賞していて、受賞作品は市の施設に展示されるというものでした。その作品が、あの“適当に描いた絵”だったのです。

 

当時はユネスコがなにやら国際的なものだということすら知らなかったのですが、家族は褒めてくれましたし、うちの小学校は全校生徒が千人以上いたので、その中の10人くらいに選ばれたというのも嬉しかったです。ただ、やはり“適当に描いた絵”で評価されることには、不満が募りました。どうしてあんな短い時間で描いた絵をコンクールに出すのか、どうして適当に描いたのに選ばれてしまったのか、複雑な心境でした。しかしせっかくもらった賞だからと、展示されている施設へ家族で見に行くことになりました。

 

『バーベキュー』と題したはずの絵は『バーベキュウ』と微妙なタイトル変更をされて飾られていました。描いたその日に提出してしまってずっと私の手元になかったので、自分でちゃんと見る機会がなかったわけですが、ほかの絵と並んで展示してあると、それなりに個性を持った絵に見えました。

ですが、私は気づいてしまいました。この絵がどんなシチュエーションの絵に見えるのか。大人2人と子ども4人、審査の先生には、きっと“家族”でアウトドアに出掛けた様子に見えたのでしょう。実は私は、両親ときょうだいでバーベキューなどしたことがありません。その絵の題材になった体験は、私達きょうだいが、叔父と叔母といとこに連れられて初めてしたバーベキューでした。河原で水遊びをするのも、たぶん初めての体験でした。

私の親は、休日に子どもを連れて出掛けたがるタイプではありませんでした。家族全員インドア派だったのですが、親戚は外に出掛けるのが好きなタイプで、このとき以外でも私たちを連れて少し遠出してくれることがあったのでした。

 

絵が、恐らく誤解されて選ばれたことに、私の中ではじわりじわりと嫌な気持ちが溜まっていくようでした。

その後、台紙に張られたタイトル付きの絵が返却されてから、『バーベキュウ』は家の居間に飾られることになりました。数年間は飾っていたように思いますが、ときとき私は、自分が“アウトドアに連れて行ってくれない親”を責めているような気がしてしまうのでした。

そして、やる気なく描いた絵で賞をとったことで、絵に対する描きたい気持ちも、見失ってしまったようでした。

【義務教育と不登校】学校教育って

小学校の途中から中学校を卒業するまで、不登校でした。

その後、中学と高校の教員免許を取得した 小柏まき です。

 少し変わった経歴ですが、私を構成するものの中で欠かせない部分なので、学校教育の特に義務教育についての考えを記しておきます。

 

 

考えていること

 

 本来は仕事させられて学ぶ場を与えてもらえない子どものために学校教育がある。自発的な疑問を子どもが持った時に訊ける大人が居る、っていうのが大事なこと。昔は近所の大人が教えてくれる子も居た一方で知りたいことがあっても教えてもらえない子が居た、それを全国的に均一にしようとした筈が…

 

 教諭の質を保つのが難しい。小学校・中学校・高校を卒業して大学を卒業して、そのまま学校に就職してしまう、するとその人は”学校”以外の社会を体験的には知らないことになる。

 教諭や学者には「教えたがる」人が居る。学校は「教える場」より「教わる場」であるべきで、そこには子どもの学びたいという意思があるべき。ただ、何も知らないと何かを学ぶ気にはならないので興味を持つような情報を知らせる必要はある。


 学校には子どもに対する教育以外の事柄が多すぎる。例え教諭がどんなに子ども想いでも、他の仕事が多すぎるために教諭は酷使されている。なのに学校での事柄は教諭の責任を追及される。

 地方公務員は特別儲かるわけでもなく潰しも効かない。批判をするのは簡単だ、代替案を提示しないのは。


 私は学校に行けなかったことを誇りには思わないし、何もなしに他人にお勧めすることもない。

 学校に行けないから死ぬか生きるかという問題に発展するくらいなら、勿論行かなくていいと意見したいけれど。

 教科を学ぶには学校の授業は経済的にも労力的にも楽だから。学校に行けない・行かない子どもにとって、もっと魅力的な居場所があればいいなと思う。

 

 

 本来は、小学校などでは、まず概念を教えるはず。

 例えば、算数は論理的思考のための概念を教えるもので、実用性のない公式を教えるためのものではない。

 国語の「この文の作者の気持ちを考えよ」も、作者の本当の気持ちなんかわかるわけがない前提に立った上で想像力を働かせて意図を汲み取ることを教える。

 

 現代社会で生きていくのに必要な学力をつけるのは義務教育のうちに終わるのが当然であるべきで、才能ややりたいことがある人には中卒は充分な学歴だと思う。

 大学でやりたいことがあるとか、可能性を探すとか、理由があれば行けた方がいいが、お金のこともあるので一概には言えない。
 
 
結局のところ
 
 たまに、現代日本人のある種の考えが垣間見える言葉に触れる機会があります。それは、「こんなに大切なことを学校で教えないなんて」「学校って先生ってなんだろう?」という、『教育=学校教育』『先生=学校教諭』という考え方・捉え方です。
 
 初めに記したように、学校教育というものをその成り立ちから考えてみれば、国がやっている国民に広く学ぶ権利を与えた場が学校です。
 それを考えれば、ある地域では当たり前のように教えていることを別の地域では全く教えないといった、差は少ない方がいいのです。義務教育でどういった事柄を教えるかは、10年に一度改定される教育基本法で決まります。つまり、10年単位でその時代に合ったことを、ある程度均一に学ぶ機会を与えるのが学校です。
 ですから、生きる上で大切なことを知る機会の全てを学校教育が担っているわけではありません。学校で教えてくれないことはあって当たり前です。
 
 義務教育は子どもの義務ではなくて、保護者の義務です。それは義務と設定しないと、「子どもに家の仕事をさせたいから」という理由で子どもの学ぶ機会を取り上げる親が居た、という過去があってのことです。
 不登校の子どもを持つ保護者は、学校へ行くことを初めから全く勧めなかったり、子どもが学校に行きたがっているのに無理やり引き留めたりしていない限り、「自分の義務を果たしていないんじゃないか」と思い悩む必要はありません。その子に合った環境にできるだけ居させてあげるのが、義務教育が義務になる以前の目的だからです。