考えの調理場

不登校から教員免許取得。【反復性うつ病性障害&強迫性障害】女の、考えの調理場。

会食・対人恐怖との共生【SAD】

外出するとほとんどの場合、具合が悪くなる 小柏まき です。

うつ病を繰り返し、強迫性障害に悩まされるほかに、というべきか、それらがそれぞれに関係しつつ厄介な状態にある中に含まれているというべきかわかりませんが、社交不安障害は私にとって大きな要素の一つです。

 

 

社交不安障害(SAD)の症状で、パニック発作が起きてしまうことが、私の人生ではとても大きく日常の生活や楽しみを侵害します。

 

元彼とは9年半付き合いましたが、夫婦に近い関係であったにも関わらず、社交不安障害の対人恐怖の対象外にはなりませんでした。

あるとき、二人で飲食店に行って さあビールを飲もうというときに、会食恐怖が表れて自分がバラバラになってしまいそうな強い不安と、どうやってビールを口に運んだらいいのかわからない、手が身体がどんな姿勢を取っていいかわからなくて震えてしまい、“ビールを飲む” という行動が出来なくなってしまった……ということがありました。

 

美味しい物を飲み食いする満足感や、外食に出掛けた楽しさは、強い不安にかき消され、相手に変に思われているのではないかと恥ずかしくて仕方なくなり、そんな些細な楽しみさえ満喫できない自分が心底嫌になり、消えてなくなりたい気持ちでいっぱいになります。

 

これは生まれ育った実家の家族でも同様で、私はしばしば食事のときに静かに絶望していました。

近頃は うつ病の状態がよくなってきたためか、毎日欠かさず家族と一緒に食事しているための慣れか、家族との食事で発作に悩まされることはめっきり減りました。

 

 

これで、個人的に会食や人との交流が嫌いだったら、機会を避ける方だけ向いていられたのにと、悲しくなります。

 

 

会食恐怖以外の発作で厄介なのは、いわゆるパニック発作です。

例えば、電車に乗ると、頭が気持ち悪い感覚や頭痛・目眩・温感冷感(発汗・暑さと寒さが同時にある)・息苦しさ・身体の脱力や震え・悪心 などの症状が出ることが多いです。

電車に乗るばかりではなく、人が往き来する場所へ行っても同じことが起こるので、街中や美術館では大抵具合が悪くなります。

 

しかし、私にとっては発作が起きて苦しいのは当たり前のことなので、電車で通勤通学していましたし、見たい作品があるときには美術館に行きます。

苦痛があるから、という理由で行動せずにいたら、楽しいことの多くを諦めなくてはいけないからです。

 

 

そして、ツラいのは対人恐怖です。

店員さん、主治医、知人、親戚……。顔を合わせただけで、極度の緊張状態になって、立っている(座っている)姿勢が保てないくらい身体が震えて、コミュニケーションを取ることや最低限の必要なやり取りさえどうでもよくなり逃げ出したい一心になります。

症状が出ないときもあります。症状が出るときと出ないときで何が違うのか、全くわからず予測できません。

挙動不審なコミュ障というキャラでいいのに、変な奴と思われたってどうでもいいのに、考えや気持ちや体調を精一杯整えても、症状が出るスイッチは私の意思とは別に勝手に入ってしまうのです。

 

 

また、こういった症状は、恥ずかしいので隠したい気持ちが働くのと、自分の話をするというコミュニケーションを取らなくてはいけない上に、それを乗り越え意を決して話しても理解されないことが多いです。

 

実際に、主治医に相談しても、少し的外れなアドバイスを受けます。「それが出来ないのが問題なのだけど……」という感じです。

緊張する場面に使える頓服はありますか? と訊くと、普段から食後に飲んでいる抗不安薬を、一日量を変えずに時間をずらして飲む方法を勧められました。

 

心身ともに、疲弊してしまいます。

セーラームーンチャレンジやってみて

トレンドに乗り遅れても、その場ごとの楽しみ方をしていきたい 小柏まき です。

今年の5月頃だったでしょうか、「#セーラームーンチャレンジ」のタグが日本で流行しました。もともとはもう少し前から「#sailormoonReDraw」というタグで外国を中心にSNSで流行っていたそうです。これは、セーラームーンの25周年を祝して、プロアマ問わず “自分の絵柄でセーラームーンを描く” というものでした。

 

こんな楽しそうなブームに乗らない手はないと、チャレンジすることにしました。

 

f:id:ogasiwa_maki:20200629142048p:image

 

アニメ『美少女戦士セーラームーンS』の36話(シリーズ累計125話)のワンシーンなのだぞうです。

 

 

描いてみて改めて、キャラクターデザインが際立っていることを思い知らされました。

髪型や服装に特徴を持たせたキャラクターに設定することで、表情や角度が変わっても同一キャラだと認識しやすいものです。

セーラームーンは、格闘・恋愛・コメディーチックな、それぞれのシーンによって表現のされ方が変えられていると思います。どんな時でもセーラームーンセーラームーンに見える、というのが凄いなぁと感じました。

この『セーラームーンチャレンジ』も、キャラクターデザインがしっかりしていることで、違う絵柄で描かれていてもそれがセーラームーンだとわかるからこそ成立していると考えられるのでした。

 

それから、私は縦長の画面で描き進めてしまったことで、本家には描かれていない部分を描く必要が出てきてしまいました。それは、胸元のリボンの結び目にあるコンパクトです。この部分のコンパクトやブローチは、シリーズ毎にデザインが違ったアイテムになっています。今回描いたシーンは『セーラームーンS』であることから、それに相応しいアイテムを調べて描きました。

調べてみて、コンパクトだけでなくイヤリングやチョーカーなど様々なアイテムが、シリーズによって変えてあることを知りました。

 

今回、自分なりの絵柄・画風で有名なキャラクターを描いてみて、自分らしい絵ってどんなのかな? と考えたりするキッカケにもなりました。楽しいと思える範囲で流行に乗ってみるのもいいなと感じました。

ご時世の絵を描いた~アマビエ編~

たまに絵を描く 小柏まき です。

【疫病退散】の力を持つとされる妖怪『アマビエ』の絵を、新型コロナウイルスが蔓延する中で、よく目にするようになりました。

ja.wikipedia.org

 

半分人間で半分魚のような見た目の妖怪とされていて、疫病が流行した際には己の姿を絵に描いて人々に見せるように言ったそうです。

 

このアマビエが他の妖怪と違っている点は、予言する能力や疫病を鎮める能力を持っていることと、姿が元々設定されているところです。

水木しげる京極夏彦が好きな人はご存知だと思いますが、妖怪は元々はキャラクターではなく現象です。例えば、屋外にもかかわらず、まるでそこに見えない壁があるかのように先に進めない現象を「ぬりかべ」と呼び、キャラクターとしての姿はその現象を説明するために作られたものなのだそうです。

 

そんな不思議なアマビエ、いろいろな人がいろんなテイストの作品を制作してSNSに投稿しているのを見て、私も描いてみたくなりました。

f:id:ogasiwa_maki:20200607172509p:image

左のは、人がアマビエの衣装を着てるイメージで描きました。

右のは、幼な子っぽさと金魚っぽさを合わせて描いてみました。

 

 

右の絵が気に入ったので、線画にして “塗り絵” にしてアップしました。

これは、以前オリジナルの線画を塗り絵として使わせてくれた方々がいて、私が散々楽しませてもらった経験があったので、真似してみました。おうち時間を少しでも楽しく過ごすことに使ってもらえれば嬉しいと思いました。

 

f:id:ogasiwa_maki:20200620165208p:image

こちらが塗り絵用の線画です↑

すると、塗り絵してくれた方がいました!

 

お一方は、我らが『うつ病減らスンジャー』のキャプテン、鳥本明さん。

プリントアウトして手に入れたばかりの色鉛筆で塗ってくださいました。アナログならではの手作業感が伝わってくる淡い発色のさせ方によって、複数の色を使っていながら優しく寛容さがある作品ですね。

 

もうお一方は、前述した「以前オリジナルの線画を塗り絵として使わせてくれた方」、おばけさん です。

細かいところまで手が掛けられていて、大切に時間をかけてくれたことがわかります。立体感や質感まで伝わってくるような、アマビエの存在が想像させられる、完成度の作品ですね。

 

【追記】

ブログ記事のリライト方法を理解しておらず、追記するまでに半年近く掛かってしまいました。2020.12.09

 

前述の「以前オリジナルの線画を塗り絵として使わせてくれた」というのは、線画を おばけさん が、元の絵を ぷみさん が描いてくださったものでした。

ぷみさん も、アマビエの塗り絵にご参加くださいました。

全体が独自性のある色味で構成されています。個性的でありながら毒々しさを感じない、配色と表情が絶妙ですよね。

お二方作の塗り絵に参加させていただいたときの、ぷみさんの絵を思い出させる、ぷみさんらしさを再び見せつけられた作品でした。

 

お三方とも、塗り絵にご参加くださってありがとうございました!

自分の描いた絵を誰かが塗ってくれると、こんなにも嬉しいものだとは思っていませんでした。私自身が持っていない感覚や個性が感じられて、幸せです。

 

 

ちなみにですが、このアマビエの絵を描くときにどう描いていいか迷いどころだったのが、三本足(3つのひれ?)であるところです。半分人間とはいっても、人間の足を3つ付けると可愛らしく描けなくて試行錯誤しました。

仮に魚の尾ひれが3つ付いているとしたら、どうやって泳ぐのでしょう? 一つの大きなひれのように動くとしたら、3つに分かれている必要はありませんよね。そこで私は、カメラなどの三脚のように尾ひれが配置されているのだろうと思い至りました。そしてその3つの尾ひれは、それぞれが団扇みたいにパタパタ動くというよりはもっと柔軟に、クラゲが泳ぐときのような動きをするのだろうというところに落ち着いたのでした。

絵を描くにもどこがどうなっているのか、想像力が働かされるものですね。

【体験】自己受容~希死念慮と向き合い自己肯定感を高める過程~

社交不安障害と診断されて1年が経った、うつ病の 小柏まき です。

1年経つのに見つからない

診断されて数カ月の間は、一生リハビリをしていくしかないという事実に気持ちが沈んでいました。人生をどういうスタンスで生きればいいかわからないまま、1年が経ちそうになって、保留し続けているのも嫌になってきていました。

 

目次

 

 

症状としての希死念慮

診断を受けたのが昨年4月です。今年の4月には、希死念慮が強い日が続きウンザリしていました。

うつ病うつ状態には、希死念慮が症状として含まれます。もちろん人によってはその症状がまったく無い場合もありますが、私の場合は “頭痛が酷い日” と同じようにあるものです。

 

頭痛が酷い日には、頭の痛さで目覚め、薬が効いている間しか痛くない状態でいられません。また、薬を飲めば必ず効くとは限りません。こういった頭痛が酷い日は、今回のうつ病の治療を始めたばかりの頃に比べて大分減っています。これは地道な治療の成果だと思います。

 

希死念慮も症状の一つだとわかっています。ですが、頭痛のように頓服をもらっているわけではなく、どうにか遣り過ごすしかありませんでした。希死念慮を痛みに例えると、のたうち回って耐えるしかない感覚です。

冷静になった今考えれば、抗不安薬を頓服として使用するのが精神科治療としては適切だったのかもしれません。

 

 

根本的に、希死念慮が湧いてくる仕組みを変えるには、自分の何かを変えなければと、あがいてみました。

精神疾患を抱えている人が多いツイキャスを聞かせてもらうことがよくあるのですが、そこで「希死念慮」についてや「自己肯定感を高めるには」などなど質問させていただきました。すると、何人もの人が、心と時間を使って話してくれました。

 

 

人の話を聞くことの下手さ

HSPと呼ばれる人間の特徴かもしれませんが、私は人の話を聞いていると、相手の雰囲気にのまれてしまって心がとても動かされます。声の調子などから、話し手のこちらへの気遣いや、自己開示してくれていることの心の痛みを、自分のモノのように感じてしまい、元々の自分を見失ってしまいます。

そして話し手のことを想像して感情移入してしまうので、すべてをそのまま受け取ってしまい、反射的に相手の助言を自分にそのまま当てはめようとしてしまいます。

しかしこれは厄介なもので、話し手がしている話はその人個人のことであり、私個人とは状況も何もかも違っている場合がほとんどです。よって、話し手の気持ちを想像して感情移入して泣きながら聞いていても その想像がただの私の妄想である場合や、内容が話しの発端である現在の私にそぐわない場合があります。にもかかわらず、相手の好意や善意や心の痛みを強く感じてしまい、どの部分が自分に当てはめるべきアドバイスなのかわからなくなってしまうのです。

 

有り難いことに、何人もの人が心と時間を使っていろいろな言葉を掛けてくれました。その場で感情的に受け取って、活かせないのは勿体なく失礼なことです。冷静に整理して受け取るために、何日も時間をかけてアーカイブに残った録音を数十回聞き直しました。

幾つものアドバイスをもらいました。それぞれを自分なりに取り入れていきたいと思います。

 

 

わかったこと

ここでは、大きく分けて2つのわかったことに焦点を当ててみます。

  1. 希死念慮は感情として湧いてくる
  2. 合理的な考えをすべて感情に反映できたら不安障害は存在しない

 

一つ目の、「希死念慮は感情として湧いてくる」は、希死念慮のすべてが感情からなっているという意味ではありません。今回、私を悩ませている希死念慮は、湧き上がってくる強い感情なのだと思いました。

 

二つ目の、「合理的な考え」というのは、「○○する必要はない」というような頭でわかることです。「○○する必要はない」と自分に繰り返し言い聞かせて慣れていくことで、少しずつ感情をコントロールできる部分もあるでしょうから、頭で理解することにも意味があります。しかし、理解しているからといって感情をコントロールできるとは限らないのです。

不安障害には、パニック障害や恐怖症などがありますが、ここでは高所恐怖症に例えます。高所恐怖症の人が建物の高層階の窓から外を見下ろして、恐怖で呼吸が浅くなったり鼓動が早くなったりするとき、頑丈な建物の中に居て安全であることや、高層階の窓は嵌め殺しだから自分の身体が落下することはないことを、理解していないから恐怖を感じるのでしょうか? 頭ではわかっていても、だからといって簡単にコントロールできない。それが強い感情です。

 

 

 

ここでようやく気がつきました。感情をコントロールしようとばかりしていた私は、間違っていました。

希死念慮をどうにかしたい」と思い過ぎて、希死念慮を持ってしまう自分を否定的にしか捉えられていませんでした。

これこそが、認知の歪みだったのでした。

 

 

今度は、失恋した友人の悩み相談という名の慰めの会を想定してみます。

好きな人に振られて泣きじゃくる友人に、どんな言葉を掛けるでしょうか?

「どうしてそんなに傷ついてるの?」「好きだからツラいなら好きじゃなくなるといいよ」と言うでしょうか?

強い感情の中にある人に、その感情を抑える話をしても、「受け止めてもらえない」「否定されている」と受け取られて、感情を感じ切ることができなくなっても仕方ないでしょう。その助言が善意によるものであるか否かや、理にかなっているかは、別の問題なのです。どうにもならないことで感情が溢れるのは、心の健全な働きなのですから。

強い感情に苛まれる自分自身に、「そんな感情を持つのはやめなよ」と、私は言い続けていたようなものでした。

 

 

 

Twitterでフォローしている心理系のbotアカウントのツイートでも、日常的に恐らく目にしているはずのことが、私には出来ていませんでした。

感情を感じることは悪いことではなく、その感情をちゃんと感じ切ることは、人生を歩んでいく中で大切なことです。逆に感情を抑えつけて遣り過ごそうとすると、自分で納得して次のステップに進むことの妨げになったりするものです。

 

私は今まで、「病気を治したい」「自分を変えたい」と少しずつ考えグセを矯正してきたつもりです。ですが、病気になってしまった自分・障害の苦痛に耐え続けて生きてきた自分を、認めて受け入れてあげることを疎かにしていました。

 

感情を感じている自分を認めてあげなければ、と思いました。

「○○でなければいけない」という考え方は、うつ病患者が自分自身にプレッシャーをかけてしまう、やめるべき思考グセだといわれますが、ここで私が思った「自分を認めてあげなければ」は「自分を、大切な誰かを扱うように扱ってあげよう」という肯定的なものでした。

 

 

私は自己肯定感が低く、自己肯定感を高める方法を探していました。

自己肯定感を高めるために必要だったのは、自己受容でした。

自己受容は、自分のいいところも よくないところも許して受け入れることです。それが出来て初めて、いろんな側面を持った自分を肯定する自己肯定感を高めることができるのです。

 

 

 

そんな今

この考えに至ってから、以前のような希死念慮に支配されることが今のところ無いのは、たまたまかもしれません。

 

思い返せば、今回のうつ病の初めの頃は、感情を感じることができませんでした。怒る気力も泣く集中力も、ありませんでした。当時は自分が強い感情について悩むときがくるとは思ってもみませんでした。

時間をかけて、治療が進んでいるんだなと思います。

 

 

 

関連記事を貼っておきます↓

 

ogasiwa-maki.hatenablog.com

 

 

ogasiwa-maki.hatenablog.com

 

 

ogasiwa-maki.hatenablog.com

 

儀式を必要とする人間【強迫】

不安障害の 小柏まき です。

強迫性障害や社交不安障害、高所恐怖症や、パニック障害も、不安障害という大枠に分類されるそうです。

私は強迫性障害と社交不安障害に主に悩まされていますが、今回は強迫性障害の儀式行為と、高所恐怖症に触れていきます。

 

 

 

近頃はどのメディアを見ても新型コロナウイルスの話題が多いですね。

日本人の危機意識も高まったところで緊急事態宣言が出た印象でした。

少し前、『咳エチケット』や『正しい手洗い』をよく見聞きする時期がありました。

 

 

『正しい手洗い』については、毎年冬頃にテレビやネットで、インフルエンザ予防や風邪予防の情報として見かけます。

そういうのを見ると、「小さな子どもに正しい手洗いをさせるのは難しいことなんだろうな」とか「小中学生になっても、なかなか正しく手洗いしていない子もいるんだろうな」「高齢で、ハンドソープが日常にある生活に慣れていない人も多いのかも」と思ったり、自分の手洗い方法も意識的に見直したりしていました。

 

今回の新型コロナ関連で『正しい手洗い』を強く呼びかける情報を目にしていました。そして、「正しい手洗い方法がわかったから実践しよう」という手洗いに対して前向きな言葉も見かけました。

そこで私には、多少の違和感がありました。

 

今まで『正しい手洗い』ができていなかった人の中で、意識すれば簡単に『正しい手洗い』ができる人が少なからず居るのではないか? と。

……そういう人が今までしていた手洗い、それこそ儀式行為だったのではないでしょうか?

外から帰ったとき・トイレから出るとき、水を流して手にかける。しかし一般に言われる『正しい手洗い』の効果は得られていない、不十分な手洗いは、「そうしないと、なんとなく気持ちわるい」とか「手を洗うよう注意されたくない」という気持ちを解消するための儀式なのではないか。と思ったのでした。

いやもしかしたら、不十分な手洗いをしていてもそれが不十分であると知らなかっただけで、ちゃんと満足感を持っていた人も居るかもしれません。

どんな人のことも、ここで批判するつもりは全くありません。儀式行為は意外と、誰にでも身近にあるものなのではないかと思ったのでした。

 

 

強迫性障害の不潔恐怖は、「きれい好き」とは違うと思います。決定的に違うのは、“ありもしない” 強迫観念に悩まされ、それを消し去ろうと儀式行為をするところです。

不潔恐怖症の人が必要以上に手を洗っているとき、もちろん個人差はあれど、普通ではないことをしている認識が本人にあって、それを苦痛に感じている場合が多いのではないでしょうか。「こんな無意味なことをしている自分は頭がおかしい」「ハンドソープも水道水も時間も労力も無駄にしている」「手が荒れて痛いのにまたやってしまった」などと思っているのに、日常生活に支障をきたす恐怖に支配されてしまうのです。

逆に、こうした苦痛を感じずに必要以上の儀式行為をしている人、それをすることが楽しい人は、治療の必要はないでしょうし、強迫性障害と診断される機会もないことでしょう。

 

 

 

私は高所恐怖症なのですが、頭では安全だとわかっていても高さを感じるとリラックスしていることが出来ません。

自分でも意外だったのは、数年前に映画館に行ったときに、座席の空き加減から後ろの方の席に座った途端に恐怖でじっとしていられなくなったことでした。座ってみるまでは後ろの方の席が “高い所” だと感じるとは思っていませんでした。

上映開始が近くなり、映画館の照明が落とされて暗くてなったとたん、ソワソワと落ち着かず浅い呼吸しかできない状態から解放されました。この場合は不安を払拭する儀式行為は無く、出来る対処法としては視界を遮ることくらいでしょうか。

 

 

合理的な考えを、気持ち・感情に漏れなく反映できたら、不安障害も存在しないのだと思います。

 

 

精神疾患によって往来する様々な感情や衝動をコントロールできないことに、モヤモヤしていました。無益なことをしている、自分にとってマイナスになることに捕らわれている、自覚があっても自分を変えるにはまだ時間を要しそうです。

認知行動療法や暴露療法と呼ばれる精神療法は、このためにあるのでしょう。しかしながら、対面で会話する療法は専門家の少なさと金銭的負担から、受けづらいという難点があります。

 

自分のことを話すと、真摯に向き合って時間と心を使ってくれる人も、この世の中には居て、そういう人と巡り合えることが人生における “救い” のひとつなのだと思います。

根本的にほぼ解決した状態までもっていくのは、自分自身だと思います。病気・障害と適当に折り合いをつけていきたいと、思っています。

【比喩】お粥が飲み込めない苦しさ【精神疾患】

少し前の私には、食べようとした物が喉に詰まって苦しかったり、多くの人が摂っている栄養が摂れなかったり……というような感覚が強くありました。苦しくて悲しくて、何時間も泣いて過ごしたりしていました。

 

ここでは考えを調理していくために、情報を栄養に、多くの人が受け取りやすい媒体をお粥に、例えたりして扱います。

「栄養=知りたいこと」「お粥=全て平仮名で書かれた文章」などと置き換えられます。

 

感覚過敏HSPなどの人は、もしかしたら共感する部分があるかもしれません。

 

 

 

徐々に変化する心の声(呟き)

考えすぎとか言われることあるけど、考えようとしてジックリやってるわけでも何でもなくて、一瞬でそこまで思っちゃうのはどうやって訓練すれば矯正できるの?

 

多くの人が受け取りやすい媒体から情報を受け取る能力がない。

高い観察力なんかいらないから、有用な情報が欲しいし、情報が有用かどうか判断する材料くらい欲しい。

ずっと治そうと努力し続けてるはずなのに、できない。

どうせまたバカにしてるとか人のせいにしてるとか思われる。死にたい。

 

私にはずっと同じことを話しているつもりでも相手には「飛躍し過ぎ」と思われる。

別の話を織り交ぜて話を進めたせいで、意図が不明確になったのか。

嫌なものに触れないということは、今すぐ死ぬしかない。自分が嫌なのだから。

人が嫌なのではない。人を通して自分を見てる。

 

夢の中で、知人たちが外国語で話していた。私にはわからない外国語。理解する能力が無い。みんなが当たり前にしてきた努力をしてこなかった。

お粥が飲み込めないみたいな、栄養がとれなくて困ってる。それなのに「あなたは美食家ですね」と言われているような。

誰にも理解されないんだ。

 

『「目には目を」を実行していたら、世界中の人の目が見えなくなってしまう。』

だかなんだかって、キング牧師は言ったんだよね。

「だったらみんな目が見えなくなればいい」って気持ちが少し。

「だから自分の目が潰されても我慢するのが平和主義ってことなんだ」って気持ちも少し。

 

つまり、嫌なら視界に入れなきゃいい、っていうのを実行したら、視界自体を閉ざさなきゃいけないんじゃないかって……。

 

或る お粥が飲み込めないから、そこにある栄養が摂れないと思ってすごく悲しかったけど、違うわ。ちゃんと美味しいお米と水で作られてれば食べられるし、おじや なら美味しくて好きですらある。

仮説だけど、私の問題じゃないのかもしれない。

原因を内に求め過ぎだ。

 

自分の能力の無さを、できないって事実も、それを理解されない悲しさも、そんなに大きなことじゃないのかも。

誰だって食べられない物もある。

好きじゃないって理由で嫌いな物が食べられない人を、アレルギーがあって食べられないからって羨む必要はないのかも。どっちにしろ、食べられないんだから。

 

でも羨ましいのよね。

拒否された側の料理人は、嫌いとアレルギーの差がわからなくて、「グルメですね」と言って適当に褒めてくるのが、悲しくて仕方なかった。

わかってもらう努力なんて要らない。わかるわけがない。わかってないことに気づいてないんだから。

 

そのお粥が食べやすい、美味しいって言う多くの人に、愛されていればいいんだ。そのままでいい。

こっちは飲み込めないものを口に入れないように、避けていくしかない。

【うつ病】依頼絵にチャレンジ

趣味でときどき絵を描き、Twitterにイラストを投稿したりする、 小柏まき です。

 

Twitterでフォローさせてもらっている うつ病ブロガー たぐさんのツイートを見たことが、今回の行動のきっかけでした。

それは、ブログで使うプロフィール用のイラストの描き手を募集しているという内容でした。

 

 

募集内容は、うつ病などの精神疾患で、現在働くことができていない人を対象としたものでした。うつ病ブロガーたぐさんは、ご自身の経験から うつ病で療養中の人向けに情報発信したり仕事の機会を提供する活動をなさっている方で、プロフィール用イラスト制作者の募集もそのひとつなのでした。

元々絵を描くことが好きな私はすぐに、チャレンジしたいと思いました。

 

 

しかしながら、応募するまでには幾つかのハードルがありました。

 目次

 

不安の正体

まず、私自身の画力に関する不安。次に、持病による不安。そして、知識も経験もないという不安。不安の正体は、大きく分けてこの3つでした。

 

画力に関する不安

絵を描くことが好きでも、学生時代に課題で描いた以外には、趣味として気ままに描くことしかしていませんでした。

私なんかが描いた絵は、報酬を受け取る価値が無いのではないか。という気持ちが、最初は強くありました。

 

今回の企画でよかったのは、応募した中から依頼される人にのみ返信があるということでした。

応募者側からは、自分以外の人の応募状況がわかりません。これで、他の人と自分の絵や画力を比べようがありません。また、返事が貰えれば、「応募者が一人しかいなかったから仕方なく選ばれたに過ぎない」などの考えは妄想でしかなく、選んでもらったという事実しかわからない、ということでした。

 

持病による不安

私は、うつ病治療中ですが、その根本には社交不安障害や強迫性障害があります。

何かを誰かとやり取りして進めていくには、コミュニケーションを避けては通れません。今回はTwitterのDMでやり取りをしました。口で喋ってしまえば数秒で済むようなことも、文字にすると長くなるものです。「大したことではないけど少し気になる」という程度のことは訊いてみるべきか否か、いちいち迷ってしまいます。また、やり取りの中で自分が実は大きなミスを見逃しているんじゃないかという不安が湧いてくるので、私は毎回スマホのメモにDMで送りたい内容を作文して、それをコピペして送っていました。作文の段階で落ち着くために一旦スマホから離れて、時間を空けることもありました。

返信に時間がかかること・制作期間中に具合が悪い日が来るであろうこと、これらが私自身気にならないではありませんでしたが、依頼人のたぐさんが精神疾患に理解があると信頼を置き甘えさせてもらうことにして、自分にプレッシャーをかけ過ぎないようにしました。

 

知識も経験もない不安

趣味で絵を描くのは、自分が満足するためです。ところが、依頼を承るというのは相手のあることです。

今までに依頼してもらって絵を描いたことがない私には、どういったやり取りや決め事が必要なのかもわかりませんでした。また、絵の値段相場もよく知らないため、どういったスタンスで取り組めばいいのかもピンときませんでした。

 

イラストレーターさんや絵師さんと呼ばれる人は、一つの作品に対してどれくらいの報酬を受け取っているのでしょう? どうやらこの話題は、いろいろな場で議論の対象とされているものらしくネット検索すれば情報は出てくるものの、確たる正解があるものではなさそうです。

 

どうしたものか、と思った私は、人に頼ることにしました。絵を描く他の人は、この募集についてどう思っているのか? と、相談させてもらいました。

すると一人の方が、「イラストの報酬としてこの値段は高額なほうではない」と教えてくれました。経験的知識のある方の正直な言葉に、無知な私は目から鱗が落ちました。私は自己評価が低いあまりに、一般的な情報を得ても自分に適用することができなかったのです。簡単に言うと、他の人が描いた絵には相応の価値が発生して然るべきだと考えるのに対して、自分の描いた絵には “そんな価値は無い” という思考に陥ってしまっていました。どうやら、認知の歪みがあったようです。

 

 

応募から受注・制作

DMで自己紹介・自己PRをして、ご依頼いただく運びとなりました。

具体的な絵のイメージは、「横顔か、視線を少し外したようなイラスト」「雰囲気としては、男性が考えている感じ、ちょっと物思いにふけっている感じで、優し気な雰囲気が出せたらいいと考えています。」とのご要望でした。

制作期間は2~3週間、ということで、3週間後には最終的な完成版をお渡しすることになりました。

 

気になることがあればご相談しながら、進めていきました。

時間的には充分余裕がある印象だったので、肩に力を入れ過ぎずに少しずつ……やっていきたかったのですが、それが難しいことに気づくのは数日経ってからでした。

 

0か100か

自分では気合を入れているつもりも頑張っているつもりもなく、むしろ小さな力で時間をかけてやろうと思っていながら、絵に取り掛かってから気がつくと完全に集中していて、何時間も経っているのでした。そしてそこには、やった分だけ進んだ絵と、ヘトヘトに疲れた自分が居るのでした。

 

少し長い距離を走るために、軽いジョギングを続けていきたいのに、目の前に走るべき道があると全力疾走してしまい、短距離で休憩しなければいけなくなるのでした。

車の運転に例えると、軽い力でアクセルを踏んで程よいスピードで進むことが、出来ていないのです。

 

私は疲れを感じた日や、ポジティブな気持ちで描き始められない日には、絵には全く手を付けないことにしました。

 

本当にこれでいいのか

段々と完成に近づくにつれて、本当にこれでいいのだろうか? もっと出来ることがあるのではないか? と考えるようになりました。

そこで、「提示された報酬額が仮にもっと高額だったなら、きっとそれに見合うために努力をしなければいけないような気持ちになっただろうな」と想像しました。そうです、多分この報酬の提示額は、必要以上のプレッシャーを感じさせないために設定されたものなのだと、思い至りました。

 

 

完成

最初のDMを送ってから15日後に出来上がった絵はこちらです。

f:id:ogasiwa_maki:20200313193626p:image

 このイラストをお使いいただいたブログ記事はこちら↓

tagunari.com

私のこともご紹介くださっています。

 

 

感想 

やはり、絵を描くのは楽しかったです。楽しみながら出来上がったものを、お使いいただけるのは嬉しいことです。

私自身、反復性うつ病性障害と社交不安障害と強迫性障害で、低い自己肯定感をどうにか高めていきたいと考えているタイミングでもありました。

たぐさんの今回の企画と出会えて、好きな “絵を描くこと” で認めてもらえて、自己実現というと大袈裟かもしれませんが、とても励みになりました。

自作のもので金銭を受け取るなんておこがましいと最初は思っていましたが、その価値があるものをご提供できればと、いいやり甲斐になりました。


たぐさんとのやり取りでは、お褒めいただいたり喜んでくださったりして、終始うつ病患者の個人に対するお気遣いを感じました。

報酬額のお心遣いも有り難く、有意義に使わせていただこうと思います。


この度は本当に有難い機会に恵まれたと、関わってくれた方々に感謝しています。

 

自己肯定感を上げるにはどうすればいいか、自分はどう社会参加することができるのか、まだまだこれからも手探りが続くと思いますが、こうした小さなハードルを幾つも越えていくことで “強い自己否定感” を薄めていけたらいいなと考えています。